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広島、3バックの伝統。ミシャ式の可変[3-4-2-1]とスキッベの哲学における共通点と相違点

2025.05.20

Jリーグ3バックブーム探求#4

なぜ、Jリーグに再び3バックブームが到来しているのか?日本サッカーの戦術史も振り返りつつ、3バックの伝統があるサンフレッチェ広島から、今季より本格導入した町田ゼルビアに、大木武監督が独自性を貫くロアッソ熊本まで注目クラブを参考事例に流行の理由を探求する。

第4回は、ビム・ヤンセン監督時代から受け継がれてきた3バックの伝統を持つサンフレッチェ広島。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の可変式[3-4-2-1]やミヒャエル・スキッベ監督の現チームは新たなJリーグ3バックブームの火付け役になったとも言える。クラブの歴史を振り返るとともに、ミシャ式とスキッベ哲学の共通点と相違点について考察してみたい。

 筆者は正直、フォーメーションの議論はあまり好きではない。

 それはかつてサッカー記者としての駆け出し時代に、日本におけるGMの先駆けである今西和男総監督(当時)から言われた言葉が影響している。

 「中野くん、フォーメーションの数字にそれほど大きな意味はないんだよ。考えてごらん、スタートポジションの並びのままプレーする時間が、サッカーにおいてどれほどあるか。常に流動性をもって能力の違う選手たちが動くわけでね。[4-4-2]とか[4-3-3]とか、そんな数字(の羅列)よりも大切なことは、サッカーにおいてはあるんだよ」

 筆者の考えは、この今西元総監督の言葉(細かい表現は覚えていないが、おおむねこういう意味だ)が元になっている。そこを前提として、話を薦めたい。

広島に根付くヤンセンの「トータルフットボール」の系譜

 Jリーグ2年目の1994年、全てのチームが4バックを採用していた。広島も同様で、この年のファーストステージでは当時のJリーグでは珍しいダブルボランチ(風間八宏と森保一)を駆使したスチュワート・バクスター監督の[4-4-2]が織りなす機能性豊かなサッカーによって、ステージ優勝を果たしている。

 ただ、翌年に就任したビム・ヤンセン監督は[3-4-3]を広島に持ち込んだ。実はバクスター監督も1994年のセカンドステージでは3バックと4バックを併用していたが、本格導入という意味ではヤンセン監督が最初だった(もっともJリーグ開幕前には3バックで闘っていた時期もあったようだが)。

 実は広島の歴史を紐解いてみると、1シーズンを通して4バックで闘っていたのはバクスター監督と小野剛監督だけ。2001年のヴァレリー・ニポムニシ監督も当初は[4-3-3]を使っていたが、シーズン後半は3バックに路線を変更。2002年に監督を務めたガジ・ガジエフ監督と木村孝洋監督は4バック路線だったが、指揮を採った期間は短かった。

 他の監督は全て、3バックを採用している。城福浩監督は2018年の就任当初、4バックで結果を残したが翌年からの基本フォーメーションを3バックに変更。形は最後まで変わっていない。つまり、広島の歴史はほぼ、3バックの歴史とも言える。

 ただ、形は3バックであっても、そのコンセプトは全く違う。サッカー的な言葉で言えば、フォーメーションは似ていてもシステムが違うのだ。サッカーにおける「システム」とは本来、フォーメーションをベースにして、どんな戦い方やどんな動き方をするのかという「戦術の骨格」を現すもの。サッカーではない社会全般で考えても「システム」とは「個々の要素が相互に影響しながら全体としての仕組みを構築し機能するもの」​​を指すわけで、数字を示す言葉ではない。

 ​​例えばヤンセン監督の[3-4-3]は、ヨハン・クライフとともに「トータルフットボール」を体現した指揮官が、1974年W杯準優勝を成し遂げたオランダ代表を想起させるもの。彼は目指すサッカーを「ムービングフットボール」と表現し、流動的なポジションチェンジから相手ゴールを陥れる攻撃性を軸に闘おうとした。

 だが、ヤンセン監督が掲げたサッカーを現実化するためには、選手個々の戦術理解度の深化を必要とする。正確に言えば、個人戦術能力だ。

 前年までのバクスター・サッカーが細かいところまで動き方が規定されていたのに対し、ヤンセンの[3-4-3]は選手たちが局面でポジショニングやプレー選択を判断し、そこに連動していかないと機能しない。流動する中でつながりを示すには、個々の戦術能力が高まっていないと難しい。

 当時の日本サッカーのレベルで、「ムービングフットボール」の実現は困難だったのだ。

 「広島にはヤンセン戦術は早すぎた」とよく言われるが、広島を退任したヤンセン監督が後にセルティック(スコットランド)の監督に就任し、ライバルであるレンジャーズの10連覇を阻止して優勝を果たした事実が「早すぎた」ことを証明している。

 とはいえ、勝利や得点という果実を得ることはできていなかったにしても、ビム・ヤンセンの思想は明確に攻撃的だった。しかし、1997年から2000年まで指揮を執ったエディ・トムソンは明白に守備的。今のJリーグにおける「3バック」の多くは、ヤンセンスタイルではなくトムソン型。つまりは「5バックになることもいとわない」スタイルである。

 後に広島を指揮した小野剛監督は「攻撃的」と「守備的」の違いについて「自分たちで主体的にボールを奪いにいくかどうか」と定義した。その言葉でいえば、ハイプレスでボールを奪いにいくミヒャエル・スキッベ監督は「攻撃的」であり、疑似カウンターの日本における創始者であるミハイロ・ペトロヴィッチ監督は「守備的」となるが、そんなわけはない。小野監督は「奪った後の主体性」についても言及していたし、ペトロヴィッチ監督はボールを奪う位置こそ低かったが、相手のミスに期待していたわけではない。当然、2人とも「攻撃的」である。

 だがトムソン監督の守備に関する考え方は「ボールを奪う」という感覚よりも、「跳ね返す」という思考に近い。CB陣に上村健一、トニー・ポポヴィッチ、ハイドゥン・フォックス(あるいは伊藤哲也)という高さに強い選手たちを配して、相手の攻撃をまさに「跳ね返し」続けた。そういう守備を表現するには「ボールを奪う」よりもスペースを埋めることの方が重要視されたのである。

 そして跳ね返したボールを桑原裕義や吉田康弘といった中盤の選手たちが拾ってマイボールに変え、あとは久保竜彦の単騎突破。あるいは藤本主税と服部公太のコンビプレーで左サイドを突破し、最後はやはり久保にクロスを入れる。それが当時の攻撃パターンだった。

 特に左ウイングバックの服部はトムソン・システムの体現者。最終ラインまで戻ってスペースを埋め、最前線まで駆け上がってクロスを入れるスタイルを実現できる運動量とクオリティを併せ持ち、2001年には11アシストを記録した名ウイングバックだ。そして彼のスタイルが、その後の広島の「ワイドプレーヤー」における伝統となっていることも記録しておく。

現在は広島経済大学サッカー部で監督を務めている服部
……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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