スケボー、サーフィン、スノボにハマっていた高校生はどうやってJリーガーになったのか?水戸ホーリーホック・森直樹監督インタビュー(前編)
【特集】水戸は一日にして成らず#7
J2第23節終了時点で水戸ホーリーホックが首位に立っている。特に5月以降は10勝1分と勢いが止まらない。小島耕社長と西村卓朗GMによる「ピッチ外の取り組み」は常に高く評価されてきたクラブだったが、「やりきる 走りきる 勝ちきる」をテーマに掲げた森直樹監督の下でついに地道な努力が花開いた。水戸は一日にして成らず――クラブ史上初のJ1昇格が見えてきた今、あらためて躍進の理由を考えてみたい。
第7~9回は、昨シーズンの途中からチームの指揮を執っている森直樹監督のロングインタビューをご紹介。これまでほとんど語られてこなかったそのキャリアに迫ることで、その人となりを紐解いていきたい。前編ではサッカーを始めた中学生時代から、スケボー、サーフィン、スノボにハマっていた高校生が、北海道の大学を経てJリーガーになった経緯までを振り返ってもらった。
(取材日:7月19日)
憧れの選手は渡辺久信!野球をやっていた小学生時代
――森さんのプロフィールって謎に包まれているのですが、まずご出身はどちらですか?
「埼玉の入間市です。入間郡ではなく、入間市の方です」
――サッカーを始められたきっかけを教えてください。
「最初は小学生まで野球をやっていたんです。その中でも周りの友だちがサッカーもしていたので、興味を持ち出した中で、野球からサッカーに転向した一番の理由は坊主頭が嫌だからですね(笑)。野球も好きだったんですけど、当時の中学校の野球部は坊主で、思春期だったので、『それだけはなあ……』と。サッカーも好きだったので、中学校から本格的にサッカー部で始めました」
――ああ、小学校6年生まで野球をやられていたんですか?
「そうです。小学校6年生の終わりぐらいに、少しだけ中学校に入るまでに時間があったので、その時に小学校のサッカーチームに入ったんですけど、基本的には野球をやっていました」
――ちなみに野球のポジションはどこだったんですか?
「最終的にはピッチャーでしたね。他にもキャッチャーとか、いろいろなポジションをやっていました」
――当時の憧れの野球選手は誰ですか?
「渡辺久信選手です。結構西武も見に行っていました。小学生でも電車で行ける距離だったので」
――じゃあ、ライオンズ友の会も入っていますよね(笑)。
「入っていましたよ。年間2千円ぐらい払って、バッグももらえて(笑)。4年生のころは結構見に行っていました。守備で好きだったのは辻(発彦)選手ですね」
――もともとサッカー自体に興味はあったんですか?
「ありましたよ。それこそ休み時間は野球よりサッカーの方がみんなでできるので、サッカーをやっている方が多かったですね。野球は学校が休みの土日だけという感じでした」
憧れの選手はフランコ・バレージ!真剣にサッカーと向き合った中学生時代
――中学校は入間市内の公立中ですか?
「はい。向原中学校です」
――サッカー部の入部当初はある意味でまだ素人みたいな感じだったと思うのですが、チームのレベルやご自身の立ち位置はいかがでしたか?
「レベルはそんなに高くなかったと思うんですけど、あの時代は運動神経でカバーできるところもあったので(笑)、最初はフォワードとかウイングをやっていました。でも、『試合に出られるのはどこだ?』と考えた時に、余っているポジションがスイーパーだったんですよね。それでスイーパーをやり出してからは、1年生の夏ぐらいに試合に絡むようになりました」
――そのころから身長は大きかったんですか?
「小さかったです。中学校に入った時は154センチでした。3年生ぐらいからぐんと伸びて、170センチ台後半ぐらいになりました」
――それは意外ですね。サッカーにはすぐにのめり込んだイメージですか?
「のめり込みましたね。中1の時はサッカーを知っている顧問だったんですけど、中2からはサッカーを知らない方が顧問になったので、自分たちで練習内容も考えたりして、そこから面白くなっていきました」
――チームの強さはどれくらいだったんですか?
「3年生の時に県でベスト8まで行きました。自分たちの代はまとまりがあって、自分たちで練習していく中で、下の子たちにもいい選手がいて、市を勝って、地区も勝って、県大会で2回ぐらい勝って、最後はPK戦で負けちゃいましたけど、達成感はありましたね。僕らが負けた幸手西中は県で優勝したんですけど、その時の相手チームのフォワードがアルディージャに行った佐藤太一でした。向こうは僕のことは知らないと思いますけど(笑)」
――佐藤さんってフォワードですよね?マッチアップしたんじゃないですか?
「マッチアップしていましたね。必死に守っていた気がします(笑)」
――埼玉県大会のベスト8で、のちのJリーガー同士がマッチアップしていたわけですね。森さんは中学時代に県選抜に選ばれていました?
「全然入っていないです。試合には出ていましたけど、チームの中心ではなかったですし、キャプテンもやっていないです。市の選抜にも入っていないですよ」
――そうすると、このころはプロサッカー選手を目指すような未来は思い描いていたんですか?
「全然ですね。そこまで考えていなかったです。中学生のころは、勉強はもうしたくなかったので、『どうやって高校に行こうか?』と(笑)。中学生が一番真剣にサッカーをやっていましたし、そのころに憧れていたのが(フランコ・)バレージでした。『ACミランの守備はどうやっているんだ?』と。ゾーンプレスで、2人ぐらいでハメて、バッと取るようなことをやってみたり、『サッカーダイジェスト』を読んでみたり。スパイクもバレージを真似して、アシックスを履いていましたね。その前は(マルコ・)ファン・バステンが好きでした」
――僕もファン・バステン、メチャメチャ好きでした。
「ファン・バステンはディアドラですね。(ルート・)フリットはロットで、僕はバレージだったのでアシックスです。もう蹴り方も真似しましたよ。ちょっと軸足が遠くて、蹴り足を寝かせる蹴り方をしていたら、変な癖が付いちゃいました」
「夜な夜な誰かの家に集まって、公園でスケボー」の高校時代
――そこから武蔵越生高校に進学されています。この進路選択の理由を教えてください。
「距離的に言うと帝京も通えましたし、逆に武南はちょっと通いづらい中で、中学のサッカー部のスター的な同級生はそういう高校を受けていたんですけど、自分は『無理だな』と思って受けなかったんです。でも、武蔵越生はみんなも受けると言っていたので、『じゃあ受けてみよう』と。そこで推薦が取れたので、それはもう行きますよね。
中学校で県のベスト8になったあとで、地元に入間向陽という高校があって、そこのサッカー部の先生が熱心で、市内の中学生を集めて練習会をやってくれたんです。そこに呼ばれて行った時に、非公認のチームを作って、所沢ユースカップという大会に出て、高校1年生と試合したりしたんですよね。そこで『ああ、オレも高校でサッカーできそうだな』と。勉強もせずにサッカーばかりやっていました(笑)。
そこには今の武蔵越生の監督をやっているヤツも、狭山ヶ丘の監督をやっているヤツもいましたし、帝京に行った吉利(優司)というヤツもいて、西部地区の選手を集めていました。その流れから武蔵越生に行きましたね」
――サッカーが強いから進学したわけではなかったんですね。
「そうですね。県でベスト16とかベスト8ぐらいのチームでした。でも、部員数は多かったですよ。一番多い時で100人は超えていました。『そこそこ強いよ』という情報と、推薦が取れたので、そこに食い付いちゃいました(笑)」
――1年生のころは試合に出られていましたか?
「インターハイは出ていないですけど、Aチームにはいて、選手権の予選からメンバーに入れました。3年生はみんな上手かったですね。『凄いレベルだな』と思っていました。Aチームのレギュラークラスの3年生は別格の雰囲気がありましたよ。高校1年生のころはさすがに3年生の先輩も怖かったので、真面目にやっていたんですけど、2年生ぐらいから少しずつ変わってきましたね。友だちも決まってきて、スケボーをやったりしていましたし、家にはそんなにいない感じですよね(笑)」
――ああ、そういう感じですか(笑)。
「でも、2年生の新人戦ではベスト8ぐらいまで行って、PK戦で一周するぐらいまでやり合って、西武台に負けたのは覚えています。武蔵越生はいつも新人戦が一番強いチームでしたね(笑)。自分の代も新人戦はベスト8ぐらいまで行きましたし、関東大会予選も良い成績だったと思いますよ」
――まだ他のチームの完成度が高くない隙を突くということですね(笑)。2年生のインターハイ予選は2次トーナメントの初戦で大宮西高校に0-1で負けていて、選手権予選は浦和東高校にPK戦で負けています。浦和東の同級生には坂本將貴さんがいらっしゃいますよね。
「浦和東は天敵でしたね。いつも立ちはだかられた気がします。3年生の関東大会予選でも負けました。でも、その試合は自分が点を獲って気持ち良かったから、問題ないです(笑)。坂本隊長は有名でしたし、名前は知っていましたけど、他の選手を意識するような感じでもなかったので。それこそ大宮東の佐藤悠介も有名でしたよ。大宮東には勝ちましたけどね、新人戦で(笑)」
――さすがです(笑)。
「しかも自分のゴールで勝ったんです。本当に新人戦までのチームでしたね」
――高校2年生のころのサッカーに対する本気度というか、生活の中でのウエイトはどうだったんですか?
「40パーセントぐらいですかね。サッカーよりも遊びの方が楽しくなった時期でした。3年生の最後の方にスイッチが入りましたけど、そこまでは本当に入っていないです。川越でよく遊んでいましたし、夜な夜な誰かの家に集まって、公園でスケボーしたりという感じでした」
中澤佑二に競り負けて終わった高校ラストゲーム
――3年生のインターハイ予選も中央トーナメントの1回戦で浦和南高校に0-1で負けています。
「新人戦とか関東大会予選で調子に乗っているんですよね。『負けるわけないでしょ』というマインドで。そうしたら1点獲られて、そのまま負けてしまった感じでした。もちろん真面目にやっているヤツらもいるんですけど、上手いヤツほど遊んでしまうと。だから、一度乗ったら強いんですけどね。1個下の代はインターハイで全国に行きましたよ」
――先輩たちを反面教師にしたんですかね(笑)。
「そうかもしれないです(笑)。あとは結構自分の代の時から、下の学年の後輩も試合に出ていたので、先輩を見ていますから。能力の高い後輩は多かったです」
――3年生の選手権予選は初戦で三郷工業技術高校に0-1で負けています。たぶん相手に中澤佑二さんがいましたよね?
「そうなんです。試合前から嫌な予感はありました。
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!
