「大分トリニータというチームと、大分という土地は、自分にとって貴重なもの」。そして、熊本の地で新たな挑戦へ。ロアッソ熊本・片野坂知宏監督インタビュー(後編)
土屋雅史の「蹴球ヒストリア」第2回(後編)
元Jリーグ中継プロデューサーで「最強のサッカーマニア」土屋雅史が多様な蹴球人の歴史を紐解く。サッカーに生きている人たちが、サッカーと生きてきた人生を振り返る、それぞれがそれぞれに濃密な物語の結晶。『蹴球ヒストリア』の世界へ、ようこそ。
名門・鹿児島実業高校時代はキャプテンを務め、卒業後はマツダへ入社。1993年のJリーグ開幕をサンフレッチェ広島の選手として経験し、引退後は指導者としてJクラブの指揮を執っている片野坂知宏のキャリアは、実に波乱に富んでいると言っていいだろう。今回はその半生を存分に語ってもらったインタビューをご紹介。後編は大分トリニータとの最初の接点、指導者業のスタートなどを振り返りつつ、Jリーグの監督を何度も務めてしまう理由や今後の展望までを伺っている。
FC東京、コンサドーレ札幌との競合から大分トリニータへ
――2000年に大分トリニータに移籍されて、ここがトリニータとの最初の接点だと思うんですけど、これはどういう経緯だったんですか?
「レイソルでニカノールと一緒にやっていた時に、西野(朗)さんがコーチで入ってこられたんですよね。それで98年から西野さんが監督になったんですけど、ニカノールの時からシューシャ(平山智規)が出るようになってきて、彼は左の駆け上がりとクロスが良かったんです。
そこからなかなか試合に出られなくなってきて、西野さんになってもシューシャが選ばれることが多くて、99年にレイソルとの契約が切れるタイミングで移籍しようと決断して、チームを探した中で、声を掛けてくれたのが大分と札幌とFC東京でした。
札幌は岡田武史さんが監督をやられていて、直接お会いしましたし、FC東京は監督の大熊(清)さんともお会いして、『サイドバックを補強したい』と言われたんですけど、FC東京には藤山竜仁がいたんです。僕も東京のチームはいいなと思って、柏からの移動も楽ですし、やりたい気持ちもあったんですけど、『リュウとポジションが重なるな……』と」
――高校の後輩ですからね。
「そうなんですよね。大熊さんには『リュウは右で、カタは左だ』と。『サイドバックの左右は代えられるし、リュウがいても勝負できるから』と言われたんですけど、やっぱりちょっと後輩とポジションが重なるのは申し訳ないなというところもありました。
あと、一番良い条件を提示してくれたのが大分だったんです。大分からは3年契約を提示してもらって、僕もその時は30歳手前だったんですけど、選手としてだけではなく、引退後のキャリアとして強化部にも入ってほしいと。人間性も含めて評価しているので、ぜひ大分の力になってほしいと言われました。
そういうことを言っていただけたのも凄く嬉しかったですし、監督のイシさん(石﨑信弘)とも話をして、『こういう使い方をしたい』という話も聞いて、自分の中でも『こういう形でできたらいいな』というイメージがマッチしたので、それもあって最後は大分を選びました。
ただ、試合には出られなかったですね。イシさんの求めるウイングバックにはなれなくて、どうしても運動量も含めて力を出せないのと、『やっぱり僕はサイドバックだな』と思っていたところもあって、2000年の途中に移籍志願をして、クラブを探していたところで、早野(宏史)さんが監督をされていたガンバに行くことになりました。
今から考えれば、サッカーのスタイル的にもFC東京に行っても面白かったかもしれないですし、リュウとも一緒に切磋琢磨できていたかもなというのは、後々感じました。
イシさんのサッカーはとにかく走りますし、当時も練習から“フィジテク”しまくっていました。イシさんは本当に凄いですよ。本当に尊敬しています。八戸でもあれだけ結果を出されていますし、監督としてのキャリアをこれだけ続けられているというのは、常に評価されているということですからね。
僕はイシさんとか小林伸二さんのような息の長い監督になりたいんです。代表ではなく、Jリーグでずっと指揮を執っていけたらいいなと思っていますし、ああいう監督像を目指したいですね」
「本音を言えばもっとやりたかった」現役引退の決断
――そうすると、ベガルタ仙台で1年間プレーされて、2003年にまたトリニータに戻ってこられたのは、もともとフロント入りの話があったからですか?
「もう大分との3年契約は切れていたんです。それもあって一度は契約しないという話になって、トライアウトを受けたんですけど、伸二さんがサイドバックを探しているということで、『もう1回一緒に戦ってくれ』と言ってもらいました。その年は大分が初めてJ1に上がった年で、いろいろな選手を補強していく中で伸二さんに声を掛けてもらって、もう一度復帰することになりました。
その年も何試合かは出ましたけど、レギュラーではなかったんですよね。その2003年の1年で契約が切れた時に、まだ現役を続けたかったので、その年も2年連続でトライアウトに出て、鈴木淳さんが監督をされていた山形の練習参加に行ったんですけど、契約は勝ち獲れませんでした。
その後もいろいろ探っている中で、これからJリーグ入りを目指しているというニューウェーブ北九州から『プレーイングマネージャーとして来てくれ』というお話をいただいたんですけど、正直『プレーイングマネージャーはかなり難しそうだな』と。そういう中で大分からは『もし引退するんだったら、強化部の一員としてチームに携わってほしい』と言われたんです。
かなり迷った中で、もう自分の中でもプロのカテゴリーでできないのであれば、ここでスパッと引退しようと。強化の話もありがたいことですし、どちらにしてもサッカー界には残っていきたいと思っていたことと、ゆくゆくは指導者になりたいと思っていたので、大分に残って強化部に入ることを決断しました。あの時にニューウェーブに行っていたら、どうなったかもわからないですよね」
――マツダで2シーズンと、サンフレッチェ以降はプロとして12シーズンを送られた現役生活は、ある程度やり切ったなという感じでしたか?
「本音を言えばもっとやりたかったです。『まだできたらな』という悔しさはありました。ただ、試合をする時にも自分の中の弱い部分が出てきていて、試合が怖くなるというか、『ミスしたらどうしよう……』とか思っちゃうんですよ。どうしても前みたいに走れない自分がいて、衰えを感じている部分もあったんですね。
もうここから伸びることはないですし、これをどう維持していくかというところで、ちょっと限界が来ているかなという想いもある中で、気持ちとしてはまだやりたいけれど、強化の話は凄くありがたいなというところで、自分の中で切り替えて、現役にケリを付けました」
清武弘嗣。小手川宏基。森重真人。高橋大輔。スカウト時代に出会った逸材たち
――引退された1年目は、トリニータのU-15とU-18へ入ってくる選手をスカウトするお仕事が担当だったんですね。
「はい。主にU-18ですね。というのは、その時の強化部長が立石(敬之)さんで、スカウトに原(靖)さんがいて……」
――いきなり強烈なメンバーですね(笑)。
「そうなんですよ(笑)。原さんがスカウトをされていたので、原さんからはお酒の飲み方も含めて、いろいろなことを教えていただきました。『九州は焼酎文化やから、まずは焼酎を飲めるようになった方がいい』と言われながらも、『自分は飲めなくても、そのうちにわからなくなるから、先生のグラスには焼酎を入れて、自分のグラスは水でもいいんだ』『はい!わかりました!』と(笑)。
僕は下っ端なので、焼酎も作るわけですよね。そこで先生には焼酎を渡して、自分は水を飲むと(笑)。そういうこともやりながら、原さんと一緒にいろいろなところを回っていました。
……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!
