最初は楽しくなかったスカウト業。石原直樹と中町公祐の発掘から大きく変わった「選手を見るスタンス」。ヴァンフォーレ甲府・森淳スカウトインタビュー(前編)
【特集】これからのJスカウトに求められる視点#10
今や「欧州組」「日本人対決」という言葉が陳腐化するほど、数多くの日本人選手が海を渡って活躍している。欧州各国からの評価も年々向上し、10代の選手たちのキャリアプランに夢ではなく、リアルな選択肢として「欧州クラブ」が加わるようになった。日本でも秋春制の導入、U-21 Jリーグの創設など大きな改革が進む中で、才能の原石を見つけるプロたちは何を考えているのか?――これからのJスカウトに求められる視点について様々な角度からフォーカスしてみたい。
第10~12回はヴァンフォーレ甲府の森淳スカウト。スカウト初年度に中田英寿を獲得してから、30年にわたるキャリアを積み上げ、佐々木翔、稲垣祥、伊東純也、三浦颯太など、のちの日本代表選手がまだ“原石”だった時代に彼らを発掘し、プロの世界に導いてきた“超目利き”の敏腕スカウトには、ご自身のたどってきた歴史を振り返っていただきながら、選手を見る時のポイントや選手獲得の流儀について、大いに語ってもらおう。
「中田英寿と松田直樹を獲れ」と言われてスタートしたスカウト業
――森さんは日本代表にまで行った選手でしたが、現役時代にのちの職業としてスカウトはイメージされていないですよね。
「当時はプロがないわけで、できるだけサッカーをやっている時間を長くしたいなと思っていただけなんですけど、フジタの時代には2部に落ちたり、負けが続いたりしましたし、自分も決して上手いプレーヤーではなかったです。
当時のフジタはかつて日本代表の監督もされていた下村(幸男)さんが強化部長とスカウトを兼任していましたが、僕はスカウトされて入ったわけではないんですよ。高校生のころはナショナルトレセンとか高校選抜にも少し入れたので、大学の面接で『将来あなたはJSLでやりますか?』と言われて、『やりません』と。
僕はサッカーと関わっていきたかったので、当時はそのためには教員になるしかなかったんです。サッカー選手になるには企業に入らないといけなくなってしまいますし、そこで引退したら完全にサッカーとはお別れしなきゃいけなくなるというイメージがあったので、『JSLではやりません』と言ったんです。
実際に大学4年になっても、どこのチームからも話がなかった中で、たまたまご近所のある奥さんの知り合いにサッカー協会系の人がいて、ウチの母親がその人に『ウチの息子がサッカーやりたいんだって』と言ったら、『私が言っとくわよ』と言ってくれて、それがたまたま下村さんの耳に入って、大きなセンターバックを他に獲れなかったフジタが話をしてみたいということで、3日間の練習参加を経て入ることになったので、試合を見に来てもらってチョイスされたわけではないんですよ。
でも、先輩にも後輩にもスカウトされて入ってきている選手はいっぱいいるのに、僕よりずっとヘタクソな選手もいたわけで、そういう選手が入ってくると、『ちゃんと見ているのかな?こういう選手を獲るんだったら、グラウンドに行ってちゃんとプレーを見てくればいいのに』とは現役時代からずっと思っていたんですよね。それは今にも生きているんです。
僕はヘタクソだったという自覚がありますし、日本代表にも上手いから選ばれたわけではなくて、ただ強いから選ばれたわけです。でも、何とかお願いしてフジタに入れてもらったような僕が、たった半年で代表になれたんですよ。その時の僕は一生懸命トレーニングしたんです。
その時のフジタでは廣瀬龍さんと植木繁晴さんがベテランの鑑みたいな人で、我々と一緒の練習が終わっても、グラウンドを走っているわけですよ。それを見ながら感動して、『自分も何かやらなきゃ』と思って、みんなが帰った後に僕も練習していたんですよね。
スタイルとしては相手のフォワードと心中するようなセンターバックという感じでしたけど、リフティングが1000回できても試合に出られない人がいて、『30回やればいいだろ』と思っている僕が試合に出ていて、『じゃあ技術って何だろう?』『戦うって何なんだろう?』とか、そのころは頭の中でいろいろなことを考えていたころだと思います。
だから、『僕みたいな選手はいっぱいいるんじゃないかな』と思ったところは、今のスカウトをしている自分のベースだと思います。スカウトになった時もいきなり会社から『中田英寿と松田直樹を獲れ』と言われたんですけど(笑)、当時は名前も聞いたことがなかったんです。実際にヒデはプレーも凄すぎて、11チームからオファーがあった中で、ベルマーレに来てくれたんですけど、それで僕は疲れ切っちゃったんですよね。
ああいう有名な選手はプレーを見なくてもいいわけですよ。当時は協会からU-18代表やU-20代表の選手リストがFAXで送られてきて、そのリストを見て『この中で誰が一番いいんだ?』『これとこれじゃないですか?』『じゃあ行け!』というような形で選手獲得が進んでいたと思うんですよ。特に大きなクラブは。だから、直接見て、この選手がいいというわけではなかったんです。自分はそっちで選ばれるような選手ではなかったので、それが嫌で嫌でしょうがなかったんですよね。
あとは当時の僕より年上のスカウトの人たちは『挨拶、挨拶、挨拶』なんですよ。僕は『いや、「試合、試合、試合」で、そこから挨拶でしょ』と。『さあ、この選手に行くぞ』となった時に挨拶すればいいと思うんですよ。でも、『いろいろな先生たちとコネを作るんだ。野球はそうやってる』と言うわけですよ。でも、僕からすれば『必要な時にその監督さんと話せばいいんじゃないかな』って。
僕は一番ペーペーだったので、10人いたら一番最後に名刺を渡すんですけど、それで名前なんか覚えてもらえないですよ。そんなことはやっている意味がないんじゃないかなと。ヒデの時も僕は一番年下のスカウトだったので、名刺を渡すのも11番目だったんです。当時の韮崎の新藤(道也)先生は日体大の先輩で、いい方なので態度には表わさないですけど、もう11人目のころには疲れ切っているわけですよ。そこには同じ大学出身でも、何のアドバンテージがあるわけでもないですし、それがもう嫌で嫌でしょうがなくて。
だから、ヒデが来ると決まった時には『やった~!!』とやろうと思っていたんですけど、強化部長の上田(栄治)さんから『ウチに決まったよ』と言われた時には、ガクンと力が抜けて『もう疲れた……』と(笑)。ベルマーレの事務所で12月27日ごろだったのかなあ。『もう嫌だなあ』という感じでしたね」
コーチになるはずの将来が変わってしまった“社長の一声”
――いきなり凄くいろいろなことを話してもらっちゃいましたけど(笑)、改めてですが、スカウトという職業に就くことになった流れを教えていただけますか?
「僕は29歳で引退したんですけど、Jリーグに入るためには下部組織を作らないといけないというルールがあって、あの時はサテライトリーグもあったので、『コーチをやらせてくれ』と言ったんですけど、僕より先に現役をやめていた後輩たちが、ベルマーレのユースやジュニアユースのコーチの枠は全部埋めていたんです。
そこで上田さんから『オマエがコーチになるのは、今やっているヤツらのあとだから、まず副務をやってくれ』と。つまりはマネージャー業ですよね。でも、春野のキャンプが終わって、帰ってきたら『スカウトをやれ』と。当時は指導者の方に日体大のOBの方が多かったので、そういうところもアドバンテージになるだろうという上の安易な考えで(笑)、そういうことになったんです。
『まずはスカウトをやってみろ』と上田さんに言われたので、上田さんには『指導者ライセンスだけ獲らせてくれ』という話をして、OKはもらっていたんですけど、その年にベルマーレが天皇杯に優勝してしまったんですよ。それで当時のフジタの社長とヒデを一緒に獲りに行った岩下さんと、監督たちと強化部と一緒に神田明神下のお店に行ったんですね。
その時に僕は『ヒデも来たし、今年のスカウトの仕事も終わったから、晴れてコーチの勉強ができる!』と思っていたら、そこで社長から『優勝もしたし、ヒデも来ることになったし、今年は幸先がいいな。もう淳はスカウトをやれ!』と言われちゃったんです(笑)」
――リアル版の『鶴の一声』ですね(笑)。
「そうなんです(笑)。社長はまったく僕のその後というか、コーチになりたいということはわかっていなかったんですよ。それで上田さんの方を見たら、『うん……』みたいな感じで、『アレ……?』って(笑)」
――最初はスカウトをやらされている感じだったんですね。
「ヒデも自分で選んだわけではなくて、『もう決まっているから獲って来い』という、それだけの指令を受けて、6月の関東大会で茨城の笠松のグラウンドに行って、帝京と韮崎の試合で初めて見たんですけど、もうたまげましたよ。そこから誰に話す時にも『オレは引退しておいて良かったよ。もう対戦しなくていいから』と。そのぐらい凄かったです。
足が速いわけでもないですし、小野伸二のような技術があるわけでもないのに、相手は反則でしか止められなかったですね。もうボールが来る前に判断しているんだろうなという感じでした。帝京は常に2人でマークに来ていて、1人はずっと後ろにマンツーマンで付いて、もう1人はヒデのところにボールが入ったら挟み込みに来るというのをずっとやっていたんですけど、それでも普通にやっていましたから。
一度3人に囲まれるシーンがあったんですけど、ヒデは浮き球を胸でコントロールして、次のターンで3人を置き去りにしてしまって、『ああ、これはスゲーな』と。『もう参ったな』と思いました。いきなり別格のプレーを見せられてしまいました。
よく覚えているのは、ヒデが来て最初にマリノスとやった時に、当時は井原(正巳)が日本で一番凄いセンターバックという認識がみんなにあった中で、試合が終わるとヒデが『森さん!井原ってあんなに汚いプレーヤーだったんですね!』って(笑)。もう井原がバンバン引っ張ったり、ボールに関係ないところで太モモにヒザを入れてきたりしていたらしいです。それぐらいしないと止められなかったということでしょう。
あとはアントラーズと平塚でやった試合で、それは野口幸司が5点獲った試合なんですけど、右サイドにいたヒデにボールが飛んできて、ワンタッチでコントロールして、中を見ながらアーリークロスを上げる仕草をした時に、ボールを少しさらしていたので、レオナルドが戻ってきて、後ろから綺麗にスライディングしてボールを獲ったんです。
そこからレオナルドも持ち上がって、パスコースを探していたら、ヒデが同じような形でスライディングでボールを獲り返して、そのまま相手陣内に入って速いクロスを上げて、野口がゴールを決めたんです。その一連があまりにも鮮やかで、相手もレオナルドでしたし、僕は試合が終わってヒデに『アレ、凄かったな!』と言ったら、『何ですか?』と。
……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!
