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医学の専門家ではないが、自分の身体の専門家になる。なでしこの支柱・猶本光が見据える未来(後編)

2024.05.11

猶本光(30=三菱重工浦和レッズレディース)は、日本で行われたU-20W杯(3位)で一躍脚光を浴びた。しかし、20歳で「なでしこジャパン」に初選出された新鋭MFはその後、W杯、オリンピックには選出されず、9年後の2023年、初めてW杯代表となった。大舞台でこれまでのキャリアで築き上げた能力を存分に発揮しベスト8入りの原動力となり、「遅咲きのエース」としてパリ五輪での活躍が期待された矢先に負った大怪我……。後編では、自身の怪我すらを糧に調べ、学び、発見して成長へつなげるという強い思いを伝えたい。

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 猶本光は「たとえ五輪前の大怪我で出場できる可能性がわずかになっても私には絶望ではなかった」と振り返る。メディアは、怪我によってパリ五輪には間に合わない事態を「絶望」、「絶望的」と表現したが、本人にとって絶望の理由が違った。

 「この怪我で、もう自分がこれ以上成長できなくなってしまうのではないか」

 30歳が抱えた本当の絶望感はこれだったという。怪我をする前と同じレベルには戻っても、サッカーでの成長を日々実感できる困難なトレーニングにまた挑めるかは未知数だ。

 「もしできないのなら引退しよう」と覚悟を決めて手術、リハビリに臨んだ今、MFの視野はパリ五輪よりさらにその先へ広く、長く広がりつつある。

 絶望の中身の違いは、メディアや周囲の評価や価値を置くものと、猶本が使っている「スケール」(ものさし)の根本的な相違を示す象徴的な例なのかもしれない。

 2010年、16歳で出場したU-17W杯トリニダード・ドバコ大会では、決勝まで全6試合に出場。韓国との決勝では先制点も奪い、国際舞台に準優勝でデビューをした。

 12年に日本で行われたU-20W杯では一躍脚光を浴びる。11年にW杯優勝を果たした日本代表「なでしこジャパン」は女子サッカーの機運を高め、若い代表も「ヤングなでしこ」と呼ばれる。テレビ中継も毎試合行われ、国立競技場での3位決定戦には、女子の、しかもユース世代の試合としては異例の2万8000人が集まった。ティーンエイジャーだったMFはその中心的存在となった。

 2年後の14年には、期待通りなでしこジャパンに初選出され、20歳のキャリアは極めて順調で、W杯や五輪で活躍する中心選手になる日も近い。評価は高まる一方だった。しかし、ところどころで使うスケールの違いは小さな誤差を生み、やがて修正が難しいズレを生む。本人が「まだそんなレベルじゃないんです」とか「私はアイドルじゃありません」とでも言えれば誤差も多少は縮まったのかもしれないが、猶本にとってもっとも重要だったのは反論より沈黙し、サッカーの質を上げるために自問自答を繰り返す方だったのだろう。

2014年4月、猶本はニュージーランドとの親善試合でなでしこジャパンデビューを飾った(Photo: Getty Images)

 トップ選手としての評価は揺るがなかったが、W杯も、移籍先のドイツから帰国して準備した東京五輪も「有力候補」のまま、落選が続く。なでしこ初選出から9年の23年、池田太監督が指揮するW杯オーストラリア・ニュージーランド大会代表に初選出された。

 会見でコメントした際「涙は枯らしてきたんですけれど……」と涙をこぼすと、苦節9年でW杯にも五輪にも落選した日々で「涙はもう枯れ果てたのに」と感極まったのだと解釈され感動的な物語が広まった。

 これもまた、しかしどこかユーモラスな「スケール違い」だった。W杯への長い合宿がスタートした日、猶本は取材に対応し申し訳なさそうに明かした。……

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三菱重工浦和レッズレディース猶本光

Profile

増島 みどり

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年独立しスポーツライターに。98年フランスW杯日本代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞。「GK論」(講談社)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作多数。フランス大会から20年の18年、「6月の軌跡」の39人へのインタビューを再度行い「日本代表を生きる」(文芸春秋)を書いた。1988年ソウル大会から夏冬の五輪、W杯など数十カ国で取材を経験する。法政大スポーツ健康学部客員講師、スポーツコンプライアンス教育振興機構副代表も務める。Jリーグ30年の2023年6月、「キャプテン」を出版した。

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