「サッカーに政治を持ち込むな」の根源的矛盾。人種差別、ロシア除外、Japan’s Wayに潜む複雑性
小笠原博毅(神戸大学教授)インタビュー
サッカーファンの間で弄される「サッカーに政治を持ち込むな」という警句。一方でW杯が開催されているカタールの労働環境が取り沙汰されたり、BLACK LIVES MATTERへの連帯を示す膝つきジェスチャーが試合前に行われたり、戦争を起こしたロシアの国際試合参加が禁止されたりと、社会問題がスタジアムやピッチに見え隠れしているのは紛れもない事実だ。この一見正論に聞こえるフレーズの下で単純化されている、サッカーと政治が織りなす複雑な関係について、神戸大学でカルチュラル・スタディーズを研究する小笠原博毅教授に話を聞いた。
※『フットボリスタ第92号』より掲載。
サッカーは世界を1つにしない
──「サッカーに政治を持ち込むな」という警句があります。このフレーズに対し、どのような考えをお持ちですか。
「『政治を持ち込む』と言う時、そこには持ち込む主体が想定されています。しかし政治というのはそもそも、誰かが持ち込むか持ち込まないか、というものではないはずです。議会制民主主義や特定の政策を実現するのとは別の次元で、複数の人間が広い関係を築く中で特定の人たちが特定の利益を追求し、そこで折衝をすることで何か結果が出る。それが政治ですよね。
サッカーの現場では、少なくとも22人の選手がピッチを駆け回り、それを応援するサポーターが大勢いて、審判やVARがいる。それぞれが個人という資格で、各チームのプレーヤーとして役割を果たす。政治の入り込む余地はないと思うかもしれないけれど、では『個人である』ということはどういうことか。あなたは記者ですよね。では記者であるとか、男であるとか、そういうものをすべて括弧に入れて『あなた個人の自己紹介をしてください』と言われたら?今括弧に入れた言葉を使わざるを得ないと思います。客観的で中立で完璧な個人は存在しません。自分自身を語る時、特定の意味が必ず個人に背負わされてしまう。その個人が複数集まる時、政治は必ず起こっています。
さらに言えばサッカーというスポーツの成立と近代社会における受容の過程そのものが、そもそも政治的過程を踏んでいます。ここであらためて『政治を持ち込むな』と言われる時、誰が何を持ち込ませたくないのかに注目しなければいけません」
──直近のサッカーと政治、社会の関わりでいえば、FIFAはカタールW杯に向かう過程でスタジアムの建設に関わる労働と人権の問題に直面しました。また、BLACK LIVES MATTERに呼応する「膝つきジェスチャー」など、一部の政治的パフォーマンスを許容する動きを示しています。これらの流れをどのように捉えていますか。
「この動きはまさに、何が持ち込んでいい政治で、何が持ち込まれたくない政治なのかを当事者である選手が決めることはできず、FIFAやUEFAを含めた各地域のサッカー統括団体などが決めていることの一側面です。ここでトリッキーなのは、例えばBLACK LIVES MATTERに呼応する膝つきのパフォーマンスが許されているのは、これを最初に行った(NFL選手の)コリン・キャパニック以降、(キャパニックをサポートする)ナイキが取ってきたポリティカリーコレクト(政治的に寛容)な路線が、グローバル資本主義における1つのエモーショナルな商品になるからだということです。またFIFAの判断は、単に資本の流れにおもねるというより、それによってサッカーのブランドイメージが上がり、政治的に正しい方向に進むという時の資源になるということでもあります。
一方、バングラデシュやパキスタンの労働者がカタールでどのように扱われてきたかを考える時、サッカーをする場がどのように作られてきたかに注目しなさ過ぎる問題があります。出来上がった場で何が行われるかには神経を尖らせ、称賛も嫌悪も表すが、現場がどのようなプロセスで作られるかには、あまりにも注意が向けられてきませんでした。ただカタールW杯に関しては、フィンランド代表のリク・リスキが『俺は行かない』と言ったり、カタールでフレンドリーマッチをする予定だったチームがそれを中止したりしている。それが選手なのか、チームや協会なのか、どのレベルで意思決定されているのかはわかりませんが、少なくとも多くの人が目を引くイシューにはなっています」
── 小笠原教授のお話で印象に残っているものの1つが、2014年ブラジルW杯の動画CMです。ストリートサッカーをしている子供が、パスを繋ぎ、ボールは最後、試合は行われるスタジアムに吸い込まれたところで映像が終わる。教授はこれを「スタジアムに入ることができない人の物語だ」と話していました。
「ブラジルW杯の動画CMは、サッカーはスタジアムに入ってチケットを買い、プレーするものを見ることに限らない、メディアコンテンツとしてプロモートすることを協会が是としている証明です。意識すべきは、これらは世界のサッカーの潮流に一切矛盾しないということ。今回のカタールW杯も様々な問題があるものの、商品としてのサッカーを中東地域に持ち込むことで、その後起こり得る良いことの方が問題よりも重要だという判断になる。それはサッカーの裾野を広げることにも矛盾しません。サッカーが広くプレーされ、見られているということが、スタジアムに足を運ぶよりも、スクリーンを見ることによって達成されるのであれば、それは商品としてのサッカーの最も有効でクレバーな売り方であると考えられているように感じます」
──前回W杯を開催したロシアが、自らが起こした戦争によって今回のW杯欧州予選から除外されたことは、サッカーと国際政治のダイレクトな結びつきとして象徴的です。FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長は「サッカーが世界の問題を解決できると信じるほどナイーブではない」「サッカーは人間関係を再構築し、平和と理解を確立するために役割を果たすことができる」と話しています。
「ロシアの除外は、サッカーは世界を1つにしないことの証明であり、『サッカーに政治を持ち込むな』というのがいかに陳腐かというのを団体の内部から証明しています。そういう意味ではある種、サッカーのジャーナリズムがサッカーと政治の話を論じる時に、どうしてここまでのロシアバッシングを受け入れているのか、というのは一度検証した方が良いと思います。まさにスポーツと政治を混同している例で、それを主導しているのはサッカーの統括団体であり、自らが政治というのはマネージできないと告白しているようなものですから。ただその返す刀で、『スポーツの力』『サッカーの力』を喧伝し、それを評価してサッカーで友情を育むというのは当然、スポーツウォッシングになってしまう。スポーツの力がいかにスポーツウォッシングになるか、ということにも注意しないといけません」
歴史の決定因は過去ではなく現在
──ここまで主にFIFAら統括団体と政治についてうかがいましたが、次は「代表」を巡る資格づけについてうかがいます。W杯をはじめとする国際大会は、最初に僕が聞かれた「自己紹介」の部分、つまり誰が何を代表しているのかということが明らかになる場面です。そこで働く政治性が顕著に現れた瞬間として、昨年のEURO2020決勝のイングランド代表について聞かせてください。イタリアと決勝を戦ったイングランドは、PK戦でブカヨ・サカ、マーカス・ラッシュフォード、ジェイドン・サンチョの3人が失敗し、戴冠を逃しました。これに対し、彼らが黒人選手であるという理由で激しいバッシングや差別的な誹謗中傷が起こりました。……
Profile
邨田 直人
1994年生まれ。サンケイスポーツで2019年よりサッカー担当。取材領域は主にJリーグ(関西中心)、日本代表。人や組織がサッカーに求める「何か」について考えるため、移動、儀礼、記憶や人種的思考について学習・発信しています。ジャック・ウィルシャーはアイドル。好きなクラブチームはアーセナル、好きな選手はジャック・ウィルシャー。Twitter: @sanspo_wsftbl