「測定される黒い身体」――AI時代のサッカーは「黒人=身体能力」という神話を再生産するのか
北中米W杯を深く味わうための論点#4
6月11日に開幕する北中米W杯をより深く味わうために、本特集では「戦術」「監督」「報道」「環境」「政治」など多角的な視点から、世界最大の祭典を掘り下げていく。第4回のテーマは「報道」だ。
AI分析やトラッキングデータが浸透し、現代サッカーにおける選手たちは、かつてないほど細かく“測定”されるようになった。だが、その視線の奥には古い人種神話が潜んでいる。黒人選手はなぜ「身体能力」で語られ続けるのか。AI・データ化時代のサッカーとメディアの深層を読み解く。
「黒人の身体能力神話」はどのように作られたのか
現代サッカーは、凄まじい速度で変貌を遂げている。戦術的ピリオタイゼーションのような組織化理論の進化、ポジショナルプレー、ゲーゲンプレス、カウンタープレス、リレーショナルプレーといった新しい戦術形態の登場、さらにはトラッキングデータ、GPS、AI分析、xG(ゴール期待値)といった数値化された指標やデータの重要視といった風潮の中で選手に対して求められるのは空間を制御し、時間を操作し、絶えず選手間の関係性を生成し続ける能力である。“トップトップ”のレベルになればなるほど、サッカーは空間をどう使うか、瞬時の間合いをどう支配するか、数的優位をどこで作るか、相手をどう誘導するか、そしてチーム全体の動きや意図をどう同期させるかといった高度な認知と配置関係をめぐる即座の判断と理解をプレーに体現化するゲームになっている。
その一方でサッカーを取り巻く言説の深層には、驚くほど古い人種表象がゾンビのように生息している。それが「黒人選手の身体能力神話」である。私自身、長年こだわりを持ち続けてきたテーマでもある。2002年に開催された日韓W杯決勝戦の翌日に「サッカー解説『高い身体能力』って何」という批評を朝日新聞に寄せた。「黒人の身体能力」という表現が日本のサッカー実況や解説、巷のサッカー談義の中で頻出し始めた頃に、この言葉の土壌を批判的に問い直そうとした。先駆的な批評だったと記憶している。黒人選手やアフリカ系の選手たちのプレーは、「特有の身体能力」の賜物とされ、「バネがある」「スピードがある」「フィジカルが凄い」と大絶賛される。他方で、白人選手のプレーは「精神性」「知性」「組織性」として評価される。「ヨーロッパ、白人=理性・文明・精神」/「アフリカ、黒人=身体・自然・本能」といった植民地主義的な二分法の中でサッカー選手のプレーが意味づけられる様子を検証した批評だ。
ここで問題となるのは「黒人の身体」そのものではなく、社会やメディアが特定の身体を「黒い身体」として特定の意味を与える視線の側である。
このような構図は、賞賛の裏側で黒人選手のプレーを「野生的」「天性的」「フィジカル・モンスター」というように、自然や天性を想像させる肉体の中に閉じ込め、理性や知性を欠いた不完全な人間であることを暗に示すことになる。精神/身体、文明/野蛮という二元論図式は、19世紀から20世紀初頭の西洋による植民地主義支配を正当だとする思考法にぴったり重なる。文明化された理性主体としての西洋が、自然状態で遅れているアフリカを支配し啓蒙するという構図だ。大英帝国下で拡大した近代サッカー文化が、当時の植民地主義的・人種主義的な思考と無縁ではなかったことは否定できない。
かつてフランスの批評家であるロラン・バルトは、「神話とは歴史を自然に見せる」ことだと考えた。社会的・歴史的に、つまり人為的に形成された価値観が、あたかも「普遍」で「自然」だと感じてしまう状態をバルトは「現代の神話」だとした。黒人の身体能力神話は、現代サッカーの中に潜む植民地主義の残響とも言える。黒人の身体能力神話が問題であるのは、その能力が身体運動や身体そのものに還元され、「生得的」「本能的」「自然的」なものとして語られる点にある。だからといって、「黒人の身体能力が高くはない」ということを主張したいのではない。ブカヨ・サカのスプリント、ビニシウス・ジュニオールの加速スピード、キリアン・ムバッペの爆発力、オーレリアン・チュアメニの強いフィジカルは、虚構ではなく、確かにプレーが起きたその時点では事実である。
だが「神話」の作用は、目の前で起きた出来事を自然化された本質、つまり疑いようのない「自然のこと」へと変換する。これは日本のサッカー環境やメディア環境に限ったことではない。ヨーロッパでも、サカやビニシウスの身体運動や身体的特徴は、「黒人」「アフリカ系」「遺伝子」「本能」という言葉に接続される傾向がある。英語圏のサッカーと人種差別に関する論文などを読むと、やはり白人選手は戦術理解やテクニックや知性に優れ、黒人選手は衝撃的、爆発的、パワフルといった語彙で語れる傾向が強いと学術的にもまとめられている。
サカとビニシウスはなぜ“身体”へ還元されるのか
身体能力の称賛それ自体が問題の核心なのではない。知性や戦術性よりも先に、身体が語られることに目を向けなければならない。黒人選手の優れたプレーは、その多くが身体に還元され、生得的な才能や生物学的本質という意味へ連鎖される。この時、歴史的出来事は自然化されるのである。悪意だけではなく、日常の表象行為の反復が二元論を「自然」だと思わせていく。サカのプロフィールなどを眺めてみると、やはりpace(スピード)、dribbling ability(ドリブル能力)、strength(強さ)がストロングポイントとして紹介される。だが、世界中のサッカー好きたちがすでに知っているとおり、実際のところサカは空間認知や絶妙なリズム調整、狭いスペースでの適切な判断、味方との同期、適切なポジショニング、相手守備の重心操作やかく乱にきわめて優れている。ところが、このようなサカの「知的」なプレーは高く評価される一方で、「フィジカルやスピードだけでなく、戦術理解も高い」という身体型の表現に埋め込まれてしまう。サカに対する称賛パターンの前提には、それ以前に身体能力という本質が準備されているのだ。
身体能力神話は、激しい人種差別の資源に転化することもある。
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Profile
山本 敦久
1973年生まれ。成城大学社会イノベーション学部教授。最先端テクノロジーと融合するスポーツをポスト・スポーツの出現として捉えつつ、SNSなどの新しいメディアと連動するアスリートたちが反人種差別やLGBTQと結びつきながら既存の社会を変革していく時代のスポーツについて研究していく。主著として『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)、『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来--セクシュアリティ・技術・社会』(岩波書店)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待』(堀之内出版)など。
