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ジダンに“嫌われた”スコットランド人、ポール・ランバートの物語

2020.06.09

 過去に1度だけ、UEFAチャンピオンズリーグ決勝でスコットランド人がマン・オブ・ザ・マッチに輝いたことがある。

 23年前の1997年5月28日、ドイツの名門ドルトムントはクラブ史上初の欧州制覇を成し遂げた。決勝の相手は前年度覇者のユベントスだった。連覇を目指す当時のユーベには、FWクリスティアン・ビエリやFWアレッサンドロ・デル・ピエーロ、MFディディエ・デシャン、DFチーロ・フェラーラといった名だたる選手がそろっていた。何より、彼らには加入1年目のジネディーヌ・ジダン(当時24歳)がいた。しかし、フランスの至宝は決勝では完全に封じ込められるのだった。

名将と出会いキャリアが一変

 そのジダンを徹底的にマークし、ドルトムントを3-1の勝利に導いてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた選手こそ、スコットランド人のMFポール・ランバートである。

 そもそも、前年度までスコットランドのマザウェルに所属していた彼が、なぜドルトムントでプレーするようになったのか。ランバートは1996年夏、マザウェルとの契約延長に応じずにフリーエージェントの道を選んだ。それは一種の賭けでもあり、実際に「どこからも声がかからなかった」とランバートは英紙『The Times』に語った。

 唯一、声をかけてくれたのがドルトムントを率いる名将オットマー・ヒッツフェルトだった。実は1994年のUEFAカップ1回戦でドルトムントはマザウェルと対戦しており、ヒッツフェルトがその試合を覚えていたのだ。そして名将との出会いで、ランバートのキャリアは一変する。

 ヒッツフェルトはランバートのスコットランド人らしい規律正しく精力的なプレーを評価して同選手を攻撃的MFから守備的MFにコンバートし、レギュラーに据えた。

 それでも順風満帆だったわけではない。ドルトムントでの初戦では、マークの引き渡しやコーチングがまったくできず失点に絡んだ。そこでハーフタイムに同僚のアンドレアス・メラーから「右」「左」「マンオン(背負っている)」のドイツ語を教わり、何とか対応したという。

指導者としてジダンと再会

 そのシーズン、ドルトムントはブンデスリーガで3位に甘んじるも、CLでは順調に勝ち上がり、準決勝でマンチェスター・ユナイテッドを下して決勝に進出。そして運命のユベントス戦を迎えた。

 試合はカール・ハインツ・リードレの2得点でドルトムントがリードするも、後半から投入されたデル・ピエロに1点を返されてしまう。だがその直後、ドルトムントのラース・リッケンが途中出場からファーストタッチで決定的な3点目を奪い勝負あり。試合後、ランバートは幼い息子を抱えてピッチを一周した。

 ドルトムントは翌シーズンもCLで4強まで勝ち進むのだが、その場にランバートの姿はなかった。彼は1997年11月にスコットランドに戻り、セルティックに移籍していたのだ。

 ホームシックが理由だと報じられたが、実際は違った。「2歳の息子が病に侵されたんだ。痙攣と失神を頻繁に繰り返した。医師には5歳まで症状が続くと言われた。だから母国に帰ることを決めた」

 現在イングランド3部のイプスウィッチを率いるランバート。実は、引退後にもジダンに会ったという。指導者に転向後、レアル・マドリードの練習を見学に行った際にカルロ・アンチェロッティ監督の下でコーチを務めるジダンに会ったそうだ。するとジダンは、あの決勝戦を思い出したようで「オー、ノー! 君じゃないか!」と叫んだ後、笑顔で握手を求めてきたという。

 英国以外のクラブでCLを制したスコットランド人は今のところ1人しかいない。それが、ジズーに“嫌われた”ランバートなのだ。


Photo: Getty Images

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Profile

田島 大

埼玉県出身。学生時代を英国で過ごし、ロンドン大学(University College London)理学部を卒業。帰国後はスポーツとメディアの架け橋を担うフットメディア社で日頃から欧州サッカーを扱う仕事に従事し、イングランドに関する記事の翻訳・原稿執筆をしている。ちなみに遅咲きの愛犬家。

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