REGULAR

「2人のエスコバル」

2020.03.23

コロンビア1989 PARTE 1

世紀の麻薬王パブロ・エスコバルに牛耳られ、殺人都市と化したメデジン。一方、エスコバルは貧民を救い、病院や学校を建て、フットボールを支援した。

麻薬王のクラブ、ナシオナル・メデジンは国内の精鋭を集結させ、監督経験わずか3年のフランシスコ・マツラナが世界最先端の戦術を導入。コパ・リベルタドーレス初制覇を遂げ、そのナシオナルの選手を中心としたコロンビア代表を28年ぶりのワールドカップへ導く。

1989年、コロンビアのフットボールは「独立」を果たした。

死の影を纏いながら、どこまでも快楽的なスタイルは唯一無二――わずか5年あまりで消滅する史上希有なチームの足跡をたどる物語。

 「ごるっ……」

 この呟きとともに、1発目の弾丸が発射された。

 パンッ、パンッ。続いて2発。この時点でバーにいた客2人は銃声だと気づいた。

 「ゴルッ、ゴル」

 すでに倒れている男の体に、もう2発の銃弾が撃ち込まれる。バーの客2人が駐車場に駆けつけた時、

 「これはオウンゴールのお礼だ」

 最後の1発が撃ち込まれ、ピストルを持った男は他の3人とともにピックアップトラックに乗り込んで去っていった。「ゴル」はGOLで、得点場面で実況がこれを連呼するのが南米流である。犯人は「ゴール」と言いながら撃ち込んでいったのだ。

 1994年7月2日午前3時、コロンビア代表主将アンドレス・エスコバルがメデジン郊外のナイトクラブ脇の駐車場で射殺された。

 犯人はウンベルト・カストロ・ムニョス。麻薬カルテルでボディガードや運転手をしていた男だった。1995年に有罪判決を受け、懲役43年が言い渡されたが、模範囚で11年間の服役後に釈放されている。バーの駐車場でエスコバルと口論になった末の犯行だったと自供していた。

 「悪い時に悪い場所にいた」

 後に、フランシスコ・マツラナはそう述懐した。

 「社会とフットボールには密接な関係がある。特にあの頃のコロンビアはね。けれども、アンドレスに起こった出来事は直接それとは関係がない。ある意味、いつでも、どこでも起こり得ることだった」

 マツラナはエスコバルを主将に指名したコロンビア代表監督であり、ナシオナル・メデジンの監督でもあった。1989年にナシオナル・メデジンを南米チャンピオンに導き、コロンビア代表を28年ぶりにワールドカップに出場させた立役者だ。歯科医でプロフットボーラーという変わったキャリアの持ち主でもある。マツラナの最大の功績は1990年イタリアワールドカップでのベスト16でも、2001年に初めてコパ・アメリカに優勝したことでもない。1989年に始まる、フットボール史上でも希有なコロンビアを牽引したことであり、コロンビアのフットボールをいわば「独立」させたことにある。

 1989年はコロンビアのインデペンデント・イヤーだった。

 カルロス・バルデラマ、レネ・イギータ、フレディ・リンコン、レオネル・アルバレス、そしてアンドレス・エスコバル……コロンビア代表の面々はとても個性的で、彼らのスタイルはフットボール史上でも極めて特異だった。長くアルゼンチンの影響下にあったコロンビアのフットボールが、「彼ら自身のため」に生まれ変わったのが1989年なのだ。

 この年、マツラナ監督率いるナシオナル・メデジンは東京の国立競技場でACミランとトヨタカップを懸けて対戦している。アリーゴ・サッキ監督に率いられ、飛ぶ鳥を落とす勢いにあったミランが延長の末1-0で勝利しているが、サッキが言うように試合はまさに「ミラーゲーム」だった。当時最先端のはずだったミランのゾーナル・プレッシングは、なぜかナシオナル・メデジンにコピーされていたのだ。実際にはコピーではない。まだミランのコピーなど、どのチームにもできていなかった。マツラナはまったく違うルートから時代の分岐点となる守備戦術を導入していて、つまりミランとメデジンの改革は同時進行していたのだが、それはまた別の機会にしたい。

 ともあれ、温厚で思慮深い元歯科医は、とてもあの暴力と殺戮が日常だった時代のど真ん中を生き抜いてきた人物には思えない澄んだ瞳のまま、エスコバルの衝撃的な死に関しても、それが麻薬カルテルの仕業であるとか、ワールドカップ賭博で生じた損益に絡む逆恨みかといった噂には触れず、ただ「悪い時に悪い場所にいた」とだけ答えている。マツラナの注意深さだが、同時に一面の真実でもあるだろう。

フランシスコ・マツラナ監督

 いずれにせよ、アンドレス・エスコバルの死によって1つの時代の幕は降ろされた。史上最も自由にして奔放、ストリートフットボールそのものでありながら、時代の最先端を行くモダンさを備えたコロンビア代表は、もう二度と戻ってこなかった。

 「なんで6発だったんだろう?」

 「なぜとは?」

 「ワールドカップのコロンビアの失点数は5だった」

 ルーマニアに1-3、米国に1-2で敗れ、最後のスイス戦は2-0で勝っている。得点2、失点は5だ。アンドレス・エスコバルに撃ち込まれた弾丸は12発とも言われているが、銃声は6回しかない。あの時バーに偶然居合わせた客の1人だったロドリゲスは、弾丸の数と1994年ワールドカップでのコロンビアの失点数がなぜ同じでなかったのかが気になっていた。友人にそのことを話すと、

 「ただの偶然だろ。そもそも弾丸は6発で5発じゃない」

 そう言われると、ただの偶然のような気もした。彼らも参列したエスコバルの葬儀には12万人が来ていた。


「紳士」アンドレス

 アンドレス・エスコバルはコロンビア代表のキャプテン、ナシオナル・メデジンの守備の要。ニックネームは“El Caballero del Futbol”(フットボールの紳士)。冷静沈着な振る舞いと鉄の意志で知られていた。

 コロンビアは1994年ワールドカップの「優勝候補」だった。本当にその実力があったかどうかはともかく、ペレがそう言ったからだ。監督のマツラナは「過大評価だった」と振り返っている。南米予選でアルゼンチンを相手に敵地で大勝(0-5)したことで「期待のインフレーションが起きた」と。そもそもペレの予想は“当たらない”ことで有名だったが、それが定説化するのはこの時の大外しのせいだ。コロンビアはルーマニア、米国に連敗し、2試合で敗退が決定している。最後のスイス戦は誰も覚えていない。

 米国の34分の先制点がエスコバルのオウンゴールだった。ジョン・ハークスの左サイドからのアーリークロスに対して伸ばした足はボールに触れたが、軌道を変えてそのままゴールインしてしまう。アーネスト・スチュワートが加点し、コロンビアは89分に1点を返したがそこまで。米国は1950年以来のワールドカップでの勝利を挙げ、コロンビアの敗退が決まった。

米国戦でのオウンゴール後、アンドレスは頭を抱えピッチに倒れこんだ

 コロンビアの選手たちはすぐに母国には戻らなかった。ファンの期待を裏切ってしまった罪悪感もあったに違いないが、それよりも単純に危険だったからだ。

 「アンドレス、何も言うな、何もするな。今はまだ戻らない方がいい」

 アルバレスは帰国を思いとどまるように説得している。メデジンは殺人都市だった。10万分の380。殺人率0.0038%と言うと少ない感じもするかもしれないが、殺人事件の発生率から言えば世界最悪クラスだ。ピーク時は200万人の人口中、2600人が殺されたという。警官だけでも500人が殺傷されていた。国家も警察もノーコントロールの無法地帯といっていい。

 国民の期待が膨張した米国ワールドカップで惨敗を喫した。その戦犯とも言える主将がメデジンに戻れば、鬱憤を晴らそうという輩がどのぐらい待っているかは想像もつかない。だが、エスコバルの意志は固かった。

 「誰かが説明する必要がある。その誰かは俺だ。このチームのキャプテンであり、敗退の原因の1つになったオウンゴールをした。だから俺が国民に説明しなければならない。心配はいらない。何も後悔していないし自分を卑下してもいない。俺たちはベストを尽くしたが負けた。それがフットボールだ。人々もわかってくれる」

 その時は、1週間後に殺されるとはもちろん思っていない。

 「また会おう! ここで人生が終わるわけじゃない」

 エスコバルはイタリアのACミランへの移籍が内定していた。5年間付き合った婚約者との結婚も控えていた。ワールドカップ早期敗退と自らのオウンゴールは心の傷にはなったが、27歳の彼にとってそれでも未来は明るく輝いていた。

 エスコバルの父ダリオは銀行家で、貧しい子供たちが道を誤らないようにフットボールができる組織を立ち上げていた。兄サンティアゴもプロフットボーラー、ナシオナル・メデジンでは兄弟でプレーしたこともある。

 「フットボールで争いをなくしたい」

 アンドレス・エスコバルは本気でそう考えていた。スポーツに平和を実現する力があると信じるほど、おめでたくはない。ただ、何らかの影響は与えられる、そしてそれは義務だと思っていた。父親がその一端を担ったように、自分にもその責任があると。米国からすぐに帰国したのも、その責任感ゆえかもしれない。危険なのは理解していた。ただ、それは彼にとって「やるべきことをやらない」理由にはならなかった。

「麻薬王」パブロ

 米国のテレビ局『ESPN』が2009年に製作した『2人のエスコバル』は、もしパブロ・エスコバルが存命だったら、アンドレス・エスコバルの死もなかったかもしれないと示唆している。

 コロンビア代表の「紳士」と世紀の「麻薬王」の共通点は名前だけだ。エスコバルはわりとよくある名であり、アンドレスとパブロにも姻戚関係はない。ただ、パブロ・エスコバルはナシオナル・メデジンのオーナーであり、熱狂的なファンとして知られていて、レネ・イギータなど何人かの選手とも懇意だった。アンドレス・エスコバルも、もちろんパブロ・エスコバルと面識はある。「紳士」は「麻薬王」とは距離を置いて接していたが、もしパブロ・エスコバルが生きていれば、ナシオナル・メデジンの中心選手が射殺される事態にはならなかったのではないかということだ。

 ワールドカップの半年前、1993年12月にパブロ・エスコバルは治安部隊によって射殺されている。20世紀最大級の悪漢について多くの説明は不要だろうが、とりあえず簡単に記しておこう。

 パブロ・エスコバルは1949年にメデジン近郊で生まれた。70年代に米国のヒッピーブームに乗じ、コカインの密輸を始めて莫大な資産を形成。全盛期には3兆円もの資産があり、世界第7位の大富豪だった。米国で流通するコカインの80%はエスコバルが関与していたと言われ、密輸に使うために飛行機や潜水艦まで所有していた。法務大臣と大統領候補を含む3人の政敵を殺害し、民間機を爆破し、ビルを爆破し、関与した殺人は4000人以上、コロンビアを無法地帯にした張本人である。

 「パブロは私の高校の2年後輩だ。確かに酷いことをしたけれども、良いこともした。学校や病院を建て、貧しい人々を大勢救った。もともとは社会活動家で選挙によって選ばれた政治家だ。当時もそう思っていたよ」

 マツラナはパブロ・エスコバルのことをよく知っている。自らが率いるチームのオーナーであり、高校の2年後輩なのだ。ただ、あえて多くを語らない。

 「良いことも悪いことも、彼と一緒に歩んできたわけだ。選手もチームも、金持ちも貧しい人々も、フットボールも」

 その澄んだ瞳から読み取れることは少ない。マツラナの指摘の通り、パブロ・エスコバルは民衆の英雄という側面を持っていた。ある種、独立のヒーローなのだ。民衆は国家に搾取され、国家は米国に搾取されてきた。麻薬という貧者の武器で米国から富を奪い返し、民衆に分け与えた。支配の鎖を断ち切った。子供たちにフットボールを与えたのはアンドレスの父と同じで、代表選手も輩出している。

 「世界は公平である」

 それがモットーの麻薬王は、自身はコカインを吸っていない。大麻は常用していたが、コカインはビジネスの道具と割り切っていたのだろう。

 最近、コロンビアで野性のカバが増えて困っているというニュースがあった。もともとコロンビアにカバはいない。パブロ・エスコバルが作った動物園で飼育されていたカバが、彼の死後に放置されていて、それが脱走して野生化したらしい。カバは見た目ほのぼのとしているが大変凶暴で、ライオンより危険だという。かつて世界最悪の殺人都市だったメデジンも今ではすっかり様変わりし、モダンで魅力的な都市になっている。パブロ・エスコバルはすっかり過去の人だ。その名残は野生化したカバぐらいかもしれない。

 2002年6月、人々はアンドレス・エスコバルの痛ましい事件を忘れないために彫像を建てた。パブロ・エスコバルの話は半ばタブーだ。だが、今でもその墓に献花は絶えず、若者の着ている流行のTシャツには知ってか知らずか、麻薬王の言葉がプリントされている。

 Plato o Plamo(銀か銃弾か)――。

Illustraion: JERRY
Photos: Getty Images, Gamma-Rapho via Getty Images

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Profile

西部 謙司

1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。