壁を乗り越える男・中野就斗が見据える次の目標「タイチと一緒にシャーレを掲げて、あいつを泣かせたい」
サンフレッチェ情熱記 第17回
1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第17回は、4得点5アシストの大活躍で首位・広島を支えるマルチロール・中野就斗の成長物語と「タイチ(同期の山崎大地)の想いを背負って闘う」という彼の強い決意を伝えたい。
広島と神戸の闘いは、広島守備陣と大迫勇也の闘いと変換してもいい。
2023年アウェイでは、大迫がピッチで奏でる変幻自在のメロディとリズムに荒木隼人がついていけず、2失点を喫して敗戦。ホームでは荒木が大迫に対しての対応策を見出して完封し、2-0で完封勝利を飾った。そして今季のアウェイで、荒木と大迫が激しいつばぜり合いを見せて0-0。内容的にも五分五分で、スコアレスドローという結果だったのに見ている側が十分に楽しめた闘いとなったのは、荒木vs大迫に代表される激闘が至るところで、存在したからだ。
「リベロ」という新しい挑戦
そして7月5日、エディオンピースウイング広島で広島と神戸は相まみえた。この時の両チームの現実をご紹介しておこう。
神戸は5月から6月にかけて、6戦1勝2分3敗という苦戦に陥っていた。ただ6月26日の首位・町田戦で0-0と引き分け、翌週の鹿島戦で3-1と快勝。7試合連続得点なし、町田戦では先発落ちも味わった大迫も鹿島戦で得点を挙げ、チームもエースも上昇気流に乗りかけていた。
広島は6月、川村拓夢と野津田岳人という2人のボランチが共に海外移籍を選択してチームを離れた。2人の移籍以降、広島は4試合で1勝2分1敗。横浜FM戦では今季初の逆転負けを喫し、勝ち点を積み上げた他の3試合にしても、内容は伴っていなかった。
神戸との決戦に臨むにあたって何よりも痛かったのは、荒木隼人の不在だろう。
荒木は5月26日のC大阪戦で足を負傷し、そこから長期離脱に入っていた。ただ、実は翌週の福岡戦で彼は復帰を果たし、素晴らしいプレーで完封勝利に貢献している。神戸戦の時には荒木の復帰はカウントダウンに入っていたことは確かで、「背番号4がいれば」という想いは試合後、特に強くなった。
荒木のポジションである3バックのセンターに入ったのは、中野就斗だ。
昨年、右ウイングバックで1年間プレーし、今季もこのポジションでレギュラーを張っていた彼が突然、リベロに入ったのは4月3日のアウェイ町田戦、前半15分のこと。荒木負傷交代にともなっての配置転換だった。
ミヒャエル・スキッベ監督はこの時、リベロには塩谷司を回し、中野は右ストッパーに配置する予定だった。だが塩谷が監督に「町田のFWはすごく大きいし(オ・セフン)、俺よりも中野の方がいいと思う」と進言。その言葉に指揮官はうなずいて、リベロには若きウイングバックを回した。
「練習でもやったことがなかったポジションだったし、びっくりしました」
中野の正直な感想だ。だが、彼はすぐに気持ちを切り替え、194センチの巨漢FWと対峙。町田の主砲をシュートゼロに抑え込んで勝利に貢献した。
そこから5試合、中野はリベロでプレーして守備の中心として働く。だが、彼だけの責任ではないが、守備の安定をもたらしたとは言えなかった。クリーンシートは4月7日の湘南戦だけ。その後の3試合は全て失点し、2試合で先制点を失っていた。「(荒木)ハヤトくんの偉大さが、よくわかった。早く戻ってきてほしい」と当時、中野は苦笑いを浮かべていたのを覚えている。
C大阪戦でのケガによって荒木は今季2度目となる長期離脱。6月1日の磐田戦から再び、中野はリベロに回った。この時期に川村と野津田の移籍が決まり、チーム全体が不安定になった中、それでも彼は慣れないポジションで奮闘する。クリーンシートが2度、満田誠が退場し数的不利になった横浜FM戦を除いて、複数失点を許さずに勝点を積み上げた。4月の頃よりも、中野自身のプレーも良くなったと感じていた。
大迫勇也への完敗で「もっと成長しないといけない」
7月4日、神戸との決戦前日。中野はまなじりを決して、言葉を連ねた。
「厳しい戦いになると思うんですけど、上に行くためには勝たないといけない」
3バックのセンターとして相対することになる大迫との闘いについても、彼は言及している。
「代表を経験している選手とマッチアップできるのは、成長への大きな機会。自分の持っているものをぶつけていけば、今の自分の立ち位置が実感できる。挑戦していきたいと思います」
決意は固まっていた。だが、大迫勇也とは気持ちだけで抑えられる選手ではない。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。