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ラングニックは最前線たり続ける。異端者のドイツサッカー変革史

2017.06.01

その思想はクロップ、R.シュミットへと受け継がれ、そして世界へ羽ばたく


「旧態依然とした3バック+マンツーマンのドイツサッカーを変えたい」

選手としてはアマチュア止まりだった男の執念は四半世紀の時を経て実を結び、クロップのドルトムント、ロジャー・シュミットのレバークーゼンへとその思想は受け継がれていった。今でもドイツサッカー界のトレンドセッターとして最前線を歩み続ける「ゲーゲンプレッシングの生みの親」――ラルフ・ラングニック。パイオニアの影響力は国内に止まらず、世界に広がる可能性を秘めている。

プロフェッサーの誕生秘話

 ドイツサッカー界において、伝説となっている番組がある。1998年12月19日に国営放送『ZDF』で放送された「スポーツスタジオ」だ。同番組はブンデスリーガのダイジェストを中心にした土曜日夜の人気番組で、この日は2部のウルムを率いていたラルフ・ラングニック(当時40歳)がゲストとして呼ばれていた。3部から昇格したばかりのウルムが、「4バック」×「ボールの位置に応じたゾーンディフェンス」という最先端の戦術によって、2部の首位に立っていたからである。

 当時ドイツではまだ「3バック」×「マンマーク」が主流で、ゾーンディフェンスを採用する監督はわずかだった。その中でラングニックが高い位置から激しくボールを奪うサッカーで結果を出し、注目の監督になっていたのだ。

 生放送の中で、ラングニックは黒板にマグネットを並べ、こうレクチャーした。

 「相手のボール保持者に対して、私たちの選手が三角形を作って囲い込む。数的優位を作るんだ。最終ラインでは相手のFWに対してマンツーマンでついて、1人が余って背後をカバーする。他の中盤の選手は、ボールを囲い込んだ選手の背後をカバーする。これによって高い位置からプレスをかけて相手のミスを誘発し、カウンターを仕掛けることができるんだ」

 新戦術の長所とメカニズムを単純明快に説明したことにより、ラングニックは「プロフェッサー」(教授)と呼ばれるようになった。

 その後もラングニックはドイツサッカー界で数々の伝説を残していく。シュツットガルト、ハノーファー、シャルケを経て2006年に3部のホッフェンハイムの監督に就任すると、2季連続で昇格して1部の舞台に駆け上がり、トップリーグでも「秋の王者」(前半戦首位)になった。そして2012年にオーストリア1部のレッドブル・ザルツブルクとドイツ4部のRBライプツィヒのスポーツディレクターになり、2つのクラブを共通のコンセプトで強化。15-16シーズンは自らがRBライプツィヒの指揮を執り、2部の首位を独走中だ。1部昇格はほぼ間違いなく、57歳にして今なお最先端を走り続けている(編注:このシーズン2位で2部昇格を果たしたRBライプツィヒは、初の1部挑戦となった16-17シーズンも快進撃を見せ2位フィニッシュ)。いったい「教授」は、これまでドイツサッカー界にどんな影響を与えてきたのか?

師匠であり盟友、グロースとの二人三脚

 実はラングニックには師匠がいる。長年シュツットガルトの下部組織のトップを務め、バーデン=ビュルテンベルク州において「戦術のパプスト(法王)」と呼ばれるヘルムート・グロースだ。ドイツの全国区ではほぼ無名だが、同州の指導者の間ではカリスマ的存在である。現在はラングニックの補佐役として、RBライプツィヒとザルツブルクで「ストラテジー(戦略)・アドバイザー」を務めている。

 グロースの人生が大きく変わったのは1981年のことだ。当時すでにエルンスト・ハッペルといった前衛的な監督たちがゾーンディフェンスを取り入れ、効率的なサッカーを試みていた。マンマークとは違い、無駄に体力を浪費しないのが長所だ。ハッペルはオランダ代表を率いて1978年W杯で準優勝する。

 ただ、グロースの目からすると、それらのゾーンディフェンスは、せっかく節約した体力を有効に利用していないように思えた。

 「その体力によって前線から激しくボールを奪いに行けるはずだ」

 グロースはそう考え、受け身のゾーンディフェンスとは一線を画す、「ボールの位置に応じたゾーンディフェンス」に挑戦し始める。

 グロースが率いるガイスリンゲンは、5部のクラブに過ぎなかったが、その新戦術はビュルテンベルク地区の若きアマチュア指導者たちを惹きつけていった。
その一人がラングニックだ。ラングニックは選手として3部まで行ったがプロの世界には届かず(当時ドイツのプロリーグは2部までだった)、25歳の時に指導者の道に進んだ。そして1985年、27歳の時にシュツットガルト・アマチュアの監督に就任する。

 翌年、ラングニックは同監督を続けながら、ビュルテンベルク地区サッカー協会のスタッフになった。そこでグロースに出会い、新戦術にのめり込んでいくことになる。

 グロースはのちにこう振り返った。

 「ラングニックは『ボールの位置に応じたゾーンディフェンス』に感銘を受け、私と一緒に戦術を発展させることになった。アマチュア指導者たちにその意義と方法論を伝えるために、私たちは練習法と指導書を作り上げていったんだ」

 ビュルテンベルク地区サッカー協会は、ドイツの中で初めて4バックを基本システムにした協会になった。

 この取り組みが評価され、1989年、グロースはシュツットガルトの下部組織の責任者(育成コーディネーター)に抜擢される。するとグロースは翌年、他クラブ(SCコルプ)で指揮を執っていたラングニックをシュツットガルトU-19の監督に招へいした。彼らはビデオデッキを購入して、アリーゴ・サッキが率いるミランの映像を徹底的に研究した。巻き戻しを繰り返し過ぎて、ビデオが擦り切れてしまったほどだ。

 余談ながら、シュツットガルトはクロップ(現リバプール監督)の出身地でもある。当然、グロースらバーデン=ビュルテンベルク州の専門家と交流がある。ただし、クロップの直属の師匠は、元マインツ監督のボルフガング・フランクだ。

 フランクはマインツを2度にわたって率い、当時のチームではクロップ、リーバークネヒト(現ブラウンシュバイク監督)、クラムニー(現シュツットガルト監督)が主力選手としてプレーしていた。フランクはサッキの映像を徹底的に分析して選手にゾーンディフェンスを伝え、のちにクロップも「フランクと一緒にビデオを見て、サッキの影響を受けた」と回想している。

 フランクもバーデン=ビュルテンベルク州の出身で、同州出身の監督は大きなくくりとして“シュツットガルト・スクール“と呼ばれている。ラングニックとクロップのサッカーにいくつかの共通点があるのは、このエリアにルーツがあるからだろう。さらに付け加えれば、ドイツ代表のレーブ監督も同州出身で、シュツットガルトでプレーし、さらに監督としてチームを率いた経験がある。

3部のウルムから始まった成功物語

 話を本題に戻そう。この戦術を武器に、ラングニックの出世が始まる。1998年にウルムを3部から2部に昇格させ、その年末に冒頭の国営放送に出演して名を知らしめた。このウルム時代、DFとしてプレーしていたのがトーマス・トゥヘル(現ドルトムント監督)である。ラングニックの下、約3年にわたってレギュラーとして活躍した。

 98-99シーズンの終盤、ラングニックは名門シュツットガルトの監督に就任し、ついに1部の舞台へ到達する。この時、教え子のトゥヘルをシュツットガルトの下部組織に呼び寄せた。

 00-01シーズンに残留争いに巻き込まれて途中解任となったが、2部のハノーファーからすぐに声がかかり、01-02シーズンに2部で優勝して1部昇格を果たした。キント会長と衝突して03-04シーズンの終盤に解任されたが、2004年夏にシャルケの監督になると、2位になってCL出場権を獲得して「教授」の地位は揺るぎないものになった。

「プロジェクト・ホッフェンハイム」

 そして2006年夏、ラングニックは「小クラブの近代化」という新たな道を選択する。3部のホッフェンハイムの監督に就任したのだ。

 ホッフェンハイムは世界的ソフトウェア会社『SAP』の創業者の一人、ディートマー・ホップが支援しており、資金的に大きなポテンシャルを秘めている。ラングニックはその資金力を生かし、「プロジェクト・ホッフェンハイム」を創立。クラブとしての形がないことを逆に生かして、次々に新しい試みに着手した。

例えば、各分野のエキスパートの結集だ。

 ドイツ代表メンタルトレーナーのハンス・ディーター・ハーマンを兼任で招き、クリンスマンがドイツサッカー協会に入れようとしていた元同国ホッケー代表監督のベルンハルト・ペータース(現ハンブルク)を育成責任者としてヘッドハンティングした。フィジカル部門には陸上競技の名トレーナー、ライナー・シュレイ(現ドルトムント)に声をかけ、クリンスマンがドイツ代表に取り入れたアメリカのアスリーツパフォーマンスの器具を買いそろえた。3部のクラブに、ドイツ最高クラスの人材が集まったのである。

 当然、ピッチ内でも新たな試みが始まった。ボールを奪った後の第一選択肢を縦パスとし、練習ではバックパスを禁止して細長いフィールドで行う紅白戦を実施。「縦→縦→ペナルティエリアで横パス→シュート」という高速カウンターの形ができ上がった。2008年12月、ブンデス第16節バイエルンとの首位決戦は終了間際に失点して1-2で敗れたものの、ホッフェンハイムの高速カウンターが何度も爆発し、今なお語り継がれるゲームになっている。第17節時点でホッフェンハイムは首位の座を守り、「秋の王者」になった。

 加えて1部に昇格したのを機に、ラングニックは師匠であるグロースをアドバイザーとしてクラブに招いた。2009年、2人はホッフェンハイムU-23の監督として、マインツU-19を率いていたトゥヘルを引き抜こうとしたが、マネージャーのハイデルに断られてしまう。そこで代わりに指名したのが、マルクス・ギズドル(14-15シーズン途中までホッフェンハイムを指揮)だった。

 ギズドルはグロースと同じガイスリンゲン出身で、グロースがガイスリンゲンの監督を務めている時、ギズドルの父親がコーチをしていた。その縁がラングニックと結び付けたのだ。

 2011年3月、ラングニックはシャルケの監督に就任すると、グロースをアドバイザーとして、ギズドルをコーチとして同クラブに連れて行った。ここでラングニックは激務がたたってバーンアウト症候群になり、同年9月に退任を余儀なくされる。だが「教授」はこの挫折すらも無駄にしなかった。

RBグループのSDとして後進を育成

2012年7月にレッドブル・ザルツブルクとRBライプツィヒのスポーツディレクターに就任すると、選手に食事改善を義務付けた。自身のバーンアウトの原因が不摂生な食事にあったからだ。

 戦術面ではホッフェンハイム時代の戦術をさらに進化させ、[4-2-2-2]というシステムを創造する。攻撃陣を中央にぎゅっと集め、そこで斜めと縦のショートパスを繋いで高速アタックを仕掛けるというサッカーだ。ボールを失っても、後方から走って来る選手が奪い返すので問題ない。意図的に混沌を生み出すことから、師匠のグロースは「コントロールされたカオス」と呼んでいる。

 「カオスになるが、選手たちが群れとなってボールに襲いかかる。そこには監督の操縦による秩序がある」

 ラングニックは師匠グロースとともに「ボールの位置に応じたゾーンディフェンス」を確立し、ホッフェンハイム時代にはそこに縦の速さを加え、さらにレッドブルにおいて中央に選手を集める特殊な形へと昇華させた。

 ちなみに現在グロースは、前述のようにザルツブルクとRBライプツィヒにおいて「ストラテジー・アドバイザー」として指導者の育成とスカウティングの最終チェックを行っている。

 このサッカーを実行すべく、ザルツブルクにはロジャー・シュミット(元レバークーゼン監督)、RBライプツィヒにはツォルニガー(15-16シーズン途中までシュツットガルトを指揮)を招へいした。2人はラングニックが用意した戦術ガイドブックを元に、自分の考えを加えてチーム作りを行った。特にシュミットはバーデン=ビュルテンベルク州育ちで、ラングニックとグロースが作った指導システムを勉強しており、より色濃い影響を受けている。

 来季、ラングニックは再びスポーツディレクターに専念し、RBライプツィヒには新監督が招へいされる予定だ。

 「監督よりスポーツディレクターの方が、より長期のプロジェクトに取り組める。今私がやりたいのは短期ではなく、長期のプロジェクトなんだ」
ラングニックはこれからもドイツサッカーのパイオニアであり続けるだろう。

Photos: Bongarts/Getty Images

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Profile

木崎 伸也

1975年1月3日、東京都出身。 02年W杯後、オランダ・ドイツで活動し、日本人選手を中心に欧州サッカーを取材した。現在は帰国し、Numberのほか、雑誌・新聞等に数多く寄稿している。