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【3日間無料】北中米W杯を“観照”できるか?商業化と平等感、欲望と消費に揺らぐサッカーファンへのヒント

2026.06.13

北中米W杯を深く味わうための論点#5

6月11日に開幕した北中米W杯をより深く味わうために、本特集では「戦術」「監督」「報道」「政治」「環境」など多角的な視点から、世界最大の祭典を掘り下げていく。第5回のテーマは「政治」だ。

北中米3カ国で行われるW杯に際し、出場国の増加をはじめとして大会は大きな変容を遂げた。ある面では一層顕在化し、ある面では一層複雑化するサッカーと政治の関係はいかにして変化しながら表現され、サッカーをみる私たちはその関係の中でいかなる目を持つことができるか。神戸大学でカルチュラル・スタディーズを研究する小笠原博毅教授に話を聞いた(取材日:5月21日)。

「“世界”を色分けしている」トランプ主義と重なるW杯の政治性

――はじめに、4年前に実施した小笠原教授へのインタビュー(過去記事『「サッカーに政治を持ち込むな」の根源的矛盾。人種差別、ロシア除外、Japan’s Wayに潜む複雑性』)を振り返りたいと思います。以前お話をうかがった際の論点の1つは「サッカーに政治を持ち込むな」という言葉にどんな意味があるのかでした。持ち込むなと言えるのは誰か、その権力関係はどうなっているのか。持ち込んでいい政治と認められたものはどんなもので、何が認められず、そこにどんな政治的な意図が含まれているのか。個別の事象を紐解きながら掘り下げていきました。4年が経過し、今サッカーと政治の関係はどのように変化したのでしょうか。

 「もう4年前というのが信じられないくらい隔世の感があります。あの時はすべてが政治につながっていて、持ち込んでいい政治と持ち込んではいけない政治が分けられている、というところまでしか話ができていなかったと思います。4年前の時点ではその話の説得力はあったと思いますが、今や持ち込んでいい政治と持ち込んではいけない政治を区別する力が明らかに、あからさまに見えてきていると感じます。今のポスト資本主義社会の中でもう一度力を回復させたいと考えているアメリカ、それに目をつけつつ違う世界を構想しようとしているロシア、漁夫の利を得ようとしている中国……そういったパワーバランスの中で持ち込んでいい政治と持ち込んではいけない政治が決められ、(ジャンニ・)インファンティーノ会長をはじめとするFIFAとそのブレーンたちは、その間をすごく綿密に見ている感覚です」

――W杯の開催地であるアメリカの(ドナルド・)トランプ大統領の発言を中心に、イランの大会参加をめぐるやり取りなど、「政治ニュースとしてのW杯」という見え方が露骨になってきている印象があります。

 「W杯の参加国増など、我われが世界中でサッカーを広めているという、その“世界”をもっと厳密に色分けしているように見え、曖昧さをなくすトランプ主義に重なるところがあります。グリーンランドがほしい、キューバで(フィデル・)カストロの弟を逮捕すると脅す、ベネズエラ大統領を拘束する……平気で搾取を主張し、実際にそれができる物理的な裏づけをひけらかしている。地図の周辺で曖昧だった地域を白黒はっきりとさせることによって、より巨大な資本主義の中心的な力が隅々まで行き渡るようなパッケージになっていると感じます。各地域のサッカー協会の権限を相対的に弱め、FIFAの比重をどんどん大きくし、集権化しようという流れが見て取れます。

ドナルド・トランプ大統領とジャンニ・インファンティーノ会長

 加えて言えることは、年俸も放映権料も高騰して商業化されきった現代のサッカーがもう嫌だという人が確かにいるし、4年前と比較してその声がより大きくなっているということです。クロアチアでサッカー社会学に取り組むベンジャミン・ペラソヴィッチという人物が中心になり、『Against Modern Football』という書籍が2025年に刊行されました。その中では、階層性と選別のプロセスがあり、商業化され、利益を生み出してセレブリティがやるようになった興行を見る、という状態になったサッカーをすべて否定しようとしています。グラスルーツで、手作りで、地域の中でいろいろなサッカーをやりながら、アンチ・レイシズムやアンチ・セクシズムやアンチ・コラプションという主張を行い、特定の政党に肩入れするようなサポーター集団がいるクラブをちゃんと批判する、そういうことをやっている人たちが確かにいるということです。それは『何が好きですか』『サッカーが好きです』『じゃあW杯楽しみだよね』という考え方とは完全に違う見方でサッカーを見ている人がいることの証明です。そうした順列の組み合わせではなく、それより明日自分たちが行うチャリティマッチのほうが大事で、移民の人たちに寄付するためのお金を集めるのだ、という考え方ですね。地区大会から世界大会へという右肩上がりの発想ではなく、その場で自分たちの存在や価値を共有し、それによって社会的インパクトを作るためにサッカーをしようという動向があり、考え方があり、そういった人々がいることを理解しておく必要があります。セルティックやザンクトパウリ、ディナモ・ザグレブのようにもともと社会運動や市民運動とすごく結びついているクラブたちのサポーターが、そういうことに取り組む様子がわかります」

出場48カ国を分かつ資源保持力。「かりそめの平等感の本質」とは?

――大会の大きな変化として48カ国に参加国が増え、初出場の代表がいくつか登場しました。

 「これまでの開催国のようにグラスルーツまでサッカーが浸透していて環境が整っていることがすでに伝わっている国々と比較して、グラスルーツまでどういうファシリティ(施設や設備などの物的資産)が整っているか、路上の遊びでサッカーをやっている子供たちの現状はどうかが伝わってこない国々があります。有名なクラブや海外のリーグでプレーしているエリート選手、代表の強さ、W杯の参加率ということではなく、裏庭や道端で子供たちがどういうふうにサッカーをしているか、どういうふうにサッカーを見ているかという情景を知りたい欲望は、特にサッカーフリークの間では尽きないはずです。そして、こういった欲望こそFIFAにとって好都合となっている皮肉な現象がある。開催国の選定であれ出場国の増加であれ、あの国のサッカーの『本当の姿』はどうなのだろう、というピュアなサッカーファンの欲望が動員されて、そのチャンスをFIFAが作ってあげているという形で開催国が承認され、出場国の増加が歓迎されています」

――スポーツウォッシングの複雑な在り方がここに横たわっているわけですね。

 「日韓共同開催のW杯だってその側面があったのかもしれません。日本でサッカーが盛んだと知らない人が実際に来てみたら、少年少女のサッカークラブだってあるし、野球ばかりやっていると思っていたけれど結構みんなサッカーをやっているということが伝わって、20何年経った今ではヨーロッパで何十人も日本人選手が活躍している。それはある種の理想的な発展であり目指してきた形ではあるけれど、そのプロセスの中でFIFAの戦略に乗った側面もあっただろう、ということですね。そういう意味でアフリカは注視すべき地域です。FIFAとしてはこの二重戦略、つまり上澄みをどんどん商業化してセレブ化することによって関心を集め、一方でグラスルーツへの注目をこの上澄みに対する関心を入り口にして喚起し、もっと深く観察したり考えたりするきっかけにしてほしい、というモデルに合致する。ここでうまく育成して教育して文明化させることで通用するプレーヤーを作り出す。そして結局その育成によって儲かるのはその選手たちを雇うことに成功したヨーロッパのクラブとなる。その過程でかつての宗主国と植民地の関係が浮かび上がり、国籍を変えてヨーロッパの代表になる、あるいはその逆が起こる。そういった『サッカーのグローバルサウス』問題はFIFAにとってみれば格好の材料で、発展や発達のために世界のサッカーを地ならしして機会を均等にするというお題目があり、今回のように参加国枠が拡大されるけれども、その政策的な思惑の実体は、お狩り場として原石をより商品価値の高いものへポリッシュしていくルートづくりの一環として機能する、という構造があります」

――出場国数の増加による試合数の増加は、近年の欧州コンペティションのあり方も相まって選手の負担増につながっています。

 「過密日程による選手の体調管理やメディカルの重要さも大きな論点を含んでいて、26人のメンバーがいて、勝ち進めば進むほどローテーションをしないと試合を作っていけない。そこに医療産業や栄養産業、製薬会社や医療機器メーカーが関わって、すべて使えるものは使って体調のメンテナンスとパフォーマンスの維持をしないと戦えないレベルの競技です、となり、お金のない“普通の身体”を持っている人では戦えなくなる。CLの決勝からW杯の開幕までは2週間を切っていて、それでもベストコンディションでW杯に参加するための資源とシステムが整っている国じゃないと満足にサッカーができない。個人の努力の範疇を超えたところで強力な資本の力が発揮されているように感じます」

――過密日程になって試合数が増え、それによって収益が増加するということと、過密日程になって試合数が増えるからより高度な医療や高度なデータが必要になって資本の力が問われる、ということが密接に結びついているわけですね。

 「そのレベルに身体を持っていくために必要なリソースをどれだけ動員できるかという『資源保持力』の戦いが存在し、それが大国と新興国を分かつ差になる。一見機会がより均等になり、門戸が開かれて、それを見せかけと断罪するところまでいくと違うかもしれないけれど……かりそめの平等感の本質にあるのは、生き残った強い奴は最高のパフォーマンスを見せてみんなを喜ばせ、それが大きな収益につながればそれでいいという思惑ではないでしょうか。今言った話はサッカーだけに限らず、多くのスポーツで見せかけの機会の平等とえげつないエリートの選別が同時に行われています。先日、男子マラソンの世界記録が2時間を切りました。そこからわかることは、もはやこの競技は持久走ではなくトップスピードをいかに維持できるかという競技に変わっていっているということです。そのために違法にならないサプリ、医療や身体のメンテナンス、食生活とリカバリー、そういう条件を整えられる子たちだけが記録に挑む資格を得るスポーツになってしまった。山本敦久さんが『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)などで書いていたように、これまで近代スポーツの身体は、理想のフォームや理想のタイム、理想のゲーム運び、パターンに合わせる、そしてそれはあくまでも実在する肉体がやっていることだ、という前提でいたけど、今や数字やデータの画面で示されたモデルに対して、自分の体をあらゆる手段を使って近づけていくということになってしまった。理想という曖昧模糊としたものではなく、角度や強度はこう、心拍数や脈拍数はこうという一覧表に自分のコンディションを合わせていくと必然的に高いパフォーマンスができる、という時代になってきたことの裏づけでもあります」

「消費」で収まってはいけない、スポーツにおける政治的勝利の重み

――前回お話をうかがった際は、明確に社会的メッセージを発し問題を浮かび上がらせる「ソーシャルなアスリート」についても取り上げました。(ラミン・)ヤマルはバルセロナの(リーガ)優勝パレードでパレスチナ国旗を振り、その様子はアイルランドのスタジアム近くに描かれました。ネーションズリーグで予定されているアイルランドとイスラエルの試合をボイコットしろ、という主張に用いられています。

 「『政治をスポーツから排除しなければいけない』と言う人が、イスラエルによるパレスチナでの虐殺を理由にああいう瞬間をアイコニックなものだと称えることがあります。イスラエルは排除されてしかるべきだと。しかし、試合をボイコットするわけではなくピッチでやっつけることがそのまま政治的な勝利になることもあります。それはスポーツよりも政治のほうが高位にあることを裏づけてしまう『代理戦争』という見方とは異なり、両者をパラレルな関係だと見ることから始めるということです。戦争や外交交渉によって相手を打ち負かすことよりも、サッカーでその国に勝つことのほうが重要な意味を持つと思っている人がいるわけですから。『サッカーに政治を持ち込むな』や『スポーツと政治を混同するな』と言えば言うほど、政治が高位にありスポーツというのは所詮政治よりも下位にあるものだという序列を繰り返しているに過ぎないのです。スポーツが持つ社会的インパクトやアスリートが持つ言葉や行動の重みはもちろんあり、アスリートが自分の政治的イデオロギーや社会的な立場を利用することによって公共空間にメッセージを発することもあっていい。内戦終結を訴えた(ディディエ・)ドログバがその代表例です。ただそれを認めてしまうとその逆のこと、すなわち政治がスポーツやサッカーを利用するということにも道を開いてしまいます。そこで、たとえそうではあっても、トミー・スミスとジョン・カーロスがメキシコオリンピックで黒い手袋をして右手を突き上げて公民権運動を支持し、(コリン・)キャパニックが膝をついて『Black Lives Matter』への連帯を示し、ドログバが内戦終結を訴えたように、そのような可能性があるのであれば、逆向きに開かれる可能性が残ってしまったとしても、そうあってしかるべきなのではないでしょうか。両方があることによって政治とスポーツのどちらが上かという不毛な争いを括弧に入れておくことはできますから。そしてそれを考える時、(ディエゴ・)マラドーナが“神の手”でイングランドから勝利を奪うことでマルビナス諸島のリベンジをした、となるのはマラドーナだからで、他の選手だとそうはならない。そのようにスポーツの能力やアビリティが他の社会的な人間の活動のアビリティと同等の価値を持つことにこそ注目すべき部分があるのです。『所詮エンターテイナーがその場しのぎの一時的な快楽を与えるだけで、消費されるだけ』ということで収まってはいけません。ただ残念ながら、それを受け取る側が消費者のマインドになってしまったがために、一時的な熱狂と消費だけで、刹那的に浮かんでは消えてしまうだけになってしまっている部分があります」

ディディエ・ドログバ

――スポーツにおける勝利と政治的勝利について考える時、W杯という舞台はどのような意味を持つのでしょうか。

 「スポーツやサッカーの勝ち負けが一体誰にとって重要なのかを詳細に考えることが極めて重要です。例えば前回のカタールW杯ではグループステージでチュニジアが宗主国のフランスに勝利しました。その試合の勝敗に大きな意味を込める人はチュニジアに住んでいるチュニジア人、フランスに住んでいるフランス人だけではありません。フランスに住んでいるチュニジア人、もしくは別の国に住んでいるチュニジア人のようなディアスポラにとって、チュニジアがフランスに勝つことはよりいっそう重要な意味を感じさせるものになります。例えばその勝利がパリで起こることまで想像すると、旧宗主国のど真ん中で勝つことによってさらに重要な意味を持つことになるかもしれません。それぞれの国に住んでいる人だけではなく、世界中に散っている旧植民地だった国の人たちがその試合の勝利にかける意味は、その国に定住している人たちがかける意味とは違う重みを持ちます。アメリカW杯の際にアメリカに住んでいるアイルランド人たちがアイルランド代表を熱心に応援したことや、南アフリカW杯でアフリカーナーのオランダ系ディアスポラが南アフリカ代表チームとどう向き合ったかなど、帰属意識の明確化を求められてしまう。それは本人たちにとっては難しい経験かもしれないけれど、W杯にはあらためてディアスポラたちの帰属意識をあらためて固定化したり、定着化させたりする波及効果があり、その意味でもこの大会は非常に重要な現場で、世界中に散っている特定のルーツを持っている人たちが、その国を意識しながら試合をする稀有な機会になっています」

「一体感」や「戦術」を引き剥がした客観化の先にある醍醐味

――ここまでW杯を起点にサッカーと政治についてお話をうかがってきました。ある面でよりあからさまに、またある面でより複雑になっているように感じられるサッカーと政治の関係の中で、いかにしてサッカーの楽しみを見出すことができるでしょうか。

 「もっと観察者であり鑑賞者としての楽しみというのがあるはずだし、あっていいし、そういう人だってたくさんいるように思います。ピッチ上のシステムや編成を語ることが観察をするということに入れ替わってしまっているかもしれないけれど、専門家のように振る舞う必要があるのではないし、サッカーを観察するということはそのような見方に限らないはずです。それは観ることであり、鑑ることであり、禅の言葉に観照という言葉がありますが、自分を客観化するということがサッカーファンの醍醐味になるはずなんです。こんなプレーは見たことないと思っている自分をまた見ている自分。絶対決めると思っていたシュートが外れて、がっかりしている自分を見ているもう1人の自分。そういう形で自分を相対化することがサッカーの醍醐味だったことがあるはずです。サッカーをめぐる語彙や見方はいつの間にか『一体感』とか『12人目のプレーヤー』とか、選手やプレーやクラブが目指すスタイルに自分の考えや感性やサッカーの見方を一致させることがサッカーファンであるということになってしまっているけれど、それをできるだけ引き剥がしていくことが必要だと思います」

――2024年10月号の『思想』に掲載された『ファンダムの唯物論序説』でも「了解可能性」の話をされていました。ファンが込める期待と選手の応答は常に一致するわけではなく非対称な関係で、そこに「了解」が成立することを前提にすると理解を誤ってしまうと。

 「自分が想定しているパターンの中で何かが再現されたとしても確認作業にしかならないですが、そのような語りが多いように感じます。でもそれは単に予測可能性の範囲を超えていない。その予測可能性の範疇にまったく入ってこないような意外なプレーや逆にシンプルなプレー、自分の頭の中にあった引き出しとは全然違うところからやってくる出来事だから驚くわけですよね。サッカーのピッチやスタジアムで起きていることをその世界だけで完結させるのであれば、戦術やシステムの話をして、マニアックな領域に進むようなやり方でもいい。でもそれは批評ではない。批評というのはそこにいなくたってそこで起きた出来事がどういうふうに社会とつながっているかということを文字で示すことで、そこから豊かさが生まれます。サッカーは何十億という人がやっていて、なおかつボール1個あったら誰だってできるもので、環境は開かれているし機会だってもっと開かれてしかるべきだし、誰がどこにどういうふうにアクセスしたっていいスポーツなはずです。冒頭から単線的な発展や順列の組み合わせという話をしてきましたが、自分たちは今こう見なきゃいけない、こう考えなきゃいけない、そういった無数の既定路線を提示されている状態にあります。それらをいかに引き剥がしてサッカーを見るかが、楽しみにつながっていくのではないでしょうか」

Photo: Getty Images

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Profile

邨田 直人

1994年生まれ。サンケイスポーツで2019年よりサッカー担当。取材領域は主にJリーグ(関西中心)、日本代表。人や組織がサッカーに求める「何か」について考えるため、移動、儀礼、記憶や人種的思考について学習・発信しています。ジャック・ウィルシャーはアイドル。好きなクラブチームはアーセナル、好きな選手はジャック・ウィルシャー。Twitter: @sanspo_wsftbl

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