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「楽しむ」とは何か?ルヴァンカップ・ニューヒーロー賞、広島の至宝・中島洋太朗の「他とは違う発想」の源泉を考える

2025.10.24

サンフレッチェ情熱記 第29回

1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第28回は、ルヴァンカップ・ニューヒーロー賞を受賞した広島の至宝・中島洋太朗の「他とは違う発想」の源泉を考えてみたい。

「打ったら入るかな」横浜FC戦の“衝撃”

 塩谷司は特に「アシスト」を狙っていたわけではない。ただ、チャンスだとは思っていた。10月8日、ルヴァンカップ準決勝第1戦という大舞台での出来事だ。

 「ヨウタロウと目が合った。いい動き出しをしてくれた」

 その瞬間、塩谷は自らの右足を振った。精密極まりないボールは狙い通り、横浜FCの最終ライン裏に走った中島洋太朗のもとにピタリ。

 胸トラップ。完璧に見えた。だが、彼の中では瞬間、「長過ぎた」と感じている。

 中島洋太朗の才能の1つは、その修正力だ。ボールが来てからトラップまで1秒もない。そのわずかな時間で起きた現象を正確に捉え、判断を修正し、そこからアイディアを発露する。そんな芸当が、本当にできるのか。できる。だが、それは誰もができるわけではない。

 おそらく、彼は足下に落としてシュートを狙っていたはずだ。だが「長過ぎた」がゆえにまずボールをキープして収めることを選択。だが背中には、CBの伊藤槙人が張りついていた。ゴール方向に向くことはできず、見ることもできない。

 「やり直すのか」

 見ている側がそう考えた瞬間、中島は違う判断を見せる。

 一瞬、サポートしに来た東俊希にバックパスする雰囲気を醸し出した。鈴木もそれを意識し、体重を左足、つまり東が来ている方向に移す。その瞬間、中島は体重を素早く移動させ、前に出る。対応が遅れたCBはそれでも必死に身体を寄せた。足を伸ばした。

 いい対応だ。誰もが思う。だが中島は、ベテラン伊藤の上をいった。

 GK市川暉記は、ニアのシュートコースを消しつつ、中にいるヴァレール・ジェルマンに合わせてくるクロスも想定していた。ただ、伊藤の頑張りを見て、おそらく「シュートはない」と判断したはずである。実際、中島はゴール方向を1度も見ていない。視線はずっとボールにあり、そして伊藤の密着も振り払いきれてはいなかった。

 このタイミングでシュートはない。見ている人たちはみな、そう思った。

 だが、才能を持つ人間の発想は違う。

 全くゴール方向を見ることなく、中島は左足を振る。ボールは伊藤が出した足に触らず、ポストを直撃してネットに吸い込まれた。

 市川、反応することすら、できない。シュートを打ってくるという予測ができなかったのは明らかだ。

 試合後、中島は冷静に言う。

 「GKの位置は正直、見えていなかった。でも、打ったら入るかなという思いで、シュートを打ちましたね」

 GKの位置だけではない。そもそもシュートコースを目視で把握していたのかも、怪しい。中島の頭の中に俯瞰した映像が浮かんでいて、彼はその映像を元にしてシュートを打ったとしか思えない。

 「自分のパスはともかくとして、あそこで決めるヨウタロウがすごい。狭いニアゾーンをしっかりと決める彼の能力の高さというのは、19歳ですけど頼りになります」

 塩谷は驚きを隠せない表情で、若者を讃えた。

 「前半から何度かチャンスを作れたと思いますが、やっぱりヨウタロウの個人能力から点がとれたことは、本当に良かった」

 前田直輝も後輩の活躍に目を見張った。

 広島の選手たちにとっても衝撃だった中島のゴールは彼の才能の発露。「エロいパスを出す」とサポーターが語っていたように、信じられないアイディアのスルーパスも魅力的だが、中島の魅力はそれだけではない。彼は得点も決めることができる。筆者にとっては、パッサーでありゴールゲッターでもあるところがたまらない。

Photo: Kayo Nakano

2023年トルコキャンプ、16歳の少年との出会い

 中島洋太朗に初めて会ったのは、2023年に行われたトルコキャンプの時だった。

 もちろん、噂で「凄い才能の持ち主が広島ユースにいる」と聞いてはいた。2014~16年まで広島ユースに在籍した山根永遠(現横浜FC)の父は山根巌(1995~98年まで広島に在籍。後に大分・川崎F・柏などで活躍)だったが、その山根以来の「広島の名選手を父(中島浩司/2009~13年まで広島でプレー)に持つ」サラブレッドであることも知っていた。

 この時の彼はまだ高校1年生。同級生の木吹翔太(現いわきへ期限付き移籍中)とともに期待値込みでのトップチームキャンプ参加であり、実はこの時点ではユースのレギュラーも獲得してはいなかった。

 父・浩司は現役時代から言葉が明瞭で、取材に対してもはっきりと言葉を紡ぐタイプだったが、彼の次男である洋太朗は違っていた。質問しても首を捻ったり、頷いたりするのが精一杯で、言葉を発しても一言、二言。メディアに対してだけでなく、チームの中でもほとんど声を出していないように見えた。

 「大丈夫かな。でも、仕方がないかな、高校1年生だし」と思った。

 プレー面でも当初は遠慮が目立った。パスを要求することはできず、チャレンジシップを発揮するプレーも少ない。ボール扱いの上手さは驚いたが、上手いだけの選手が潰れていった例は山ほどある。

 この年のトルコキャンプでミヒャエル・スキッベ監督は[4-4-2]、あるいは[4-1-2-3]の形を模索していた。「手応えはある」と語った言葉とは裏腹に、これらの形を彼は基本システムとして採用せず、2023年7月1日の新潟戦以降は完全に封印。ただ、この時点ではシステム変更を本気で模索していた。

 この4バックシステムの中で中島は右ウイングや右サイドハーフでプレー。ユースではほぼボランチでプレーしていただけに、16歳の彼には戸惑いの色が濃かった……ように見えた。

 だが、実際には全く、そうではなかった。このキャンプで初めて彼に話を聞いたのは1月14日のトレーニング後だったのだが、その時に中島はこう言っている。

 「今までで一番と言っていいくらい、本当にいい経験ができています。自分がまだまだ足りないってことがすごく感じられますね。慣れの問題もありますし、特にフィジカル面で、全然ついていけていないので、そこは課題です。トップチームのスピード感でもっと自分の得意とするポゼッション能力を発揮できるといいなと思う。ただ、みんなレベルが高いんで、サッカーが楽しい。ポジションはボランチもいいんですけど、もっと前でやってみたいという気持ちはあります」

CSKA戦77分。「えっ」思わず、声が出た

 実際、彼はかなり早いスピードで、プロのスピードに慣れた。その証拠が1月18日に行われたCSKAソフィアとのトレーニングマッチである。

 CSKAソフィアはブルガリア屈指の名門チームで、1948年創設と長い歴史を持つ。リーグ優勝31回の他、UEFAチャンピオンズリーグ出場経験も豊富で、かつてバルセロナ(スペイン)でヨハン・クライフが率いた伝説の「ドリームチーム」のエース格だったフリスト・ストイチコフも輩出した。

 中島は後半から右ウイングで出場。落ち着いたプレーぶりと精密なパスで次々とチャンスをつくる。いつしか筆者は、この時は背番号36をつけていた16歳を目で追うようになっていた。

 77分、野津田岳人からのパス。中島はワンタッチヒールで茶島雄介に出し、そのまま前に出て茶島からリターンをもらった。

 「えっ」

 思わず、声が出た。

 全く力みのないフォーム。さりげないこと、この上なし。しかしワンタッチパスは正確に、ここしかないスペースにスルッと出された。

 走り込んだのはナッシム・ベン・カリファ(現福岡)。GKと1対1となり、完璧に決めた。だが判定はオフサイド。広島のベンチは怒り、CSKAのベンチやサポーターが苦笑してしまうほどのあり得ない判定ではあったが、それでも中島のパスは色褪せなかった。

CSKAソフィア戦のハイライト動画。中島がベン・カリファの決定機を演出したシーンは6:09から

 「あれはたぶん、オフサイドじゃなかったと思います」

 翌日、練習場で中島はそう言って笑った。

 「野津田岳人選手からパスをもらった時、右足のヒールで茶島雄介選手に出したプレーがあったんだけど、あれはイメージしていた通り?」

 この質問に、サッカー少年はポツリ、ポツリと答えた。

……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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