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「見ていて、ハッとさせられるようなものを持っている選手にどうしても目が行くんですよ」 鹿島アントラーズ・椎本邦一スカウトインタビュー(前編)

2025.10.08

【特集】これからのJスカウトに求められる視点#1

今や「欧州組」「日本人対決」という言葉が陳腐化するほど、数多くの日本人選手が海を渡って活躍している。欧州各国からの評価も年々向上し、10代の選手たちのキャリアプランに夢ではなく、リアルな選択肢として「欧州クラブ」が加わるようになった。日本でも秋春制の導入、U-21 Jリーグの創設など大きな改革が進む中で、才能の原石を見つけるプロたちは何を考えているのか?――これからのJスカウトに求められる視点について様々な角度からフォーカスしてみたい。

第1&2回は鹿島アントラーズの椎本邦一スカウト。1994年から名門クラブでスカウト業に足を踏み入れ、今年で31年目。柳沢敦、中田浩二、内田篤人、柴崎岳などワールドカップ出場選手を筆頭に、数々のタレントを鹿島へ導いてきた敏腕スカウトが、過去の獲得選手との思い出を紐解きながら、自身の仕事を改めて思索する。

ユース監督からの転身。社長の一声でスカウト担当に

――まずは、鹿島アントラーズでスカウト業に従事することになった経緯から話を聞かせてください。Jリーグの開幕当時は同クラブのユースで監督をされていました。

 「仕事を任されることになったのは1994年12月1日から。今年で31年目です。その2カ月前に息子が生まれたこともあって、よく覚えていますよ。あの頃は強化部の中にスカウトというセクションがなくてね。強化部のみんなで分担していたんだけれど、プロチームなら、やっぱり専門の人間をちゃんと置いたほうがいいんじゃないかと。そこで、当時の社長に呼びだされて『お前がやってくれ』と」

――いきなり、そう切り出されて、さすがに戸惑われたんじゃないですか。

 「ユースの立ち上げから関わって、ちょうど3年目で、これから面白くなるぞというタイミングだったから……ね。でも、社長から言われたら、やるしかないなと」

――何人体制でスタートしたのですか。

 「いや、僕だけ。それこそ、最初の頃は『いったい、何すりゃいいの?』って感じでしたよ(笑)」

――手探りですね。

 「住友金属(鹿島の前身)でコーチを務めていた時代に高校の試合を視察に行ったりはしていましたけど、実際に選手の獲得に動いたわけじゃなかったので……」

『内田篤人のFOOTBALL TIME』にも出演していた椎本邦一スカウト

地道に足を運んで顔を覚えてもらった最初の2、3年

――じゃあ、スカウトをやるにあたって、何から手をつけようと考えたのですか。

 「まず、顔を覚えてもらわなきゃいけない。もう、そこからでしたね」

――すでに、それなりの人脈が……。

 「ない、ない。だって、JSL(日本サッカーリーグ)の1部と2部を行ったり来たりするようなチーム(住金)の人間でしたからね、僕は(笑)」

――文字通り、ゼロからの出発ですね。

 「それこそ、どこに行っても“はじめまして”みたいな感じでしたよ。しかも、当時名将と呼ばれた高校サッカーの監督さんたちなんかは1回名刺を渡したくらいじゃ、全然覚えてくれない(笑)。だから2回、3回と渡してね。とにかく、自分という存在を覚えてもらうため、せっせと試合会場に足を運ぶことから始めましたね」

――もう、全国各地に。

 「もちろん、クラブが居を構える茨城県の新人戦から始まって、全国各地に足を運びましたね。なかでも、九州の高校、監督さんたちには本当にお世話になりました。実際、これまでに獲得してきた顔ぶれを振り返っても、九州の選手が多いですからね」

――実際に覚えてもらうまでには、それくらいの時間がかかるものですか。

 「2、3年はかかったかな」

「とにかく、こちらの思いを誠実に伝える。そのことに徹しましたよ」

――鹿島と言えば、93年にチャンピオンシップに出場し、96年にリーグ初制覇を成し遂げています。当時から、クラブのブランド力が生かされた面はあるのですか。

 「これがね、そう甘くはなかったんですよ。もちろん、タイトルを取ったことで鹿島というクラブが広く認知されるようになったのは確かでしょうけど、それとこれとは話が別で。ブランド力の後押しを得るようになるのはもう少し後のことですね」

――当時は一筋縄ではいかなかったと。

 「何しろ、相手は高校サッカーの重鎮たちでしたからね。あの頃は自分もまだ若かったし、監督さんたちと話すだけでもひと苦労でしたよ。ちょっと怖い雰囲気もあったから、失礼のないように、言葉を1つひとつ、ていねいに選びながら……ね」

――それが良好な関係を築く最初のステップということですが、そこから確固たる信頼を得るために、何を意識されたのですか。

 「誠実さ。具体的に言えば、嘘をつかないようにしましたね。都合のいいことは口にしないと。常に競争はあるし、シビアな世界だということは監督さんたちにはもちろん、選手の親御さんたちにも包み隠さず話してきましたね。そのスタンスは現在も守り続けています」

――チーム内における位置づけや出場機会の見込みなど、スカウト担当者が軽々しく口にできるような類のものではない――と。

 「そもそも僕らの管轄外。試合に出られるかどうかは、その時の監督が決めることですからね。とにかく、こちらの思いを誠実に伝える。そのことに徹しましたよ」

13チームと競合した柳沢敦の獲得秘話

――かなり早い段階から高校サッカーの逸材たちを獲得してきた印象があります。

 「スカウトとして本格的に選手の獲得に動いた95年オフに運よく柳沢敦、平瀬智行、池内友彦の3人が来てくれたんです」

――目下、鹿島でトップチームのコーチを務める柳沢氏は大変な争奪戦でしたね。

……

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Profile

北條 聡

1968年生まれ。栃木県出身。早大政経学部卒。サッカー専門誌編集長を経て、2013年からフリーランスに。YouTubeチャンネル『蹴球メガネーズ』の一員として活動中。

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