「100%でやってきたけど…」瀬沼優司が決めた道。地元・相模原を思うがゆえの引退劇の舞台裏【インタビュー】

相模原の流儀#12
2023シーズンにクラブ創設者の望月重良氏から株式会社ディー・エヌ・エーが運営を引き継ぎ、元日本代表MFで人気解説者の戸田和幸を指揮官に迎えたSC相模原。新たに築き上げた“エナジーフットボール”の礎を2024年6月より引き継ぐシュタルフ悠紀監督の下でJ2復帰を目指す中、“緑の軍団”が貫く流儀に2021年から番記者を務める舞野隼大氏が迫っていく。
第12回では、清水エスパルス(2012-14)、栃木SC(14、22-23)、愛媛FC(15-16)、モンテディオ山形(17-18)、横浜FC(18-20)、ツエーゲン金沢(21)と渡り歩き、2023シーズン途中から期限付き移籍で地元の相模原へと帰還を果たしていた瀬沼優司にインタビュー。キャプテンを務めた2024シーズン限りでの現役引退を決断した胸中を本人が明かしてくれた。
唐突にも感じた、「現役引退」という大きな決断。
1月5日、栃木SCからSC相模原に期限付き移籍していた瀬沼優司が進退を発表した。相模原からは2025シーズンの契約延長の話もあった。相模原市出身者として、地元クラブをJ2昇格に向けて引っ張る様を誰もが求めていたはず。しかし様々な選択肢がある中で悩んで、悩んで、悩み抜いた末にオファーを断り、13年におよぶキャリアを終える決意を固めた。
体がボロボロになるまで戦う選手もいる。様々な引き際がある中で、34歳のFWは自分にどんな“基準”を設けたのか。その口から出てきた答えは、実に瀬沼らしく誠実で、潔いものだった。
「声や姿勢で引っ張ってきた」が…感じ続けていた歯痒さ
──現役を引退されて、すでに忙しなく活動されている中で今日は取材の時間をありがとうございます。
「いえいえ。クラブのリリースや自分のSNSだけでは僕がなにを感じて引退を決めたか伝わりきっていないところはあったと思うので、取材の機会をいただけて、こちらとしてもありがたかったです」
──昨シーズンの最終節終了後に取材させていただいた時のコメントでは、今シーズンも現役は続けていく印象を受けました。現役引退を考えたのは、いつ頃だったのでしょうか?
「最終的な答えを決めたのは年明けでした。昨シーズンは『相模原のJ2昇格』か『自分自身の2桁得点』のどちらかを達成できなかったら、引退した方がいいのかなということをふわっと考えていて、それを達成できなかったことが1つの要因になりました。昨シーズンのFW陣の中で、自分が一番出場時間をもらっていましたけど、その中で年間3点しか取れていないのでは、チームに貢献できているとは思えなかったので」
──そうでしょうか……。キャプテンシーを出して戦っていた瀬沼選手は、プレー以外での貢献もすごく多かったと思います。
「そう反応してもらえることはうれしいですし、自分でも声や姿勢で引っ張ってきたつもりです。応援してくださる方々にもそういったことを言ってもらってきましたけど、自分はピッチの中で貢献したい気持ちが強かった。ですので昨シーズンの結果では到底満足できなかったことも、引退を決めた理由の1つでした」
──年明けに決断を下すまでは、いろいろな考えが頭をぐるぐるしていたのでは?
「そうですね。サッカーが嫌いになったことはありませんでしたし、昨シーズンは(J3第29節の)FC今治戦のように『トップパフォーマンスを出せたな』と思える試合はありました。
でも、それをどの試合でもアベレージで出すことができたわけではなく、20代の時のように体がよく動いていた時のイメージとの乖離を感じていて、変な思いかもしれませんけど、そのイメージでチームには貢献したかった。練習でも、今までなら相手に勝てていたと感じる場面で球際の勝負に負けてしまったり、走りの練習でも若い頃はチームで上位だった中でここ数年は真ん中より下の方になってしまっていました。引退のリリースに『一瞬たりとも後悔がないくらいピッチ内外全力で過ごしました』と書いたように、100%でやってきました。だけど、100%でやった上で強度が高い練習の日に動けていない自分のことを自分が嫌だった。本来ならもっとやれたし、もっと高い強度を見せて若手に『これ以上のものを出してやっていくんだよ』と引っ張っていきたかったけど、(実際は年齢を重ねていって)ついていくのに自分がいっぱいいっぱいになっていた。大好きなクラブに貢献したいのに貢献しきれない歯痒さを常に感じながら過ごしていました」
──今シーズンも続けて、次こそ昇格か2桁得点のどちらかのリベンジをするという考えもあったかと思います。
「もちろん、そういう考えはありました。だけど、ギャップを感じながらまた1年プレーをするには、大きな覚悟が必要でした。それで2025シーズンも頑張る気持ちに持っていけなかったことも、決め手の1つになりました」
「突き刺さるものがあった」“カズさん”とのカラオケ秘話
──年末には三浦知良選手の自主トレにも参加されていました。その時はまだ現役を続けるか、引退するか迷いながら練習をしていたのでしょうか?
「そうですね。毎年参加させてもらっていましたし、この年齢なので休みすぎるのも嫌だったから(現役を続行すると決めた時のためにも)やれる準備を常に重ねようと思ったのと、あとは自分にまだ燃えるものがあるのか確かめにいく意味もありました」
──けじめをつけて相模原を退団するにしても、例えばJFLのアトレチコ鈴鹿で現役を続けて三浦知良選手と一緒に戦う選択肢などはありませんでしたか?
「確かに、横浜FCで一緒に過ごした2年半でもカズさんの近くでプレーをすることで、人としても選手としても多くのことを学べました。
だから自分の中で相模原でもう1年続けるという選択肢が自分の中でなくなった時に、『カズさんとJリーグ昇格を経験したい』『もう一度カズさんの下で学びたい』と考えたこともありました。でも、最後は相模原で終えたい気持ちもありましたし、オファーがないのに無理に構想に入れてもらおうとしたら、カズさんにも鈴鹿にも迷惑をかけてしまうと思い、それなら引退した方がいいかなと思って、選手を辞めるという答えを導き出しました。当然カズさんにもその報告はしましたけど、一番言いづらかったですね……。カズさんよりも長く頑張りたい気持ちがあったし、自分も体が動く限りはやれるだけやりたいという思いもあったので」
──いろいろなことを考えながらも、最後は瀬沼さんらしく真っ直ぐな意志のもと、決断されたのが伝わってきました……。そして今は、その決断を「正解」にしようと全力投球中な印象を受けます。……



Profile
舞野 隼大
1995年12月15日生まれ。愛知県名古屋市出身。大学卒業後に地元の名古屋でフリーライターとして活動。名古屋グランパスや名古屋オーシャンズを中心に取材活動をする。2021年からは神奈川県へ移り住み、サッカー専門誌『エル・ゴラッソ』で湘南ベルマーレやSC相模原を担当している。(株)ウニベルサーレ所属。