FC東京で抱いた大きな志は「翼が生えたぐらいの自由なGKになりたい」。野澤大志ブランドンはベルギーの地でさらに高く羽ばたく
【特集】旅立ちの時。夏の海外移籍#6
野澤大志ブランドン(FC東京→ロイヤル・アントワープ)
欧州サッカーがシーズンオフとなる夏は、Jリーグからの海外移籍が佳境となる季節だ。ベルギー、オランダ、ポルトガル、デンマーク、チャンピオンシップ(英国2部)に渡った逸材たちが高確率で活躍することで、近年日本人選手への評価がさらに高まっている。この夏、Jリーグ経由で新たに羽ばたく挑戦者たちにフォーカスする。
第6回は、FC東京からベルギー有数の名門として知られるロイヤル・アントワープへ新天地を求めた野澤大志ブランドン。沖縄で育ち、15歳から青赤の仲間と切磋琢磨してきた若き守護神の想いを、馬場康平が過不足なくすくい取る。
「いい意味で、これからどうなっていくんだろうなって」
旅立つ野澤大志ブランドンへ「いってらっしゃい」と声を掛けると、帰ってきたのは笑顔の「行ってきます」だった。心境は「沖縄から上京してきた時の気持ちと似ているか」と聞くと、渋みのある表情で「全然違いますね」と言った。
「当時は15歳で、まだまだ子どもでした。でも、今はその時よりも大人になって、見えているモノも違います。今まで苦しんできた、痛みも味わってきた。だからよりサッカーを好きになれた。だから、全然違います」
続けて吐き出した言葉も、まるでこれから待ち受ける困難を楽しんでいるかのように聞こえた。出発直前、野澤は「何だろうな」と頭をひねり、続いたらしいフレーズがこれだった。
「いい意味で、これからどうなっていくんだろうなって。むしろそれにワクワクしています。夢を追ってとかじゃない。この先うまくいくとか、苦しいことがあるとか。うまくいくいかないじゃなくて何が起きるんだろうという楽しみの方が一番強い。だから、どうなっても結局今までみたいに振り返れば感謝だったなって思うし、そう思えるように歩んでいきたい。だから、この先のキャリアプランは、特別どうなりたいとかは考えていない」
これまで明け透けに思いを口にしてきた。「隠すことなんてない。本当にこれが僕なので。ありのままをしゃべってきた」。いつも他者への感謝を口にし、自分に矢印を向け続けた。その言葉を残し、野澤はベルギー1部のロイヤル・アントワープへと向かう機上の人となった。
グルージャで戦った1年半で芽生えた自覚と責任
その彼の成長譚を紐解けば、去り際の言葉と表情の理由が分かるはずだ。2018年に15歳で親元を離れ、沖縄からFC東京U-18へと加入した。その2年後には飛び級でトップチームに昇格を果たす。初めてレコーダーを向けたのは、プロ1年目の沖縄キャンプだった。夕食の時間も迫る中で、ギリギリまで練習グラウンドに居座り続けていた。それが毎日続くのだから「何でそんなに練習するの?」と聞いた覚えがある。
「一番下なので。もっともっとやらなきゃいけない」
その言葉どおり丁寧な日々を、キャリアの一丁目一番地からこれまで積み重ねてきた。毎日遅くまで居残りでトレーニングを続け、誰よりも最後までグラウンドに居続けた。だから、野澤の取材は決まってその日の最後になった。それは日本代表に選ばれても変わらなかった日常だ。試合でピッチに立てるGKは、ほとんどがチームで一人だ。それ以外の選手はいつか自分がその場所に立つための準備と研鑽を積まなければいけない。報われるまでの努力を怠れないポジションなのかもしれない。野澤はその振る舞いをプロ1年目から見せ続けてきた。
21年夏には「何も知らずに飛び込んだ」という当時J3のいわてグルージャ盛岡への育成型期限付き移籍を決断する。それまで主力を担った土井康平から定位置を奪い、J3で14試合、J2で22試合に出場する。1年半という短い武者修行となったが、「特別な時間だった」と振り返る。今回の初の海外移籍の源流には、この経験が大きかったのだと思う。
「岩手では選ばれて試合に出る責任はすごく感じたし、逆にそれがプレッシャーにもなった。岩手の時は自分自身を見つめる時間だった。そこで、自分の弱さを突きつけられた。いかに自分が選手として、人として未熟なのかを知れた。そういう自分を深く知ることで、深みのある人間に少しはなっていったと思えた。苦しくても、しっかり向き合えた。それは無駄じゃなかった。大変だったけど、自分をよく知れたことは特別でした」
右も左も分からぬ土地で、先発を競う仲間やコーチングスタッフと共に、自分たちを応援する人たちや支える存在を知る。クラブのエンブレムに込められた思いの数を知り、自覚と責任が芽生えた。
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