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ベネズエラ代表にW杯の熱と平穏を。“野球の国”での挑戦記

2017.09.08

努力、継続性、不屈の精神…準優勝のメダルはその証だ

INTERVIEW with
RAFAEL DUDAMEL
ラファエル・ドゥダメル(U-20ベネズエラ代表監督/ベネズエラ代表監督)

南米で唯一ワールドカップ出場経験のない“野球の国”が、6月に行われたU-20ワールドカップで準優勝。しかも、母国では大統領派と反政府派が残酷な争いを繰り広げる最中の奮闘に、世界中から大きな関心と称賛の声が寄せられた。そのベネズエラを率いたのは、44歳の元代表GKで、チームをU-17時代から育て上げてきたドゥダメル。指揮官と親交の深いコロンビア人ジャーナリストが大会後に心境を聞いた。

 1999年6月16日の夜、ラファエル・ドゥダメルはエスタジオ・パレストラ・イタリアのピッチに立っていた。当時コロンビアの強豪デポルティーボ・カリでプレーしていた彼は、コパ・リベルタドーレス決勝でパルメイラスとPK戦による決着がつけられる前、キッカーに選ばれたチームメイトたちを集めて言った。

 「いいか、マルコス(パルメイラスのGK)は必ず左右どちらかに飛ぶ。だからシュートは真ん中に打て」

 パルメイラスが最初のPKを外した後、デポルティーボのファーストキッカーとして登場したドゥダメルは、マルコスの守るゴール右下に冷静にシュートを蹴り込んだ。仲間のもとに戻り、彼らから「なぜ真ん中に蹴らなかったのか」と問われるや否や、吐き捨てるようにこう言った。「畜生! あいつ、真ん中に突っ立ったままだったんだ!」

“ラファ”(ドゥダメルの愛称)はあの頃から、冷静さ、決断力、リーダーシップにおいて傑出していた。「野球の国」ベネズエラからコロンビアにやって来たばかりの頃は、誰もが彼の実力に懐疑的だったが、ピッチ内外で強烈な存在感を放ち、その頼もしさからたちまち人々の心をつかんだ。コロンビア1部リーグでは計6クラブでプレーし、自身の選手経歴で最多となる通算302試合に出場。中でもあのリベルタドーレスにおけるデポルティーボの躍進は、ドゥダメルのキャリアにおいて最大の偉業であったことは間違いない。なにせ、ベネズエラ人として史上初めてリベルタドーレスの決勝戦でプレーしたのだから。

 そしてあのラファが、今度は監督として母国のU-20代表を初めて世界大会の決勝に導いた。独裁政権に抗議する反政府派のデモが日に日に激化するベネズエラは、U-20ワールドカップの期間中、“ビノティント”(ベネズエラ代表の愛称でチームカラーの「赤ワイン」を意味する言葉)の試合の間だけ争いを忘れ、チームの快進撃に沸いた。18年前、デポルティーボがリベルタドーレスで奮闘し、麻薬カルテルによる事件と政府・ゲリラ間の紛争で荒れていたカリの街に歓喜をもたらした時と同じように。

始まりは5年前。躍進の背景

このチームの長所の一つが精神面の強さ。
U-17時代から強化してきた重要な要素だ

──U-20ワールドカップ決勝では残念ながら僅差でイングランドに敗れましたが(0-1)、ベネズエラはグループステージを無敗、無失点で通過し、決勝トーナメントでも厳しいゲームで勝負強さを見せた素晴らしいチームでした。大会を振り返っていかがでしたか?

 「このチームは今から2年前、U-20ワールドカップ出場を目標に33人の選手によってスタートしたが、基盤となっているのは私が指揮した2013年のU-17代表(ベネズエラ初のU-17ワールドカップ出場を達成したチーム)だ。ベースとなるメンバーが経験を重ね、国際試合で揉まれることによって鍛えられ、4年前と比較すると確実に勝負強くなった。選手たちは非常にインテリジェントで、ベネズエラがこれまで伝統としてきた形([4-4-2])から状況によってフレキシブルに変化し、相手の動きを読んで対応する術を身につけていったんだ。素晴らしいチームなのは素晴らしい選手たちのおかげ。監督としてこれ以上の名誉はない」

──監督になろうと思ったのはいつ頃のことでしたか?

 「実は14歳の時、故郷のクラブで本格的にサッカーをやり始めた頃から、コーチや監督の仕事に興味を抱いていた。GKというポジションからピッチ全体を広い視野で観察できることが面白くてね。それでずっと『いつかは自分でチームを指揮してみたい』と思っていたのさ。これまでに指導を受けたすべての監督から、戦術のバリエーションやトレーニングの方法、チームの管理など多くのことを学んだよ。欧州に移籍するチャンスはなかったが、ユース時代を過ごした最初のクラブ(ウニベルシダ・デ・ロス・アンデス)から引退するまでにベネズエラ、コロンビア、アルゼンチン、南アフリカで合わせて15のクラブでプレーする機会に恵まれた。特にコロンビア国内の非常にコンペティティブなリーグ戦で得た経験は、監督になった今も役に立っている」

──最初に監督を務めたのは2010年、生まれ故郷のメリダのクラブでしたが、それからわずか2年後にU-17ベネズエラ代表の指揮を任されていますね。クラブチームでの指導経験はどのように役立ちましたか?

 「クラブチームと代表チームでは大きな違いがある。クラブでは1週間おき、カップ戦がある時は72時間おきに試合があるから、反省から得られた解決策、改善案を次の試合ですぐに試し、生かすことができる。ところがユース代表ではそれが半年おき、1年おきになってしまう上、クラブが参戦するリーグと違ってトーナメントも短く、短期間で成果を出さなければならない。クラブでの指導経験は、短期間で効率的な仕事をするために何を優先すべきかを判断するために役立ったと言える。もちろんその意味では、現役時代に長年(1993~2007年)ベネズエラ代表としてプレーした経験も生かされているけどね」

──そのA代表でも昨年から監督を兼任していますが、ユース代表監督(U-17)としてのデビューは2012年でした。育成部門での指導から始めることの利点はあると思いますか?

 「ユース世代の指導では、教えながら学ぶことができる。自分のアイディアを正確に、かつ簡潔にわかりやすく伝えるためにどうすればいいのか、若い選手たちは気づかせてくれるんだ。若者たちはとても素直で率直で、スポンジのように何でも吸収するからね。私の場合はU-17代表で選手と一緒にアイディアを考え、即興で様々なことを試してみた。セットプレーの練習一つにしても、チーム全体で考えるようにしてみたら面白いアイディアがたくさん出てきて、私にとっても非常に勉強になった。それに育成年代では、自分が教えたことがそのまますぐに反映されるからわかりやすい」

ドゥダメル監督時のU-17ベネズエラ代表は2013年U-17ワールドカップで日本代表と同グループだった(3-1で日本の勝利)

──世界大会で準優勝に輝いた今回のU-20代表はまさに黄金世代で、すべては彼らをU-17代表に招集したところから始まりました。選手の視察、選考は具体的にどのようにして行っているのでしょう?

 「ベネズエラでは2007年にコパ・アメリカを開催した直後から育成部門に力を入れる方針が定められ、1部リーグではどのクラブも必ず、出場メンバーの中にU-19の選手を最低1人、コパ・ベネズエラではU-17とU-20を1人ずつ入れなければならないというルールが設けられた。このおかげで、例えば2年ごとに開催されるU-20南米選手権に向けて、1部リーグで2年間プレーしたキャリアを持つ選手、またはU-17世代でもプロのレベルを体験した選手を招集することができるんだ。その上で私の場合はベネズエラ各地にスタッフを置き、各クラブのユース選手たちのデータを随時送ってもらい、彼らのパフォーマンスやコンディションを把握するようにしている」

──GKだった経験から同じポジションの選手選考には自信があると思いますが、U-20ワールドカップではまさにGKのウィルケル・ファリニェスが大活躍しましたね。

 「全員がそれぞれのポジションで期待に応えてくれたが、やはりGKに対しては特別な思い入れがある。GKは仲間たちに平静をもたらす役割を果たさなければならないが、その意味で彼は本当に素晴らしかった。自分も20歳の時にファリニェスの才能のほんの一部でも持っていたら、と羨ましく思うよ。準決勝のウルグアイとのPK戦で、最後のキッカーのシュートを止めて決勝進出を決めた時の彼を覚えているかい? 飛び上がって喜ぶことも、ガッツポーズを見せることもなく、ただ笑顔を見せただけだった。ファリニェスは本当に落ち着いているんだ。試合後のロッカールームでも、みんなが歌って飛んで祝福する様子を彼は笑顔で見守っていて、私の方がはしゃいでいたくらいだった。ファリニェスがいてくれるおかげで、この先何年もベネズエラ代表のゴールは安泰だと断言できる」

好セーブを連発してベネズエラ躍進の原動力となったファリニェス。大会前の今年3月、W杯予選ペルー戦でA代表デビューを果たし同国のW杯予選出場最年少記録保持者となった

──ウルグアイ戦ではタイムアップ寸前に17歳のFWサムエル・ソサがFKから見事な同点ゴール(1-1)を決めましたが、ソサにFKを蹴るように指示したのはあなただったでそうですね。

 「いつもはアダルベルト・ペニャランダが蹴る位置だったが、あの時は交代で入ったばかりのソサの方が確かだと判断した。でもあの試合ではソサだけでなく、すべての選手たちが勝てると確信していて、最後までとても冷静だった。このチームの長所の一つがメンタル面での強さであることは間違いなく、それはU-17代表時代から時間をかけて強化してきた重要な要素の一つでもある」

ウルグアイ戦の後半ロスタイム1分、値千金のゴールを決めたソサ(右から2番目)は出場した5試合すべて途中投入で2ゴール。ジョーカーとして貴重な働きを見せた

母国のために。代表とともに

私ができるのは、人々に喜びを与えること。
すべては可能だと信じてカタールを目指す

──スマートフォンを手放せない今どきの若い世代を指揮するのは簡単なことではないと思いますが、どのようにしてグループをまとめているのでしょう。

 「我われが若かった頃はスマートフォンこそなかったが、いつの時代も16~19歳というのは難しい世代とされてきた。特にサッカーにおいては、この時期に進むべき道を見失う選手が多い。幸いなことに、ベネズエラのユース代表に選ばれる選手たちはその点において非常にプロフェッショナルだ。サッカーはライフスタイルの一つであり、仕事であり、情熱を持って楽しむものであるということをしっかりと認識している。つまり、ピッチでサッカーを楽しみながら目標を達成するためには準備が必要で、準備のためには秩序を保つことが大事だとね。その意味でも、ベネズエラ国内の全クラブが若い選手たちにトップチームに入る可能性を与えているのは非常にいいことだ」

──今大会が開催されている間も、ベネズエラ国内では過激な反政府デモとそれに対する治安部隊の弾圧が連日続いていました。チームの全員が気が気ではなかったと思いますが、実際どう感じていたのでしょうか?

 「一人の人間として、やはりとても辛い思いをした。でも同時にプロとして、今自分が集中すべきなのは政治的な問題ではなくサッカーであることもわかっていた。自分がより良いベネズエラを望んでいるのなら、私にできることは良いパフォーマンスから結果を出し、母国の人々に喜びを与え、ポジティブなメッセージを伝えることだとね。選手もまったく同じように感じていた。自分たちは目標としていたU-20ワールドカップに参加して、まるで夢のような世界にいるのに、国にいる家族や友人たちは毎日苦しい思いをしている。SNSを通して常に現地から悲しいニュースが伝わってきていたが、だからこそ勝利が必要であり、それがすべて我われ次第であることを理解していたんだ」

──母国の安定のためならば、準優勝のメダルと引き換えてもいいと思いますか?

 「私が望むのは、とにかくベネズエラが平穏を取り戻すこと。今回のU-20ワールドカップを通して我われは、努力、継続性、不屈の精神で誰もが不可能と考える目標を達成できることを証明してみせた。準優勝のメダルはその証だ。引き換えるのではなく、このメダルを得たプロセスを将来に生かしたいと思っている」

──準優勝を遂げたチームの次なる目標は、2022年のワールドカップですね。あなたの契約も2022年までとなっていますが、ベネズエラにとって史上初の本大会出場に向けてどんな点を改善したいと考えていますか?

 「2012年にU-17代表としてスタートした時から、このチームの目標は3つのワールドカップに出場することと定めてあった。13年U-17ワールドカップ、17年U-20ワールドカップ、そして22年にカタールで開催されるワールドカップだ。幸い2つの目標を達成することができたが、次なるワールドカップへの出場権獲得は我われにとって大きな挑戦になる。今回の準優勝で気持ちを緩めるのではなく、今までと同じように謙虚に、誠実に、そして精一杯の力を出し切り、すべては可能であると信じてカタールを目指したい」

──ベネズエラでは、A代表の代わりにU-20代表がワールドカップ予選でプレーすればいいという極端な意見もあるようですが、実際に現在行われている予選でU-20の選手に出場機会を与えることは考えていますか?

 「彼らはいかなる状況下においても決してひるまず、それどころか厳しい展開になればなるほどポテンシャルを発揮し、重圧に耐える器であることを証明してくれた。選手たちはこの後も歴史に名を刻み続ける意欲に燃えているし、その可能性を十分に秘めている。だが、U-20代表とA代表ではやはり違いがある。ペニャランダのようにすでにA代表でプレーしている選手もいるが、若手の台頭がA代表メンバーにとっていい刺激になることを考慮しながら、徐々にA代表の基盤を整えていきたい」

 U-20ワールドカップの期間中、最も励まされたのは「毎日、妻と子供たちから送られてくるビデオメッセージ」だったというが、決勝戦の前日、コロンビアからのある一報に驚かされた。名門インデペンディエンテ・サンタフェの会長から、大会後に同クラブの監督にならないかというオファーが届いたのだ。良いチャンスではないかと言ったところ、ラファの返事は明快だった。

 「感謝の気持ちを伝えつつ、丁重にお断りした。私の現在と未来はたった一つのカラーに染められている。ビノティントにね」

Rafael DUDAMEL
ラファエル・ドゥダメル

(U-20ベネズエラ代表監督/ベネズエラ代表監督)
1973.1.7(44歳) VENEZUELA

Coaching CAREER
2010-11 Estudiantes de Mérida
2012-13 U-17 Venezuela National Team
2013-15 Deportivo Lara
2015-  U-20 Venezuela National Team
2016-  Venezuela National Team

ベネズエラ北西部ヤラクイ州出身。選手時代は代表通算56試合1得点(93~07年)を記録した名GK。10代でプロデビュー、21歳でコロンビアの名門インデペンディエンテ・サンタフェに移籍し、99年には同国のデポルティーボ・カリでコパ・リベルタドーレス準優勝を果たす。アルゼンチンや南アフリカにも渡り、計15クラブでプレー。GKながらFKやCKを蹴り、キャリア通算二桁得点をマークした。10年に引退後、古巣エストゥディアンテス・デ・メリダで指導者の道に入り、12年にU-17ベネズエラ代表監督に就任。13年には日本代表とも対戦している(1-3で敗北)。15年からU-20代表監督を務め、昨年4月からはA代表監督を兼任。U-20W杯ではFIFA主催大会で同国代表最高順位となる準優勝を成し遂げた。

Translaion: Chizuru de Garcia
Photos: FIFA via Getty Images

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Profile

Fabián Rozo

18歳の時にコロンビアのスポーツ紙『Diario Deportivo』で記者活動を開始。その後『El Espectador』と『El Tiempo』両紙のスポーツ欄を担当し、コロンビア版『MARCA』紙の編集長も務めた。現在はコロンビア政府スポーツ省「Coldeportes」のプレス担当。W杯は2002年大会から継続的に取材している。

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