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アルウィンの熱狂と興奮、再加入した岡山への感謝、北九州で過ごす37歳のいま。「もうサッカー選手を目一杯生きようという想いでやっています」ギラヴァンツ北九州・喜山康平インタビュー(後編)

2025.11.21

土屋雅史の「蹴球ヒストリア」第1回(後編)

元Jリーグ中継プロデューサーで「最強のサッカーマニア」土屋雅史が多様な蹴球人の歴史を紐解く。サッカーに生きている人たちが、サッカーと生きてきた人生を振り返る、それぞれがそれぞれに濃密な物語の結晶。『蹴球ヒストリア』の世界へ、ようこそ。

今年でプロキャリアは20年目を数える。小学生のころから輝く将来を嘱望され、サッカー選手を職業にしたレフティは、さまざまなクラブとの出会いと別れを繰り返し、37歳になった今でも、真摯にボールを追い掛けている。喜山康平の濃厚なサッカーキャリアを網羅したロングインタビュー。後編では松本山雅FCで過ごした5シーズンと、再びファジアーノ岡山でJ1を目指した6シーズン、さらにギラヴァンツ北九州でのいまを余すところなく語ってもらう

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松本での新たなチャレンジ。反町康治との不思議な関係

――2012年にはファジアーノからのレンタルという形で松本山雅FCへ移籍しますが、開幕戦は出場停止だったんですよね(笑)。

 「JFLの最終節で、たぶん町田とやった試合だったと思うんですけど、イエローカード2枚で退場してしまって(笑)。でも、カテゴリーも違うので、それが次のシーズンに持ち越されるのかがなかなかわからなくて、キャンプの途中ぐらいで『開幕戦に出れない』ということがわかったんです。

 キャンプって徐々に開幕スタメンに向けて、練習試合でもメンバーを固めるじゃないですか。そこから徐々に弾かれていく感じが結構ツラかったですけど(笑)、もう必死でやっていましたね。

 またJリーグには戻ってこられたけれど、『ここでダメだったらもう終わりだ』と思っていましたし、練習もメチャメチャキツかったので。ソリさん(反町康治監督)とエルシオ(フィジカルコーチ)にメチャメチャ走らされて、そういう意味でも超必死でした」

――反町さんもだいぶ独特な監督ですけど、特に最初のころの印象はいかがでしたか?

 「まず、『たぶん合わないな』と思いました(笑)。実際に会う前の感覚なんですけど、映像を見た印象でも、自分がハマりそうな感じがしなかったというか、なんかそういうのってあるじゃないですか。上司との関係性みたいなイメージで。

 そもそも松本に行くことが決まっても、まだ監督が決まっていなくて、ソリさんになると聞いて、『ああ、大丈夫かな……』という感じはあったんですけど、それほど喋らないというか、選手とは距離を取るタイプでしたし、とにかく決まりごとは多いなと思いましたけど、とりあえず『この人に必死に付いていこう』としか思っていなかったですね。

 松本の街の人たちにも、ソリさんのあのキャラクターがハマっていましたし、印象に残るような言葉を考えて使うじゃないですか。そういうところはうまいなと思っていましたけど、普通の話をした印象は本当にないですね(笑)。

 毎回試合直前のロッカールームで、ユニフォームに着替えている時に、スタメン組にはソリさんが回ってきて、やってほしいプレーや求められるプレーを3点ぐらい言われるんですよ。直接のコミュニケーションはそこだけでしたね。『こういうチームだから、ここは気を付けて』とか。

 あとは試合が終わったら、普通はロッカーで締めるじゃないですか。それもなくて、みんなでストレッチしている時に『お疲れさま』といって握手すると。本当にそれぐらいの関わり方でした」

――そうすると選手とコミュニケーションを取るのは、試合当日の試合前と試合後ぐらいなんですね(笑)。

 「僕も5年一緒にやったので、さすがにちょっとずつ会話は増えていきましたけど、特殊な人ではありましたね(笑)」

田中隼磨の現役引退時に集結した反町康治監督(右手前)とその教え子たち

鳥肌が立つアルウィンの雰囲気。みんなで勝ち獲った夢のJ1昇格

――僕はたぶん2012年に初めてアルウィンに行って、『こんなスタジアムの雰囲気があるのか』と思って感動したんですけど、特に移籍1年目に喜山さんが感じたアルウィンの雰囲気はいかがでしたか?

 「本当に凄かったです。毎回試合前のアップで鳥肌が立っていました。アレはなかなかできない体験ですよね。あんなに恵まれた環境はないなって。ホームゲームをサッカー専用のスタジアムでやれるのも初めてだったので、それも最高でした。Jリーグに上がったことでの熱狂もありましたし、そこでどんどん盛り上がっていくのを体感できたので、あのスタジアムは特別でしたね」

――試合前の選手入場で、スタンドの9割近いお客さんがタオルマフラーを回すじゃないですか。もう花が咲き誇っているみたいな。僕はアレが好きなんですよね。

 「アレも凄いですよね。本当に海外みたいな雰囲気で。徐々に強くなっていった時期も重なっていって、ある意味で異空間でした。もうあそこで戦えない選手は、どこに行っても戦えないですよ」

――2013年には最後の最後でJ1昇格プレーオフの進出を逃した経緯があって、その翌年の2014年で昇格を果たすわけですが、この2014年は前年の経験も踏まえて、その前の2シーズンとは少し違った形で入ったシーズンでしたか?

 「そうですね。徐々に自信は付けていきましたし、プレーオフには行けなかったけれど、ギリギリまで戦えた雰囲気があった中で、ある程度の自信もありましたし、昇格が現実的な目標になった年でしたね。

 そこで田中隼磨くんが来たのも大きかったです。J1でバリバリやっていた選手ですし、本当にプロフェッショナルな選手だったので、影響は受けました。『これが本物のプロなんだ』と思いましたし、あの人にクラブ自体が引っ張られた感じはありましたね。

 その2014年は開幕でうまくスタートダッシュを切れたこともありましたけど、ある程度のベースがそれまでの2年で固まった中で、J1の基準を知る人が来てくれて、『こうすれば勝てるんだ』ということをみんなが理解しながら戦えていましたし、調子の波も少なくて、自分たちの勝ち方をみんながわかっていたと思います」

田中隼磨

――結果的にアウェイの福岡戦で昇格を決めましたが、このチームでJ1に行けるんだという高揚感みたいなものは、あのゲームが終わった後に感じましたか?

 「感じましたね。終盤戦は順位的にも昇格は意識していましたし、『このチャンスを逃したら次はないな』と思っていたので、そこは気を引き締めてというか、絶対このチャンスは逃さないという想いで日々の生活を送っていましたし、勝てる自信はあったので、僕自身もだいぶ遠回りはしましたけど、『やっとJ1に行ける』という感じでしたね」

――僕もあの日のレベスタに行きましたけど、もう11年前ですか。懐かしいですね(笑)。

 「だいぶ歳を取りましたね(笑)」

28歳でたどり着いた初めてのJ1。楢﨑正剛から奪った開幕戦ゴール

――2015年シーズンは松本山雅にとっても初めてのJ1を戦うシーズンでしたが、喜山さんにとっても28歳で初めてのJ1にたどり着いた年でした。そういう感慨も大きかったですか?

 「大きかったですね。『ようやくここまで来たんだな』と思いましたし、特に岡山でなかなかうまく行かなかった2010年と、ヴェルディと讃岐に行った2011年の、あの2年間があったので、そこからまた這い上がれたことを考えると、感慨はありました。とにかく楽しみでしたね。『やっとJ1でやれるんだな』って」

――そして、J1デビュー戦になった開幕戦の名古屋戦でゴールを決めてしまうと。

 「あの時の豊田スタジアムは凄かったですね。たぶん松本のサポーターが1万人ぐらい来てくれたんですよ。僕は新体制発表会の時に、『開幕戦は1万人来てください』みたいなことを言ったんです(笑)。そうしたら本当に来てくれたので、あの光景は忘れられないですね。でも、3-1からしっかり同点にされて、最後に村山(智彦)がPKを止めて、アレがなかったら逆転負けだったので、『これがJ1か』と。スタジアムの雰囲気で持っていかれるみたいな。あの試合は良かったですね」

――ゴールを奪ったGKが楢﨑正剛さんですから。

 「それも自信になりましたね。オビナのパスが完璧だったんですよ。懐かしいですねえ。J1での初ゴールは嬉しかったですし、その前年からはボランチをやりながらもゴールは結構意識していて、J2で4点ぐらい獲れたんですけど、ボランチでもいかに点を獲るか、いかに前線へ飛び出していくかは考えていたので、それが開幕戦で出せたのは自信になりました」

――この年のリーグ戦は結果的に出場停止以外の試合にはすべて出ていたわけですが、実際に初めてJ1でフルシーズンを戦ってみて、どういう印象でしたか?

 「何より刺激的でしたし、試合で強みを出せれば、チームとしても自分としても十分できるんだなということを体感しましたね。ただ、シーズンの最後の方はディフェンスに回って、3バックの左をやっていたので、その経験も大きかったです。

 ただ33試合出たという感じではなくて、結構『外されるかも……』と思った時もあったんですよね。ホームでレッズに負けた試合の時も、次の週の初めはサブ組だったんですよ。でも、紅白戦で点を獲ったら、次の日はスタメン組になっていてみたいな。だから、立場が危うい時もあったんですけど、何とか使ってもらっていたという感じでした。

 シーズンの最初は中盤で出ていたんですけど、韓国代表のキム・ボギョンが入ってきて、彼は左利きで中盤の選手だったので、モロに僕と特徴が重なるじゃないですか。それで弾かれたと思ったけれど、3バックの左で使ってくれて、何とか試合に出ていました」

キム・ボギョン

――そもそもはJ1でもストライカーとしてプレーすることをイメージしていたと思うんですけど、結果的にボランチと3バックの左で出ていた中で、『これはJ1でもやれるんじゃないかな』というような手応えはあったんですか?

 「少しはあったと思います。でも、まさかディフェンダーをやることになるとは思ってもみなかったですね(笑)。ソリさんの2年目の年は、僕も開幕スタメンではなかったんですけど、練習試合で3バックの左で起用されて、その時にソリさんと喋ったのは覚えています。『ほかに選手がいないからやらせているわけじゃなくて、可能性があると思っているからやってもらっているんだ』というようなことを言われました。

 そういうフォローみたいな話をされたのも、その時だけかもしれないです。5年も一緒にやっていて(笑)。それが数年後になって、J1でも3バックの左で使ってくれることになったので、やっぱりいろいろなことが繋がっていますよね」

岡山と対峙した因縁のJ1昇格プレーオフ準決勝

――2016年シーズンは最後の最後で自動昇格を逃して、J1昇格プレーオフで敗退した年でもありますし、喜山さんにとっても松本山雅の第1次在籍期の最終年でした。この1年はどういう時間でしたか?

 「割とディフェンダーとしてやれる手応えもあったので、シーズンを通しては結構パフォーマンスも良かったですし、チームもゲーム内容がレベルアップしている感じがありました。また昇格できる雰囲気もありましたし、1年を通してセンターバックをやったのは初めてだったので、凄くやりがいも面白さも見出せていましたね。

 ただ、シーズン終盤に自分のパフォーマンスも落ちていって、それが試合の結果に直結したこともありましたし、評価という点では『やっぱりシーズン終盤ってメッチャ大事なんだな』と思いました。よく契約的には『シーズンの最後が大事』というじゃないですか。それを痛感した契約満了でしたね」

――J1昇格プレーオフ準決勝の相手がファジアーノだというのも、不思議な巡り合わせですよね。ちょっと因縁は感じました?

……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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