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不完全燃焼に終わったC大阪での3年間、試合に出る喜びを取り戻した水戸での3年間、PCの使い方から始めた指導者キャリアの記憶。森直樹監督インタビュー(中編)

2025.08.08

【特集】水戸は一日にして成らず#8

J2第23節終了時点で水戸ホーリーホックが首位に立っている。特に5月以降は10勝1分と勢いが止まらない。小島耕社長と西村卓朗GMによる「ピッチ外の取り組み」は常に高く評価されてきたクラブだったが、「やりきる 走りきる 勝ちきる」をテーマに掲げた森直樹監督の下でついに地道な努力が花開いた。水戸は一日にして成らず――クラブ史上初のJ1昇格が見えてきた今、あらためて躍進の理由を考えてみたい。

第7~9回は、昨シーズンの途中からチームの指揮を執っている森直樹監督のロングインタビューをご紹介。これまでほとんど語られてこなかったそのキャリアに迫ることで、その人となりを紐解いていきたい。中編ではセレッソ大阪で過ごした3年間、ホーリーホックへ加入した際の経緯、そして、指導者の道へ足を踏み入れるまでを振り返ってもらった。

(取材日:7月19日)

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プロデビューは優勝争い真っ只中の首位攻防戦・横浜F・マリノス戦

――大学を卒業されて、2000年にセレッソ大阪に入団されるわけですね。この年のセレッソはJ1のファーストステージで優勝争いを繰り広げていましたが、実際に周囲のレベル感はいかがでしたか?

 「本当にレベルは高かったです。それこそボール回しするのも大変でしたよ。ノ・ジュンユンのパスなんて本当に強くて、『そんなのも止められないのかよ』って言われたり(笑)。その時はまだそういう世界ですよね。モリシさん(森島寛晃)だったり、アキ(西澤明訓)さんだったり、ユン・ジョンファンもいましたから」

――このレベルの選手たちとプロ1年目で一緒にやれたことが、その後のプロキャリアに与えた影響も大きいですよね。

 「試合にはなかなか出られなかったですけど、プロとしての土台はセレッソでできた部分が大きいかなと思っていますし、在籍した3年間で昇格も降格も優勝争いも経験した中で、一番の思い出はデビュー戦ですよね。ちょっとしか出ていないですけど」

――優勝争い直接対決の横浜F・マリノス戦ですね。

 「あんな大事なゲームで、初めてメンバーに入って。訳もわからず、いきなり試合に連れていかれた感じでしたから。試合の2日前ぐらいから、やたらコーチが優しくて、『あれ?扱い違うな?』って(笑)」

――僕、その試合を見に行ったんですけど、当日券が買えなくて、隣の古河の社宅の上の方から見ていました(笑)。森さんはセレッソが1点差でリードしている最終盤に投入されています。

 「とりあえず外池(大亮)さんに付いてろって言われました(笑)。もう緊張しましたね。5分ぐらいしか出ていないですけど、何も覚えていないです。試合も獲って、獲られての熱いゲームで。そこで勝ったのに、最終節はまさかのVゴール負けで。今だったらそのまま優勝じゃないですか。本当にVゴールって何だったんですかね」

――その超重要な試合でプロデビューできたことは、今から振り返るといかがですか?

 「もう幸せですよ。しかも、あんな勝っている状況でルーキーをデビューさせるなんて、副島さん(副島博志監督)も相当勇気が要りますよね。『スゲーな、この人』って」

――こうやって今は監督をされているからこそ、その凄さがわかるものですか?

 「そうですね。ただ、ポンって能力の高い、特徴のある選手を入れたいという気持ちはわかります。特に今は試合のメンバーが20人じゃないですか。1人はそういう選手を入れてもいいなと。それは20人だったらやりやすいけど、当時は16人ですから。よく僕を入れましたよね。

 センターバックは大ちゃん(斎藤大輔)と蔵田(茂樹)さんが出ていて、その代わりは僕じゃないですか。もし2人のどっちかが前半でケガしていたら、どうしていたんだろうと思いますよ。日ごろから飲みに行ったりしている先輩たちが、あの試合は本当に真剣に、マジで闘っていたんです。『ああ、凄いな』って。やっぱりスタンドから見るのと、ベンチから見るのでは全然違うんですよ。雰囲気とか、ピリピリ感とか。あのゲームは凄く勉強になりました」

エジムンドとアマラオの衝撃。今だから思うオフ・ザ・ピッチの甘さ

――ちなみに、このシーズンのサテライトの京都パープルサンガ戦で、吉田賢太郎さんと対戦しているんですね。

 「賢太郎?本当ですか?京都で?」

――4月2日にやっています。

 「そうなんだ(笑)。全然印象がないです。サテライトのゲームは覚えていないですね。もうプロの強度で言うと、今までのツケが来ている部分はありました。長くプロとしてやれなかったのは、コンディションの部分が大きかったなと、現役が終わった今ではそう思っています。

現在は水戸でコーチを務めている吉田さん(写真2枚目)

 そこは後悔していますね。もっと真剣にやっておけば良かったなと。高校と大学もそうですけど、プロになってからも、もっと生活面はやれることがありました。ちょっとプロというところに甘えてしまった部分があったと思います。ある意味で前線の選手はいいんですけど、ディフェンスの選手で当時も試合に出ていた選手は、ちゃんとやっていました。

 まだ当時のフォワードは、今みたいに前からプレスに行かなくても、点を獲ればOKでしたけど、やっぱり後ろの選手はそうじゃないんですよ。蔵田さんはそんな僕の姿勢に対して、ちゃんと怒ってくれました」

――2001年はファーストステージが3試合、セカンドステージは5試合に出場されています。チームはJ2に降格してしまいますが、このプロ2年目はどういうシーズンでしたか?

 「1年目で苦労して、2年目はちょっとチャンスを掴んだんですけど、自分の甘さが出て降格してしまったと思っているので、セレッソに申し訳なかったなと。結構自分が出ているゲームは重要なゲームが多くて、もちろん勝点を獲ったゲームもありますけど、自分のミスから失点して負けたゲームもあったので、申し訳ない想いが大きいです。

 特に一番大事なヴェルディ戦で、目測を誤ってエジムンドと入れ替わってしまって、そこで失点してしまったことも覚えていますね。あれももうちょっと冷静に対応しておけば、やられなかったんですよ。五分五分のボールに飛び込んでしまって、『誘われたな……』って」

東京Vと浦和でプレーしたエジムンド(左)

――まあ、ブラジル代表でワールドカップに出ているストライカーですからね。

 「初めてのスタメンの試合は、FC東京のアマラオにマンツーマンで付いたんです。Vゴールで負けたPKを与えたのは自分だったんですけどね。それ以外は完全に抑えていたのに、延長までは体力が持たなかったです。若さが出てしまいました」

――たとえばエジムンドやアマラオって相当なレベルのストライカーだと思うんですけど、そういう選手と実際に戦うことで、プロサッカー選手であることを実感するようなところはあったんですか?

 「ありましたね。アマラオも凄かったですよ。『そんな選手にオレがマーク付くの?』という感じもありましたし、責任を負わされるところもある中で、そこで結果を出さないとプロはダメですし、まあ、ちょっと甘かったですね。経歴を知ってもらえばおわかりだと思うんですけど、そこまでのキャリアが甘い感じで来てしまったので、プロ生活でもそういう感じが出てしまったところはありました」

現在は横浜FCでストライカーコーチを務めているアマラオ

――プレー面ではJ1でやれそうな手応えも掴んでいましたか?

 「半々ぐらいですかね。セレッソの3年間が凄くうまく行っていたかと言えば、今から考えてもそうとは言えないですよね。身体が凄く動いているとか、イケイケでやれている感じはなかったです。それはもう生活面ですよ。そこだけですね。ただ、そこさえちゃんとやっていれば、もっとできたと思っています。それこそプロになってもヘディングではそんなに負けなかったですし、スピードも自信がありました。ただ、そういうオフ・ザ・ピッチの甘さですよね」

――それを今から振り返って痛感されているからこそ、指導者になってから、そこを選手たちに説得力を持って話せるようになった側面もありますよね。

……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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