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ウィリアン、母に捧げるワールドカップ。「僕の母であったことを、名誉に思う」

2018.06.22

『セレソン 人生の勝者たち』 ロシアW杯特別企画


『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』は、長年ブラジル代表の密着取材を続けた藤原清美さんが膨大な取材ノートを紐解きながらレジェンドたちの成功の秘密に迫った力作だ。その中からウィリアンのパートを特別公開。「本当は、もっと母のそばにいたかった」と語る苦労人が、胸の内に秘める想いとは――?

「家族に良い人生を送らせてあげたい」

 10歳からコリンチャンスの下部組織で育ったウィリアンは、17歳でプロ昇格。当時から、瞬発力で相手を抜き去るドリブルが印象的な、将来有望な選手だった。1年後には10番のユニフォームを身につけ、チームの主力となっていた。

「少年時代は大変だったよ。練習に行くにも、時にはその交通費がなくて、両親が誰かに貸してもらえるように、頼むこともあった。選手はたいてい、下部組織の時には、多かれ少なかれ苦しい時代を過ごしているんだ。僕もその1人だった。

 その後、下部組織で評価され始めてからは、期待が持てるようになった。それでチャンスが来た時には、できるだけ良い形で、それをつかもうと頑張ったんだ。

 プロになれて幸せだよ。ビッグクラブで10番を背負っていれば、責任はある。でも、プレッシャーじゃなくて、責任だ。その責任を引き受けて、両親やコリンチャンスのサポーターに、もっと喜びを与えられることを願っている」

 当時、夢を聞くと、3つあると教えてくれた。

「スペイン、イタリア、イングランド、フランス、ポルトガル。そういう国でプレーしたい。フル代表になりたい。そして、家族に良い人生を送らせてあげたい。今も家族と一緒にいられるから、それが一番なんだけど、みんな元気で、幸せに暮らすために、僕が支えられるようになりたい」

 2007年には、18歳でU-20W杯に出場した。チームは決勝トーナメント1回戦でまさかの早期敗退に終わったものの、国際舞台でのプレーで注目を集めたウィリアンには、ウクライナのシャフタール・ドネツクからの高額オファーが届いた。

 希望していた国々ではないにしろ、サッカー大国へのステップとして、納得して移籍した。若くしてブラジルを出る息子のために、父セヴェリーノと母ゼゼーは、交互にウクライナに滞在し、そばで息子を支え続けた。母は「ウクライナは寒いから」と、せっせと毛糸の帽子を編んだ。

 そんな中、伸び盛りのウィリアンはあっという間にウクライナにも適応し、最終的に6年間の所属で、ウクライナ1部リーグの4シーズンや、UEFAカップを含む、合計11のタイトルに貢献した。UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝進出の原動力にもなった。国内リーグの年間MVPに選ばれたこともある。

 しかし、ウクライナで活躍すればするほど、ウィリアンの中には焦燥感が募っていった。これまで、U-15から年代別代表の全てのカテゴリーでプレーしてきた彼に、フル代表のチャンスが訪れなかったのだ。

「僕はシャフタールでとても好調だった。それは間違いない。でも、東欧のサッカーは露出が少ない。僕は代表候補となるべき選手が陳列される、ショーウインドウにさえ並んでいないんだと感じたんだ」

 シャフタールの好調を支えたのは、ウィリアンを含むブラジル人選手。彼の他にも、今はマンチェスター・シティで活躍するフェルナンジーニョや、バイエルンを経てユベントスでプレーするドウグラス・コスタ、それに、ジャジソン、アレックス・テイシェイラ、ルイス・アドリアーノがいた。

 みんなが同じ立場で戦っていたはずだった。しかし、10年W杯後、世代交代を進める当時のセレソン監督マノ・メネーゼスが、東欧でプレーする選手たちにも目を向け始めた時、招集されたのは、ドゥグラス・コスタやジャジソン、フェルナンジーニョだった。

「なぜ、僕じゃないんだ、と。あんなふうに、負の感情を強く抱いたのは、後にも先にも、あの頃だけだ。ジャジソンが招集された。フェルナンジーニョが招集された。僕もここでベストを尽くしているのに、そして、良いプレーをして、ゴールを決めているのに、なぜだ、と。

 でも、冷静さを取り戻してからは、こう頭を切り換えることができた。もし、監督が僕のチームメイトを招集しているなら、彼らがそれに値するからだ。そして、いつかは僕にも、そのチャンスが来るはずだ、と。

 セレソンに到達し、14年W杯を戦いたかった。それなら、あきらめてはいけない。誰が招集されているかに関わらず、自分が招集されるために、できるだけのことを続けなくては、とね」

「表玄関から出ていきたかった」

 しかし、彼を取り巻く状況は、彼の思う通りには動かないことも思い知らされた。ヨーロッパの最高峰の大会である、UEFAチャンピオンズリーグを戦っていた11-12シーズンのこと。その活躍ぶりに、イングランドのいくつかのクラブからオファーが届いたにも関わらず、シャフタール首脳陣は移籍を拒否したのだ。

 特に、チェルシーはウィリアン獲得のために、4度のオファーを繰り返し、最後には契約金2500万ユーロに達したが、シャフタールは断った。それは、ウィリアンを失望させた。

「絶望したと言ってもいい。あの金額であれば、クラブにとっても良い話のはずだった。それに、僕にとっては金額じゃない。チェルシーのようなクラブでプレーしたかった。それが、僕を求めてくれているのに、行かせてくれないなんて。

 19歳でシャフタールに来て、クラブと共に成長した。多くのタイトルを獲得し、経験を増すことができた。シャフタールには心から感謝している。そして、僕もピッチの中で、可能な限りの良い形で、クラブを手助けすることができたと思っている。

 だから、僕も自分のことを考えてもいいよね。キャリアの上では、ジャンプアップすべき時も来る。クラブには、それを理解してほしかったんだ。とても腹が立った。それを隠しもせず、出て行きたいことを主張した。僕はビッグクラブでプレーし、プロとしてもっと成長したかった。

 でも、腹を立てて好転することなんて、何一つない。新たなチャンスを求めていたけど、シャフタールを出て行くなら、表玄関から出ていきたい。それでもう1度、プレーに集中し直したんだ」

 そのチャンスが訪れたのが、13年のこと。ロシアのアンジ・マハチカラが、シャフタールに3500万ユーロの違約金を払って、ウィリアン獲得を発表したのだ。

 「その後の1年で、いろいろなことが起こった。全てが変わったんだ。シャフタールはUEFAチャンピオンズリーグを戦うクラブ。アンジはその下のUEFAヨーロッパリーグだ。でも、関係なかった。とにかくあそこを出られる金額を払ってくれるクラブに行けば、そこから先は、何が起こるか分からない。

 それが起こったんだ。アンジに問題が起こって、予算の削減を打ち出した。それで、僕は6カ月所属しただけで、また放出されることになった。その移籍先がチェルシーだったんだ。これほど素晴らしいクラブが、僕を忘れずにいてくれたんだよ」

 チェルシーにはすぐに適応し、プレミアリーグデビューとなったノリッジ・シティ戦で、サポーターから拍手喝采を浴びるプレーを見せた。ダヴィド・ルイス、オスカル、ラミレスといったブラジル人チームメイトと共に、1年目から、主力の1人として戦った。

「チェルシーが僕に興味を持ってくれているのは分かっていたから、ここ数年はいつも、チェルシーの試合を見ていた。だから、実現した時には、早くに馴染めたんだと思う」

 あれほど来たかった、夢のクラブへの到達。それは、セレソンへの道にもつながった。13年11月、親善試合に招集されたのだ。19歳でヨーロッパに来て、その時点で25歳。ここまで来るのに時間はかかったが、その後も、当時のセレソン監督ルイス・フェリペ・スコラーリに継続して招集され、ついには夢見ていた、14年W杯を戦うことになった。

「本当は、もっと母のそばにいたかった」

 悲願の14年W杯では4試合で途中出場、最後の3位決定戦でスタメンとなった。「もう少し、出場できれば良かったと思うけど、大事な機会を与えてくれたフェリポンに感謝している。僕のポテンシャルを信頼してくれた。信頼されてプレーする、というのは、いつでも大事なこと」と語る。

 14年W杯後も、ドイツ戦で大敗したセレソンを立て直すための重要な戦力として、ドゥンガ監督にも、その後、就任したチッチ監督にも、招集され続けている。

 チェルシーでも同様、主力として闘い続ける順風満帆なウィリアンに、大きな試練が襲った。最愛の母の死だ。

 ウィリアンと母は、とても仲の良い親子だった。ウィリアンのコリンチャンス時代に話をした時は「息子の成功は、すごくうれしいと同時に、少し怖くもある。いろいろなことが早くに起こり過ぎているような気がして。でもまぁ、この子は情が深い、すごく良い子だから、大丈夫かな」と話して、息子と顔を見合わせて笑う、優しくて控えめな女性だった。

 彼女は息子に2つの願いを持っていた。

「息子は謙虚な青年に育ってくれた。それは一番大事なこと。これからどんなに成功しても、謙虚であってほしい。成功した後に、人を踏みつけるような人間にはならないでほしい」

 もう1つは、母に捧げるゴール。

「母の日にゴールを決めれば、きっと彼は、そのゴールを私に捧げてくれるでしょ(笑)。でもねぇ、今年の母の日に決めてくれたらいいけど、そうならなければ、来年の母の日まで待たされるのも、困っちゃうわね。だから、いつでもいい。彼がゴールを決めて、笑顔でいてくれるのが一番うれしい」

 ウィリアンが「大丈夫、今週の日曜日の試合で決めるから。そのゴールは、お母さんのものだよ」と約束すると、パッと明るい笑顔になった。思わず「幸せですね」と聞くと、「すごくね。本当に幸せよ。すごく幸せ」と答えてくれたものだ。

 そんな母が、脳腫瘍に冒されたのは、14年のことだった。それから2年間、入退院と手術、化学療法を繰り返し、苦しみながらも、体調が良い時には「ロンドンも寒いから」と、毛糸の帽子を編み続ける母だった。

 父セヴェリーノが話してくれた。

「ウィリアンは、時には逃げているようでもあった。母が苦しんでいるのを見たくなかったんだろう。ただ、どこにいても電話をしてきて、できる限り、話をしていた。いつでも母に、色いろな言葉をかけていた。彼女がそれを喜んでいるのを知っていたから、とてもマメに連絡をしてくれたよ」

 16年10月、セレソンでのW杯南米予選を戦うために帰国していたウィリアンは、その遠征中、母の容態が悪化したことを聞いた。そのまま、アウェーのベネズエラ戦へ。そこで決めたゴールを、彼は母に捧げた。

 ウィリアンは、その時の思いを振り返る。

「あの時は、厳しい状況になっているのを知っていたから、ゴールを決めた時、僕の心には、闘い続ける母を称えたいという思いが浮かんだんだ」

 その試合が行われている時、母はすでに昏睡状態だった。しかし、ウィリアンの姉が付き添い、病室ではテレビで試合を流していた。そして、実況が「ゴーーール!」と絶叫した瞬間、母が目を開けようとし、いったん呼吸が戻った。ウィリアンのゴールを、見てはいなかったが、感じているんだということが、伝わってきたという。

 試合後、ベネズエラからロンドンに帰るため、カナダで乗り継ぎをする際に、訃報を受け取った。ウィリアンはそのまま、亡くなった母のいるサンパウロに戻った。

――あれから1年半が経ちましたね。

「難しい時期だったよ。家族や友達が支えてくれなければ、顔を上げて前に進むこともできなかっただろう。簡単じゃなかった。すごく落ち込んだ。4キロも体重が減ってしまい、ピッチの中でも、良いプレーができなくなった。クラブは僕をしばらく休ませることも考えたんだ。それまでやっていたようなサッカーが、できなくなっていたからね。

 でも、僕がサッカー選手になるために、手助けしてくれたのは両親だった。だから、プロとしての人生を失いかねない状態になって、このままではいけないと気付いたんだ。

 それからは、彼女が残してくれた良い思い出だけを、考えようとしてきた。それで、痛みは軽くなっている。少しずつ軽くなっているんだ。

 ただ、恋しさはいつでもあるよ。日ごとに増している。その恋しさからは逃れられない。それはどうしようもない」

――お母さんはいつでも励ましてくれたそうですね。

「いつでも試合の前と後には、メッセージを送るか、電話をかけてくれた。勇気を与えてくれたし、試合での幸運を祈ってくれた。僕がいくつになっても、『頑張りなさい』と、僕のモチベーションを高めてくれた。

 本当は、もっと母のそばにいたかったよ。彼女と人生を共有したかった。今度のW杯にも来てもらいたかった。

 でも、神のプランは、僕らが考えることより良いはずなんだ。だから、神が彼女を連れ戻すべき時が来た、ということだ。僕らはそれを理解して、落ち着いて、ここでの人生を続けていかなくては」

――まだコリンチャンスでプレーしていた頃、あなたの家を訪ねた時、お母さんは『母の日にゴールを決めて、私に捧げてほしい』と言ってましたよね。

「そうそう、彼女はいつも『私のためにゴールして』って頼んでいた。だから、亡くなる前のあのゴールだけじゃなく、たくさんのゴールを捧げてきたんだよ。

 いつでも愛情深く、子供たちのことだけを考えて生きる人だった。僕に言わせれば、世界で最高の母だったよ。だから、彼女のような人が僕の母であったことを、名誉に思うし、僕が得られた素晴らしい特権だったと思う」

――W杯ロシア大会でも、ゴールを決めないといけないですね。

「母のために。そして、父のためにも、妻と娘たちのためにも。双子の娘たちも今はもう6歳だから、いろんなことを理解するようになった。パパがサッカーをしていることも、しばらく帰って来ない時は、セレソンで遠征に行っているんだということもね。テレビで試合を見て、僕がゴールを決めたり、チームが勝ったら、すごく喜んでいるらしいよ。だから、母が僕のことを思ってくれたのと同じように、僕も娘たちのことを思って、彼女たちのためにもゴールを決めたい。

 そして、ブラジル国民のためにもだ。試合を見て、僕らと一緒に戦ってくれるんだから。ゴールを決めることができたら、間違いなく、大事な瞬間になるよ」

「家族は僕にとって、全てのベース」

 後日、ウィリアンの父に、これからW杯へ向かう、息子へのメッセージを語ってもらった。

「彼の母が亡くなる前日に決めたゴールは、彼にとっても心に刻まれるものになったことだろう。そして、このW杯でゴールを決めることができたら、それは心の栄冠になるはずだ。本当の意味で、母の死を乗り越える瞬間になるのかもしれない。

 彼は必ず決めてくれるよ。それで、優しい人間だから、ゴールの瞬間、迷ってしまうんじゃないかな。だって、母はある場所にいて、父は別の場所にいる。妻や娘たちはまた違うところにいたりして、どこを指さしていいか分からなくなる(笑)。

 でも、最初のゴールは、母のために決めてほしい。いつでも戦士であり、息子のために愛情を注ぎ続けた、そして、今も彼と共にいる母のために、決めてほしい。これを彼へのメッセージとするから、忘れるなよ、ウィリアン」

 来たる18年W杯に向けて、セレソンのチッチ監督は、公式的な発表の3カ月も前に、16人の選手の名前を、招集確定に近い形で公表した。もちろん、そのリストの中には、ウィリアンも入っている。

「幸せだよ。これからもベストを尽くすんだというモチベーションを与えてくれた。待ち遠しくもある。子供の頃からの夢であるW杯を、もう1度戦えるんだから。

 人生でいつでも掲げてきた目標は、プロとして、自分のクラブで、そしてセレソンで、いつでも最善を尽くすこと。世界でも屈指の選手になること。重要なタイトルを獲得すること。それが、W杯優勝だ。

 そして、このW杯が家族にとっても幸せなものになるように頑張りたい。家族は僕にとって、全てのベース。家族の笑顔のために、僕自身も笑顔でいられるように頑張るつもりだ」

WILLIAN
ウィリアン

1988年8月9日生まれ、サンパウロ州出身。10歳からコリンチャンスの下部組織で育ち、2005年にトップチーム昇格を果たす。07年よりウクライナのシャフタール・ドネツクに移籍。ロシアのアンジ・マハチカラで6カ月間プレーしたのち、13年よりチェルシーへ。ブラジル代表にデビューした11年以降、コンスタントに招集されている。


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Photos: Getty Images

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ウィリアンセレソンブラジル代表

Profile

藤原 清美

2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。