1つ年上の盟友・林陵平との出会い、森本貴幸との2トップで獲った日本一、玉乃淳に感じた世界との距離、15歳で選ばれた年代別代表の回想。ギラヴァンツ北九州・喜山康平インタビュー(前編)
土屋雅史の「蹴球ヒストリア」第1回(前編)
元Jリーグ中継プロデューサーで「最強のサッカーマニア」土屋雅史が多様な蹴球人の歴史を紐解く。サッカーに生きている人たちが、サッカーと生きてきた人生を振り返る、それぞれがそれぞれに濃密な物語の結晶。『蹴球ヒストリア』の世界へ、ようこそ。
今年でプロキャリアは20年目を数える。小学生のころから輝く将来を嘱望され、サッカー選手を職業にしたレフティは、さまざまなクラブとの出会いと別れを繰り返し、37歳になった今でも、真摯にボールを追い掛けている。喜山康平の濃厚なサッカーキャリアを網羅したロングインタビュー。前編では東京ヴェルディのアカデミーで過ごしたジュニアからユースまでの時代を、数々のチームメイトや指導者との思い出を交えて、振り返ってもらった。
名古屋で始めたサッカー。小2で経験した初めての“移籍”
――今日は大いにキャリアを振り返ってもらいたいと思います。まずはサッカーを始めたきっかけから教えてください。
「きっかけは3歳の時ですね。父親は結構転勤が多くて、その時の僕は名古屋にいたんですけど、その父親が大学までサッカーをやっていたので、2個上の兄もサッカーをやっていましたし、そのころに公園や家の前の道路でサッカーをした記憶はうっすらとあります」
――ボールを蹴り始めたのは名古屋なんですね。それって知っている人います?(笑)
「たぶん誰も知らないですね(笑)。そこから割とすぐ横浜に移って、横浜からも1年ぐらいで川崎に引っ越したんですけど、そこで通っていた青葉幼稚園には放課後にサッカーをできる環境があったので、そこでチームに入って本格的にやり始めました」
――幼稚園で大会とかがあるということですか?
「そうですね。他の幼稚園のチームと試合していたと思います。親が撮ってくれたビデオを見ていましたし、スタンドみたいな感じに教室に囲まれていて、スタジアムみたいな感じが出るグラウンドだったので、雰囲気がメッチャ出ていたんです(笑)。その時の加藤先生が自分に優しくしてくれて、自信を持たせてくれるような、いい人だったのは覚えています。
それでサッカーが楽しくなりましたし、ちょうど年長のころにJリーグが開幕したんですけど、先生も僕がヴェルディを好きなことを知っているので、緑のビブスをくれたんです。しかも11番のものを。やっぱりカズさんが好きだったので、当時はカズさんになり切っていました(笑)。
家からも車で20分ぐらいでヴェルディグラウンドにも行けたので、ヴェルディはずっと好きでしたね。実は加藤先生が南百合丘SCというチームに絡んでいて、その人の影響もあって、自分の通っていた小学校のチームではなかったんですけど、そっちを選んだんですよ。ソウちゃん(相馬崇人)とか、近藤徹志さんもそこの出身なんですよね。
南百合丘SCはそのあたりの地域では結構強かったですし、5つ上の世代ぐらいは全国にも出ていて、それを見に行って応援していたのは覚えています。でも、僕は真福寺小学校に通っているので、昼休みにサッカーをしている友だちと、試合では対戦することになるじゃないですか。話も少し合わなくなってしまうので、小1の1年間だけは南百合丘SCでプレーしていましたけど、小2で初めての移籍をすることになりました(笑)」
――移籍ってカッコいいですね。フリートランスファーで(笑)。
「そうです(笑)。1年で移籍しましたね。その小2のタイミングで、ヴェルディのスクールにも入ったんですよ。親に聞いたら、小1から入りたいと言っていたらしいんですけど、人気があり過ぎて入れなかったらしいんです。そこからは真福寺FCでプレーしていました。
もともと父親はそこで2個上の兄の代の監督をやっていたので、試合は見に行っていましたし、その時は父親の真横で試合を見ていたらしいです。2個上の兄の友だちと遊ぶ機会も多かったので、小学校低学年のころは兄と一緒にいる時間が長かったですね」
飛び級でヴェルディジュニアへ。林陵平、須藤右介との出会い
――そして、今度は小3でヴェルディジュニアに完全移籍すると(笑)。
「そうです。だいぶ早めの移籍ですよね(笑)。スクールに行っていたので、存在は知ってもらっていましたし、兄もジュニアのセレクションに受かっていたので、自分のスクールの後に、母親と一緒に兄のジュニアの練習も見ていたんですよ。当時のランドにはまだ入口を入ってすぐのところに、室内から親がグラウンドを見られるスペースがあったんです。そこに行ってずっと練習を見ていたら、育成のコーチの人たちが僕の顔も覚えてくれて、本当はジュニアに入れるのは小4からなんですけど、『小3から入るか?』と言ってくれて、スクールから引き上げてもらいました」
――そこで本来より1年前倒しでジュニアに入れるということは、スクールでは自分のプレーに手応えもあったわけですね。
「ありましたね。他の小3のスクール生よりは上手かったと思います。ただ、ジュニアに入ってからのレベルは高くて、何とか付いていけるぐらいの感じでしたし、そこで1個上相手に違いを出せるほどではなかったですね」
――もうそのころのジュニアに、林陵平さんはいたんですか?
「陵平くんはいました。あとは須藤(右介)コーチもいたんじゃないですかね」
――ああ、そうか。須藤コーチはそのころからの付き合いになるんですね。
「なんならあの人が小2で、僕が小1の時に出会っていますよ(笑)。確か5人制ぐらいの東京都の大会があって、それになぜか真福寺FCの何人かと、僕のいとこも入っていたようなチームで大会に出て、本来は1つ上の学年の大会だったのに、頑張って決勝まで行ったんですよ。
その決勝の相手が須藤くんのチームで、僕らは負けたんですけど、あの人は明らかに上手かったのではっきり覚えていて、スクールに入ってランドを歩いていたら、須藤くんと目が合って、『あ、あの人ヴェルディなんだ』と。それ以来の付き合いです(笑)」
――もう30年前ぐらいの話ですよね。それで今はコーチと選手の関係ですか(笑)。さっきお名前の出た林さんとも、小3ぐらいから親交があったわけですね。
「仲が良かったですし、お互いの家に泊まりに行ったこともありましたね。あの人のお母さんはスーパー社交的なので、『ウチに来なさい』みたいな感じでした。陵平くんのお母さんは凄いですよ。陵平くんがいなくても、長友(佑都)選手(※林さんの明治大学の同期)はゴハンを食べに来るらしいです(笑)」
――さらに岩間雄大選手が2つ上の先輩ですね。
「そうですね。雄大くんを認識したのは、僕が小4の時かな。当時は2個上とは練習していなかったので、存在は知っていましたけど、一緒のチームになったのはジュニアユースからでした。1個上には上田康太くんもいたので、陵平くん、須藤くんとプロに3人もなっている代で、レベルは高かったですね。
僕も小4と小5の時は、1個上の代で試合に出られるか、出られないかぐらいのレベルでした。結局小5の時は全国大会のメンバーには入れなかったですね。それが初めての挫折です。本当にアレで落としてくれていなかったら、そのあとでどうなっていたかはわからないですね」
――それはどういう理由からですか?
「『もっとやらないと』と思わせてもらえた機会でした。何となく上の代に小3から入れてもらってはきたけど、成長し切れていない時期だったと思うので、そういう意味では必要な刺激だったと思います。同期では弦巻(健人)と三原(直樹)はメンバーに入っていましたからね。自分が一番古株だったのに、彼らが全国大会でプレーしているのを見たことで、『なにくそ』とは思いました」
――これは何かの記事で見たのですが、その時の全国大会で点を獲った林さんが、プラティニのピッチに寝転がるパフォーマンスをしたんですよね(笑)。
「覚えています(笑)。基本的にあの人はお調子者なので、何でプラティニをやったのかは覚えていないですけど、それはスタンドから見ていました。あれはインパクトがありましたね。全国大会もよみうりランドでやるわけで、身近なものでもあって、ずっと憧れがありましたけど、いざ自分がメンバーに入れなかったことで、凄く華やかな舞台に見えました。
そこで『このままじゃダメだ』『もっと意識高くやらないと』と感じましたし、『来年は自分が全国に出て、優勝しよう』とはメチャメチャ強く思ったことで、そこからの1年ぐらいはそれだけを考えてサッカーしていたと思います」
後列右から林陵平、須藤右介
小6時には船山貴之を倒して日本一に!
――小6の時はキャプテンもやっていたんですね。
「やっていました。もともと上の代といることが多くて、その人たちも超個性派だらけでしたし(笑)、そこで『イジり、イジられ』の世界の“極み”みたいなところにいたので、そういう免疫がかなりあった分、自分たちの代は楽に感じました。だから、チームをまとめる時も強気に行けたというか、そんな感覚はありましたね」
――日本で一番サッカーが上手いような小学生の集団ですからね(笑)。
「1個上の人たちも常に言い合っていましたから(笑)。いかに相手に弱みを見せないか、みたいな。でも、面白かったですよ。練習に行く時もそれこそケンカぐらいの感じになっていても、ピッチに入ったら別物みたいな感覚はあった気がします。そこにピッチ外のあれこれは持ち込んでいなかったなと。今から思うと凄いですよね。そんな世界で育っていました」
――そして、小6の全少では全国に出て、きっちり日本一になってみせると。
……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!
