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【サッカー小説】狼のサンバ:VOL.1「王国が死んだ日」

2022.11.20

W杯で最多となる5度の王者に輝いている“セレソン”(ブラジル代表の愛称)。中でも「歴代最強」として今も語り継がれているのが、1958年スウェーデン大会の優勝チームだ。その主役のペレ、ガリンシャらが自由を謳歌して“ジンガ”を体現する前線には、左サイドを献身的に奔走しながら攻守のバランスを保つ名脇役がいた。

その名は「ロボ」(狼)の愛称で親しまれたマリオ・ザガロ。ブラジル人らしいテクニックにチームプレーとハードワークまで兼ね備えた万能型FWのパイオニアは、連覇を遂げた1962年チリ大会のメンバーにも名を連ねている。現役引退後も指導者として伝統と革新の間で揺れる王国を2度の世界一へと導いた、セレソンのW杯史そのものである狼の“サンバ”を描く。

マラカナッソ

 巨大スタジアムを埋め尽くした20万人が黙り込んでいた。これほど異様な光景もない。

 公式の観客数は17万3850人だが、チケットを持たずに入り込んでいた人々を合わせると21万人とも22万人ともいわれている。もちろんフットボール史上最多の観客数だ。

 1950年ワールドカップのブラジル対ウルグアイは「マラカナッソ」として知られている。ワールドカップの歴史では唯一、ファイナルステージがグループリーグ形式で行われたが、6月16日のブラジル対ウルグアイは事実上の決勝戦だった。ブラジルはスウェーデン、スペインに連勝してグループ首位、ウルグアイは1勝1分の2位。南米の両雄が対決した最終戦で優勝が決まる状況だった。

 マリオ・ザガロはこのマラカナにいた。軍から駆り出されてスタジアムの警備にあたっていたのだ。

 「セレソンは美しい」

 主に通路から観客席を監視していたのであまり試合を見ることはできなかったが、ときおり大歓声に押されて振り返ると、誰にも真似できない彼らのジンガがそこにあった。窮地の時ほど体の力を抜き、するりと脱出する。ジンガはもともとカポエイラという格闘技の揺れる体の動きを表す言葉だったが、やがてフッチボウ・ブラジレイロの代名詞になっていった。手錠をかけられた囚人による足技を主としたカポエイラにおけるジンガは、まるでダンスようだ。水上にジャンプする魚は捕食されそうな窮地から脱出しているのかもしれないが、空中で身を翻し、鱗を光らせる姿は美しい。ジンガは厳しい日常を生き抜くための秘訣であり作法でもあった。刹那を切り抜ける。そしてそれは美しい。

 「ウルグアイ人にジンガはない。ブラジルが勝つ」

 47分にフリアサのゴールが決まってブラジルが先制すると、ザガロはもうフィールドに目をやらず任務に専念した。

 ブラジルはドローでも優勝する。もはや初の世界一を疑う者などいなかった。そもそも試合が始まる前から、ブラジルは「勝つことになっていた」のだ。22個の金メダルはすでに全選手の名前入りで用意されていた。リオデジャネイロ市長の感動的なスピーチ原稿は出来上がっていてすでに何度かのリハーサルも終えていた。セレソンの練習場には政治家やジャーナリストが多数押しかけてきて、頼まれもしない激励の演説を選手たちに披露していった。新聞や雑誌はすでに優勝したものとしてチームを扱い、『Brasil Os Vencedores』(勝利者ブラジル)という応援歌が街中で歌われ、決勝後にはスタジアムで演奏される予定になっていた。

 わからないでもない。この大会のブラジルは決勝までの5試合で23ゴールを叩き込んでいる。スウェーデンに7-1、スペインに6-1。対するウルグアイはスペインと2-2で引き分け、スウェーデンには終了5分前の得点で3-2の辛勝。前年に開催されたコパ・アメリカでもブラジルは8試合46得点で優勝していた。エクアドルに9-1、ボリビアに10-1、パラグアイに7-1、そしてウルグアイにも5-1で圧勝だった。

 「俺たちは敗北に向かって突き進んでいるよ」

 サンパウロの中心選手だったパウロ・マチャド・カルバーリョは前日練習を訪れた際、息子にそう漏らしたという。嫌気が差すほどの楽観ムードに覆われていて、チームにも警戒感はあったようだが、すでにブラジル全土はお祭り騒ぎになっていた。

 ウルグアイ伝説のキャプテン、オブドゥリオ・バレラはありったけの新聞や雑誌を買い集め、ホテルのバスルームにそれらをぶちまけた。そしてチームメートを呼び出しては、ブラジルの優勝を確信している記事にツバを吐かせ、小便をかけるように勧めた。

 ウルグアイのフアン・ロペス監督はブラジル人の祝勝ムードに呑まれていたかもしれない。試合前のロッカーで守備的な作戦を言い渡した。すると、監督が去った後にバレラが有名な演説を開始する。

 「フアンはいい男だ。だが、今日に限っては間違っている。受け身になったらスペインやスウェーデンのようになるだけだ。俺たちは噛ませ犬じゃねえ! 食いつくんだ。すべてを賭けて反撃しろ!」

 66分、スキアフィーノ。79分、ギジャ。ウルグアイは反撃し、2つのゴールで開催国を失望のどん底に叩き落した。静まり返ったマラカナでは2人が自殺を試み、その後も自殺者が相次いだ。気を失った人々もかなりいたという。

 「なんてこった」

 ザガロは黙り込む20万人を前に立ち尽くしていた。

 <ブラジルが死んだ>

 そう思うに十分な異様な光景が眼前に広がっていた。

ペレとガリンシャ

 「泣かないで父さん、僕がブラジルをワールドカップで優勝させるから」

 マラカナッソのとき、ペレは9歳だった。8年後、父親に言ったことを実現することになる奇跡の子だ。

 マラカナで警備の任務にあたっていたザガロはペレより9歳上。マラカナッソのときは18歳だった。翌年にフラメンゴでデビューしている。ザガロもマラカナの惨劇を目の当たりにして「ブラジルを優勝させる」と決心していた。ただ、その前にブラジル代表に選出されるかどうかも微妙だったので人前で公言することはなかったが。

 1958年ワールドカップ、スウェーデン大会の直前までザガロは左ウイングの三番手にすぎなかった。魔法使いのようなテクニシャン、カニョテイロがいたからだ。さらにのちのロベルト・カルロスの先祖ともいえる強烈な左足のキックで猛威を振っていたペペもいる。ザガロはエレガントな技巧派だったが、どう考えてもカニョテイロとペペにポジション争いで勝てそうもない。一時は10番(インサイドレフト)でのプレーも考えたが、こちらも左ウイング同様に競争は激しく、さらに決定的な出来事があって諦めた。

 <なんなんだ、こいつは>

 ザガロはペレの成長ぶりに驚愕した。1年前に見た時は、<まだ子供だな>と思っていたからだ。

 実際、その時はまだ15歳の少年で体格は貧弱だった。それが1年を経過すると体つきもかなり逞しくなりスピードとパワーが格段に上がっていたのだ。ただ、ザガロが10番を諦めたペレの凄さはそこではない。

 「ペレはブラジルのフットボールそのものなんだ。本当の意味でボールを意のままに扱い、誰も思いつかない奇想天外なプレーで窮地を切り抜けていく。その瞬間、その状況でしかおそらく使わない解決手段を毎回のように出してくるんだ。フットボールという荒野を生き抜くための本能を持っている」

 当時のペレについて、ザガロと同じような見方をしていた人はおそらくそこまでいなかっただろう。とても才能がありそうだが、まだこの先どうなるかわからない選手というのが一般的な評価だった。

 <こいつはあと1年でさらに成長する。そうなったらもう太刀打ちできない>

 10番を諦めたザガロは、11番のレギュラーポジションを獲得するためにカニョテイロやペペとはまったく違うプレーをすることに決めた。

 <守備をすること。ボールを絶対に失わないこと。徹底的に味方を助けること>

 ザガロはポジション奪取のための三箇条を心に刻み込む。確かにカニョテイロやペペにはない特徴ではあるわけだが、それだけで11番を勝ちとれると考えていたわけではなかった。ザガロがこの3つの長所を発揮してポジションをとるための条件がもう1つある。ペレと並ぶもう1人の天才がポジションをとること。

 <ガリンシャが右でハマれば、俺は11番をとれる>

 マネ・ガリンシャはペレとはまた違ったタイプの天才だ。山中で育った自然児で、実はフットボールそのものにあまり興味も持っていなかったという。フットボールの申し子のようなペレと違って、ガリンシャは孤高のドリブラーだった。全ブラジルを失意のどん底に落としたワールドカップ決勝も見ていない。魚を釣っていたらしい。

 「13歳の知能しかない」

 セレソンが雇った心理学者の分析結果だ。この報告を受けたコーチングスタッフの反応も<やっぱりそうか>というものだった。気まぐれで自分のやりたいようにしかプレーしない。試合前の指示も聞く気がないのか理解できないのか、まったく何も反映されない。強化試合では4人を抜き去った後にGKも外し、悠々と歩きながらゴールライン上にボールを置いて監督を激怒させたこともあった。たぶんルールも把握していない。

 ガリンシャが無双のドリブラーであることは皆わかっていたが正直扱いかねていた。しかしザガロは違った。

 <ガリンシャは必ず右ウイングのポジションをとる。そして奴は守備に興味がない。チームプレーもしない。アレを右に置いたら、そこからチームが崩壊すると監督は考えている。カニョテイロやペペならそうなるだろう。だが、俺なら違う>

 ガリンシャを補完する左ウイング。これがザガロの勝算だった。まるっきり他力本願ではあるが、おそらくそうなるだろうという読みである。

 ザガロのニックネームは「狼」だ。名前にロボ(狼)が入っているからだろうが、すでに選手時代から群れのリーダーたる資質を持っていたようだ。よく一匹狼と言われるが、狼は本来群れで行動する動物である。仲間と協力して狩りを行い、そのコンビネーションや統率のとれた行動はよく知られている。ザガロの先を読む力は指導者として顕著に発揮されていて、セレソンの栄光はザガロとともにあるといっていい。セレソン=ザガロなのだが、その最初が1958年のチームだった。史上最強とも呼ばれるブラジルのキーマンになるのだが、そこにはいくつかの偶然も重なっている。

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Photo: Gamma-Keystone via Getty Images

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Profile

西部 謙司

1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。

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