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19歳で味わった地域決勝のシビアさ、岡山で経験したJリーグ昇格の感慨、讃岐で取り戻した自分への自信。ギラヴァンツ北九州・喜山康平インタビュー(中編)

2025.11.20

土屋雅史の「蹴球ヒストリア」第1回(中編)

元Jリーグ中継プロデューサーで「最強のサッカーマニア」土屋雅史が多様な蹴球人の歴史を紐解く。サッカーに生きている人たちが、サッカーと生きてきた人生を振り返る、それぞれがそれぞれに濃密な物語の結晶。『蹴球ヒストリア』の世界へ、ようこそ。

今年でプロキャリアは20年目を数える。小学生のころから輝く将来を嘱望され、サッカー選手を職業にしたレフティは、さまざまなクラブとの出会いと別れを繰り返し、37歳になった今でも、真摯にボールを追い掛けている。喜山康平の濃厚なサッカーキャリアを網羅したロングインタビュー。中編ではルーキーイヤーを過ごした東京ヴェルディを皮切りに、地域リーグからJリーグ昇格までを味わったファジアーノ岡山での4年間、JFLのカマタマーレ讃岐で過ごした4か月など、プロキャリアスタートからの6年を回想してもらう。

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ラモス瑠偉に圧倒され、柱谷哲二に鍛えてもらったルーキーイヤー

――2006年にヴェルディのトップチームに昇格しました。そうすると、プロ1年目のスタートはケガから入った感じですか?

 「そうですね。グアムキャンプだったんですけど、その時の監督だったラモスさんが全員連れていくという方針で、日本に残る選択肢もあったと思うんですけど、グアムでリハビリしていました。18歳の若造が贅沢ですよね(笑)。でも、メチャメチャ肩身は狭かったですよ」

――昔から見ていたラモスさんがプロ1年目の監督というのは、実際にどういう感覚だったんですか?

 「とにかく怖かったですよ(笑)。半分おびえていた部分もあったんですけど、それと同じぐらい『この人に認められたい』と思っていましたね。ラモスさんは自分がスーパーなので、もちろん求めている技術のレベルも高いですし、実際にかなり厳しく言われることもありました。

 セットプレーの練習で左利きがいなくて、相手役として僕が蹴ったんですけど、全然良いボールが飛ばなくて、あの言い方で本当にボロクソに言われて(笑)、その時は委縮しましたね。コーチにいた都並(敏史)さんは僕が高2の時の監督なので、『都並!アイツどうなってるんだよ!』とか言わせちゃいましたし。

 そのシーズンはACLもあって、40人ぐらい選手がいたんです。あの時期は2年前の天皇杯で優勝したチームが、2年後のACLに出るという特殊な時期で、僕が昇格した年にチームはJ2に落ちてしまったんですけど、ACLもあったんですよね。もう完全にトップとサテライトを分けていて、練習時間も違って、だいたい僕らサテライトは午後の練習だったんですよ。柱谷(哲二)さんがサテライトの監督で、今はレッズにいるフィジカルコーチの石栗(建)さんにみっちり鍛えられました。

 結局、高3の秋には両足の手術をしたんです。左の中足骨は完全に折れていて、右はヒビが入っていたんですけど、右も折れる可能性があるから、両方やっちゃおうということになって。ただ、思ったよりリハビリがうまく行かなくて、結局3月ぐらいまで掛かってしまって、6か月近く休んでいたんです。

 復帰してからもすぐには自分の思うようには動けないですし、プロのレベルで練習していたこともあって、ある時ヒザが痛くなってしまったんです。それで病院にMRIを撮りに行ったら、何も写っていなかったんですよ。それでも別メニューで練習しようとしたら、柱谷さんに『何も写っていないんなら練習やるぞ』と言われて。そうしたら意外と普通に練習できたんですよね。

 そのころは痛みに敏感になっていましたし、今ならサッカー選手は痛いのが当たり前というのもわかるんですけど、自分は明らかにそこの耐性が弱くなっていたことを気づかせてもらったというか、『今まで敏感になっていたんだな』というのを感じさせてもらって、そこからケガの痛みに勝てるようになりました。

 サテライトでも練習試合はずっと毎週末に組んでくれて、フォワードをやっていたので、『とにかく点を決めよう』と思っていましたし、身体もどんどん良くなっていくのがわかって、2部練で鍛えられた分、キレも良くなっていって、ほとんどの練習試合で点も獲っていたので、どんどん自信も付いていきましたし、どんどん成長しているのも感じていましたね。

 そういう時期だったので、『何とかトップの試合に絡みたいな』と思っていた中で、ラスト5試合ぐらいで昇格の可能性がなくなったんですけど、柱谷さんがずっと推してくれていたらしくて、リーグの最終戦でデビューできました。柱谷さんには凄く鍛えてもらって、感謝していますね。実はその最終戦の2日前ぐらいに、練習後にお風呂に1人で入っていたら、ラモスさんが入ってきて、2人でいろいろと話したのは覚えています。一瞬だけ『出ようかな……』と思いましたけど(笑)」

柱谷哲二とラモス瑠偉

――最終節はザスパ草津戦ですね。廣山(望)さんとの交代で、永井秀樹さんと一緒にピッチに入っています。

 「そうだった!個性強いメンバーだな(笑)。その時は負けていて、自分がファウルをもらって、PKを獲ったんです。結局マルクスが蹴ったんですけど、倒れて、パッと見たら、もうマルクスがボールをセットしていました(笑)。試合後には柱谷さんから『何でPK蹴らなかったんだよ』と言われましたけど、やっぱり外国人選手だなって。

 でも、その試合は相当自信になりましたし、サテライトで結果を出すことである程度自信を持てていた時期だったので、『Jリーグだからといっても、そんなに変わらないんだな』ということは実感できましたね。『ある程度できるかもな』という手応えは掴んだデビュー戦でした」

プロ2年目は地域リーグを戦うファジアーノ岡山へ

――2007年のプロ2年目がファジアーノ岡山との最初の接点ですね。その年のファジアーノはまだ中国リーグに所属していたわけで、当時はカテゴリー的にもあまりないような移籍だったと思うのですが、この年にファジアーノに期限付き移籍をした経緯を教えていただけますか?

 「今から考えても、よく行ったなと思いますね。池上(三六)さんという岡山のGMの方がいて、その方が前の年までヴェルディにいたんです。なので、池上さんは僕を知ってくれていて、何人かヴェルディの若手を岡山に呼べないかということで打診があったと。

 もうヴェルディも始動していたんですけど、その年から入ってきたフッキとディエゴが、同じ左利きで、同じフォワードでしたし、特にフッキは一緒に練習してもレベルが違う感じもあって、たぶん僕は試合に出られないので、ヴェルディの強化部もどこか試合に出られる環境に行かせたかったんだと思うんですよね。その時に正直『ここではチャンスがないな』と思ってしまった自分もいました。

フッキ

 当時はレンタルという形の移籍もそこまで多くなかったですし、J3もない時代で、J2からJFLに行くような流れもそこまでなかった中で、代理人ももちろんいなかったので、自分で移籍先を探すようなつてもなくて。でも、クラブから『行ったらどうだ?』と言われた時に、『面白いかもな』と思ったんです。

 『ここでまったく新しい経験をしてみてもいいかな』って。ずっとヴェルディの恵まれた環境で育ってきたので、『長い目で見たら良い経験かもな』とは思いました。あとは弦巻(健人)と一緒にレンタルで行くというのも心強くて、良いパスを出してくれることもわかっていたので、そこまで悩まなかったですね」

――もちろん強化部には行かせたい思惑があったと思うのですが、周囲の人たちから「やめた方がいいんじゃない?」とかは言われなかったですか?

 「何人かの方に相談したんですけど、あまり否定的な意見はなかったと思います。そのくらいの年齢だと、相談した方の意見って凄く影響力があるじゃないですか。だから、僕は年齢を重ねて相談をされるようになっても、あまり自分の意見は言わないようにしています。

 自分の言葉に影響があるとかではなくて、たぶんその意見に傾いちゃうというか。本当にやめた方がいいなと思ったときには言いますけど、どっちでもいいかなという時は、『どっちもいいと思うよ。自分で決めな』って言いますね(笑)。それを思うと当時も否定的な意見はなかったのかなって。

 今考えても普通はしない決断だったと思いますけど、他のJ2のクラブに行く選択肢も、JFLのクラブに行く話もなかったですし、その中で岡山がメチャメチャ自分を必要としてくれていることはわかって、本気でJリーグを目指しているということも言ってくれていたので、それも大きかったですね。

 あとは池上さんの熱量です。もともとラグビーをやっていた方で、東大を出ていて、そこからサッカーをメッチャ勉強された方なんですけど、たぶんヴェルディにももうちょっと携わるはずだったと思うんですよ。でも、チームが降格したこともあって、そこから木村(正明)さんが呼んだんだと思います。木村さんと池上さんの本気度は19歳ぐらいだった自分も感じましたし、最後はあの人たちの熱量が決め手でした」

リーグ戦17試合27得点の衝撃。19歳で背負ったクラブの命運

――2007年の中国リーグは17戦17勝、89得点4失点で優勝しています。実際に行ってみたファジアーノは、率直にどうだったんですか?

……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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