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『魂の息吹くフットボール』への大いなるチャレンジ。いわきFC・田村雄三スポーツディレクターインタビュー

2023.01.10

悲願のJリーグ参入を果たした2022年シーズン。いわきFCは初挑戦のJ3リーグを鮮やかに制し、2年続けての“昇格”を達成。早くもJ2リーグへと、その戦うカテゴリーを上げてしまった。だが、傍から見れば順調過ぎるようにすら見えるその道のりも、当事者にとってみれば紆余曲折を経てきたことに疑いの余地はない。今回はクラブ設立の中心人物、田村雄三スポーツディレクターに話を聞くことで、改めてこのチームが辿ってきた7年間のストーリーを振り返りたい。

リアルに『サカつく』をやっていた感じ


――あらためて、J3優勝、そしてJ2昇格おめでとうございます。

 「ありがとうございます。僕はなにもやってないですけど(笑)」


――2015年末に株式会社いわきスポーツクラブを設立して丸7年、最初は福島県2部からのスタートでしたが、このスピード感は当初から思い描いていましたか?

 「会社には毎年カテゴリーを上げていくというロードマップがあるんですよ。ただ、地域リーグは上がれるだろうと思っていましたけど、全国地域サッカーチャンピオンズリーグを勝ち上がって1年でJFLに上がれたことは大きかったと思います。経験できてよかったですね」


――というのは?

 「僕は湘南でプレーし、現役引退後もフロントに身を置いて仕事をさせてもらいました。逆に言えば、湘南しか知らないし、Jリーグしか知らなかったので、地域リーグに所属するクラブがどのように運営されているのかを知れたのはすごく意義深かった。個人的な感覚では、地域クラブのひとたちのほうが苦労されていると感じました」


――それはどのような苦労ですか?

 「分かりやすいところで言えば、練習グラウンドです。湘南ベルマーレもいわきFCもグラウンドがあるけど、普通のクラブはグラウンドを借りるところから、それこそ抽選から始まって、どの時間なら取れるとか、今週は希望の時間帯が取れないからほかを当たるとか。そういうのを考えると地域クラブってすごいなと思う。いい選手は引き抜かれてしまうし、それでも生活していかなければいけない。そういうなかでクラブとしてなにを売りにするのか、地域や子どもたちに対してどういうことを働きかけていかなければならないのか。たぶんいちばんてっぺんにいるJリーグのクラブよりも地域クラブのほうがいろんなことを考えていると率直に思います。

 また、JFLではプロとアマが混在する難しさも経験させてもらいました。サッカーがどんなに上手くても面接で落とされるとか、サッカー部として取りたい選手であれば育成プランをしっかりつくるとか、当然ですけどリクルートもしっかりされている。J3では指揮を執っていないですけど、JFLとJ3はそんなにレベルが変わらないという感覚を持っているので、JFL出身の選手がJ3で活躍しても驚きません。人間性もしっかりしているだろうし、働きながら大好きなサッカーをやっているわけだから、懸ける想いは当然強い。いわきもJFLに上がった年からプロ化しましたけど、プロとはどういうものか、そのとき選手にしっかり教えました。東日本大震災をきっかけに生まれたクラブとして、チケットを買ってくださるひとに当たり前だけど一生懸命プレーする姿を見せなければいけないし、クラブのカルチャーとしてそういうマインドをしっかり植え付けなければならない。そんなこんなでいろいろやりくりしてきた7年間だったかなと思います」

J3王者としてシャーレを掲げるいわきFC(Photo: ©IWAKI FC)


――クラブの設立から立ち会ってきたからこそ得られた知見ですね。

 「そうですね。1年目なんて自分たちの試合が終わったあとに次の試合の副審をしなければいけなくて、着替えて副審をやっていたら、社会人チームのおじちゃんたちに『ちゃんとボールを見ろ!』とか言われて(笑)。『いや、俺普通のひとよりサッカー知ってるんだけどな』と思いながらも、いま振り返るとなかなか経験できないことを経験させてもらったという想いはすごくあります。知らない土地に来て、知らないひとたちと出会って、『サポーターってどういうふうに増えていくんだろう』とか、『ファンってどうやって勧誘するのかな』とか、『応援歌ってどんなふうにつくられるんだろう』とか、そんなことばかり考えていた。ほんと、リアルに『サカつく』をやっていた感じです。ちなみに副審をやると謝礼として3千円もらえるんですけど、僕がもらうのも違う気がしてクラブに入れました(笑)」

「いま振り返ると、1、2年目がいちばん濃かったかもしれないですね」


――初めていわきに行った際の景色は覚えていますか?

 「いろんなひとと出会い、いろんなひとに繋げていただいていまに至るんですけど、最初の頃は、当たり前ですけど『復興から成長へ』なんて僕たちが言うのはおこがましいほど震災の傷は深かった。それでもなんとか分かりたいと思ったし、このクラブがシンボルになれたらいいなと思っていました」


――地域のひとたちとの隔たりをどのように縮めていったのですか?

 「社長の大倉(智)と一緒にいろんなひととお会いしてプレゼンをしました。もちろんステークホルダーの中には受け入れていただけない方もいましたし、いろいろ言われたこともありました。その都度いろんなところで話をさせていただきましたけど、反発は大きかったと思います」


――黒船が来たような。

 「『東京の大企業がいきなり来てなにしてるんだよ』みたいな感覚はあったと思います。でも、安田(秀一・株式会社ドーム前会長)さんの理念や物流センター(ドームいわきベース)で雇用を創出することを含めて、志を持ってみんなでやろうと心に決めていたので、町のひとたちの会合に顔を出したり、いろんなところに伺ってお話をさせていただいたり、地道な活動を続けました。だから1年目は、365日のうち300日ぐらいはお酒を飲んでいた気がします(笑)。ほんとにそんなイメージしか記憶にない。とにかく理解してもらおうといろんな場に顔を出し、並行して事業を進めていく。ずっとその繰り返しでしたね」


――印象に残っている出来事などはありますか?

 「いわきの場合は普通のサッカーチームとは違い、安田さんが初めに物流センターとクラブハウスというハード面をドンと用意してくれたので、それに応えなければいけないし、後ろを振り返る暇はなかったです。練習が終わって午後物流センターで働くと疲れてコンディションを整えられないとか、そんなことを言ってる場合じゃなかったんですけど、チームの中に社員とプロ選手が混在する難しさはありましたし、一方で、カルチャーをつくってチームに根付かせなければならない。そうやっていろんなことを並行してやりながら前に進んでいましたが、なんでこんなことが起きるんだという問題もたくさんあった。選手が車で田んぼのなかに突っ込んで、田んぼの持ち主に頭を下げに行ったり、朝6時半ぐらいにマイクロバスを借りに行って、選手が寒いだろうからエンジンを温めて暖房を入れて30分ぐらい待ったり。『いちおう俺もプロで頑張ってきたんだけどな』って思いながら(笑)」


――それはいつの話ですか?

 「1年目なので、強化部長の時ですね」


――強化部長が選手の送迎を行っていたんですね。

 「中型免許を持っているのが僕しかいなかったんですよ。そういうところで免許を持っちゃってるんですよね(笑)。最初は練習場も転々としていましたし、それこそ土のグラウンドで練習していたので、休みの日にピーター・ハウストラというオランダ人の監督から連絡が来て、『今日これから雨になりそうだから、雨が止んだら明日の練習のためにグラウンドの水たまりをはけておいてくれ』と言われて、『グラウンドキーパーじゃないんだよ』と思いながら、スタッフと一緒にスポンジで水を吸って準備したこともありました」


――マンパワーが足りないから1人でいろいろやらないといけない。

 「最初は大倉を含めて5人しかいなかったですからね。練習場には僕を含めてスタッフが3人いて、ピーター・ハウストラと片言の英語でコミュニケーションを取っていました」


――1年目だけでも逸話がたくさんありますね。

 「でも、いま振り返ると、1、2年目がいちばん濃かったかもしれないですね。いつ呼び出しがあるんだって毎日ドキドキしてた(笑)。物流センターで働いている選手が仕事がきついと言うから、どのぐらい大変なんだろうと思って僕も一緒に働きましたし、そうやって経験させてもらい、社会との接点を持てたことはよかったですね。選手は地域のひとに見られていることを常に意識しなければならない立場ですし、実際クレームも多かったと思いますよ。頭を下げているイメージしか僕は記憶にないですから」

想像していなかった監督業が教えてくれたこと


――強化部長を1年間務めたのち、2年目の2017年には監督になります。

 「『魂の息吹くフットボール』というスローガンはあったし、僕と大倉は湘南生まれだからその言葉のイメージはできているんですよ。でも、1年目のサッカーを観た時に、『これはちょっと違うんじゃないか』と思った。それを大倉に話したら、『じゃあおまえがやってみろ』と。それで監督をやることになりました」


――田村さんが監督をやるイメージは正直ありませんでした。

 「自分も湘南を辞めた時に監督をやろうとは思っていなかったし、イメージもなかった。でも自分に課せられたのはクラブのカルチャーをつくることだから、『「魂の息吹くフットボール」という言葉を整理して形にするところまでならできます』と引き受けました。もちろん僕ひとりではできないので、初期メンバーをはじめ、みんなでマインドを合わせながら進んだのが2~4年目ですかね。とはいえ、クラブがどうあるべきだというのはいまもずっと考えていること。前に進めば進むほど、社員が増えれば増えるほど、細かい齟齬は生じます。なぜならまだつくっている最中だから。だからその都度修正し、また伸びて、また修正して、そんなことを繰り返している感じです」


――カルチャーを言葉にすると、どういうものになりますか?

 「まず絶対に外せないのはこのクラブの設立背景です。東日本大震災が契機となって生まれたチームなので、その地になにを根付かせたらいいのか、いわきFCはどうあるべきなのか、それを考えた時に、プレーする選手は倒れてはいけないし、90分間足を止めてはならない。だから、湘南の時の経験はすごく活きています。どういう時にひとは喜ぶのか。すごいプレーを目にした時、若者が倒れずに一生懸命走る時。観ているお客さんの腰が上がるのはシンプルにそういう時ですよね。そのシンプルなことをうちの選手たちにも素直に表現してもらいたい。そのために我々は日本のフィジカルスタンダードを変え、『魂の息吹くフットボール』を体現し、『復興から成長へ』繋げたい。もちろんカルチャーなんてそう簡単にできるものではないと分かっていますし、自分たちがどうあるべきなのかは、いまもずっと考えています」


――湘南時代に培われたものがいまに活きている。
……

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いわきFC田村雄三

Profile

隈元 大吾

湘南ベルマーレを中心に取材、執筆。サッカー専門誌や一般誌、Web媒体等に寄稿するほか、クラブのオフィシャルハンドブックやマッチデイプログラム、企画等に携わる。著書に『監督・曺貴裁の指導論~選手を伸ばす30のエピソード』(産業能率大学出版部)など。

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