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ボランティアライターからJクラブのトップに。異色のキャリアを持つ水戸ホーリーホック新社長、就任の経緯

2020.08.25

水戸ホーリーホック社長・小島耕インタビュー(前編)

2020年7月、水戸ホーリーホックは小島耕氏の代表取締役社長就任を発表した。12年間続いた沼田邦郎前社長体制を終え、クラブはどのように変わっていくのだろうか。そのヒントとなる小島新社長のインタビューを前後編に分けてお届けする。前編では大学卒業後、22年間の社会人キャリアと水戸ホーリーホック社長就任の経緯について話を聞いた。

どんな仕事を行っていてもプロデューサー

――代表取締役社長就任おめでとうございます。まずは自己紹介も兼ねて、小島さんのこれまでのキャリアについてお聞かせください。1998年の明治大学卒業後、都内の印刷会社に入社。その後スクワッド社に転職し、2004年のサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊に中心メンバーとして関わられます。まずはこの経緯について教えてください。

 「きっかけは横浜FCさんのボランティアライターに応募したことです。大学卒業後はサラリーマンをやりながら、空いた時間でマッチデープログラムやイヤーブックなどクラブの公式媒体制作のお手伝いをさせてもらっていました。そうした活動を続けていくと『J’s GOAL』など他媒体からも声をかけてもらえるようになって。会社は副業に理解があったので、ライターとしての活動を増やしていく中で、エルゴラの創設者である山田(泰)さんと知り合って『エルゴラの立ち上げを手伝ってくれないか』と誘っていただいたのがきっかけです」

――なぜ山田さんは小島さんを誘われたのでしょうか?

 「出版社でのサラリーマン経験を重視していただきました。サッカーの知識があるライターやデザイナーはいるけど、一般的なビジネススキルを持った人材は少なかったようです。とはいえ、私も新しい媒体の立ち上げ経験なんてない。だから、Jリーグの写真を1枚買うにも手探り状態……人もお金もないからオフィスの机の組み立ても自分たちでやりました。今思い返してみても過酷でしたけど、良い思い出です(笑)」

――エル・ゴラッソの創刊は「ピンク色の紙の利用」「全クラブに番記者を派遣」「試合ごとの選手採点」など斬新な取り組みが話題になりました。

 「選手採点は話題にはなりましたが、クレームの電話もすごかった(笑)。当時はまだ日本サッカー界に批評の文化が根付いていなかったので。番記者が批判的なことを書いて怒らせてしまったクラブに謝罪で伺ったこともありますし、直接クラブの方が会社まで怒鳴りに来たこともありました。ただ、今このポジション(水戸ホーリーホック代表取締役社長)となっては他クラブの関係者とコミュニケーションを取る上で『昔は怒っていましたね』と良いネタになっていますよ(笑)」

――そんなスクワッドでのキャリアを経て、2010年にサッカーを中心とした映像系の企画制作会社である「Production9」を設立されます。紙から映像の世界へ。この決断にはどのような背景がありますか?

 「エルゴラを2004年に創刊して、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会とワールドカップを2回経験しました。特にデスクとして迎えた2006年のワールドカップは日本テレビさんやスカパー!さんの番組に出演させていただくなど貴重な経験もできて、一定の達成感を得ていたということもあります。そんなタイミングで、結果的に一緒にProduction9を設立する他の2人に声をかけてもらって。彼らは映像制作のディレクターなので、会社を設立する上では総務や営業や経理などの役回りを担当してくれる人間が必要だった。そこに私が納まったという形です」

――Production9では「Jリーグラボ」や「Jリーグマッチデーハイライト」などサッカー番組の制作を請け負う一方で、Fリーグ・バルドラール浦安のアライアンスパートナーとして広報・ファンクラブ・マーチャンダイジングなど、本来の事業内容外の業務も請け負われています。

 「子供が通っているサッカースクールのコーチがバルドラールの選手だったんです。コーチの応援をしに試合会場に行ったら家族全員で夢中になっちゃって。家族で同じクラブを応援する経験がなかったから、うれしかったんですよ。近場のアウェイも含めて結構な数の試合を応援に行くようになったら……職業病なんですかね、会場内にある大型スクリーンを見て『何か協力できないかな』という欲が出てきて。会社と相談の上、選手経由でバルドラールの社長さんにコンタクトを取って、お話させてもらったことを機にパートナーとしての関係がスタートしました」

――本業ではない業務に苦労はなかったですか?

 「もちろん苦労だらけです(笑)。私も経験もないので、最初は見よう見まねで、Jリーグの関係者に教えてもらいながらノウハウをストックしていきました。大変な仕事でしたけど、ファン・サポーターが喜んでくれる姿を見るとうれしくて頑張れました」

――小島さん在籍時代に何度かバルドラール浦安の試合を観戦させてもらいましたが、印象的だったのが小島さんと選手の距離感です。試合中は叱咤激励し、試合後は労りの声をかける。マネージャー的な役割を果たされているようにも見えたのですが、あの言動にはどのような意図があったのでしょうか?

 「水戸ホーリーホックの選手たちにもあてはまりますが、選手のコンテンツ力があまり世間に伝わっていないと感じていました。技術的な高さや一生懸命な姿勢といった価値を最大化させたい。ただ、ファンやサポーターが少ないと発信されるチャンスも少ない。ならば選手自身で発信するしかない。こうした想いがあるので、バルドラールでは選手との距離を縮めて価値最大化のためにどのような言動をすべきなのかは伝え続けました。選手自身に自分の価値に自覚的になってもらうために」

――SNSなど個人メディアの普及で選手自身による情報発信は当たり前の時代で、クラブの広報として情報発信する際に意識されていたことはありますか?

 「バルドラール時代で言うと、ファン・サポーターの人数が少ないので情報発信の反応が見え過ぎる時がありました。距離感が近いのでいろリアクションが直接返ってくる。そこに対して一定の壁を作る必要性は感じていました。クラブの内側が見え過ぎてもつまらない部分はあるので。すりガラスみたいに『少し見えている』くらいが丁度いいのではないかと。水戸でもそれは意識していて、Twitterなどで一定の情報発信はするけれども、隠さなければいけない部分はある。そこのコントロールは大事にしています」

――コンテンツをどのように世間に見せるのかという視点は、メディアでの業務経験が活きそうですね。

 「そうですね。そこは常に意識しているポイントです。どんな仕事を行っていてもプロデューサーというか、現場が好きなんですよね。Fリーグに関しては、バルドラール浦安が広報に力を入れてから他クラブも広報に専任を置くようになるなど、(フットサル界に)多少の影響は与えられたのではないかと思っています」

代表取締役就任記者会見時の小島耕氏(写真右)

東京から何をしに来たんだ

――ここからは水戸ホーリーホックについてお聞かせください。2019年の社外取締役就任から小島さんとクラブの関係が始まりますが、就任に至る経緯を教えてください。

 「バルドラールの仕事を4シーズン行って、クラブ運営を安心して任せる人材がそろってきた状態であったことが大きいです。そうしたタイミングで現在クラブのGMを務める西村卓朗と同席する機会があって、私が水戸出身ということもあって意気投合した。ここが(水戸ホーリーホックとの)最初の接点です。私のキャリアを聞いた西村から『クラブの経営を手伝ってもらえないか?』と誘ってくれたことを覚えています」

――ずっと人との縁がキャリアを変えるターニングポイントになっていますね。

 「そうですね。最初はリップサービスかなと思っていたのですが、(西村氏と初めて会った日から)数日のうちに電話がかかってきて『沼田(邦郎 前水戸ホーリーホック代表取締役社長)に会ってほほしいんです』と」

――そこでどんな会話をされたのですか?

 「実は、沼田とはスクワッド時代に1度会ったことがありましたりました。その時に若き日の沼田と幼い時に会っていたことが判明したんです。沼田の実家はバンビ鞄工房というカバン屋さんで、営業マンとして私の母方の実家の洋品店に出入りしていたみたいで。店名を伝えると『おい、よく知っているぞ』って(笑)。そうしたこともあったのでお会いするのは久しぶりではあったのですが、堅苦しい感じではなく、自然体でクラブの現状などを聞かせてもらいました」

――沼田前社長は小島さんに何を期待されたのでしょう?

 「広報やマーケティングの部分でのアドバイスですね。社外取締役なので週1回とか月数回程度でもいいので社員とコミュニケーションを取ってほしいと。あとは私の中学高校の友人が家業を継いで水戸で家業を継いでいたりするので彼らとクラブの橋渡しを期待されていました。すでに同級生の会社がスポンサーになってくれていたのですが、それをより強固なものにすることですね」

――地元出身とはいえ、外部からの社外取締役就任は内外から反発はありませんでしたか?

 「最初は社員からも『東京から何をしに来たんだ』という空気はありましたよ。『今までと違うことをやりそうだ』という恐怖や違和感は持っていたと思います。だから、同級生の会社を回ってスポンサーになってもらって実績や信用を少しずつ得ていった。最初は結構辛かったですね。水戸は保守的な土地柄だと思います。外から来た人が中に入っていくことは大変。意思決定者には年配の方が多いですし、最初は慎重に行動せざるを得ませんでした」

――ただ、そういう環境だからこそ社長には小島さんのような、積極的に人とコミュニケーションの取れるキャラクターの方が必要だったのかもしれません。沼田前社長もゴール裏で拡声器を持ってチャントを歌うようなフレンドリーさをお持ちでした。

 「そこは強く意識しています。他の社長と比べて特筆すべき経営的な実績を持っている訳ではないので、沈思黙考型のキャラクターでいても何の得もない。だからこそ明るく振る舞ってホーリーホックの印象を良いものにしたい。社員みんなにもお願いしているのですが、SNSの個人アカウントを持って積極的に情報発信もしてもらって、クラブを身近な存在であることをアピールしてもらっています」

――水戸ホーリーホックでもバルドラール浦安に在籍時と同様に、スタッフや選手と距離は近そうですね。

 「近いですね。選手にとってもフロントの顔が見えていることが大切なので。給料の元となるクラブの収入はスポンサー様やサポーターからいただいたものですが、そこを仲介している存在の顔は覚えていてほしい。だから、選手たちのロッカーと食堂の間にあるオフィススペースはドアを極力開けるようにしています。うちのクラブは広報が選手に何かを頼みにくい雰囲気がない。コミュニケーションが促進されやすい土壌があります」

――前任の沼田氏は12年という長期政権でした。それを引き継ぐプレッシャーはありませんか?

 「かなりあります。社長になってすでに体重が減りました(笑)。朝も早く目が覚めますし、ずっとクラブのことを考えて安らぐ時間が減りました。関係者から明確にプレッシャーをかけられる訳ではないですが『ホーリーホックは地域の誇り』『水戸のために』といった言葉を聞くと責任の重さを感じます。コロナ禍において私の言動がクラブの方向性を決める怖さも当然あります。ただ、それは隠してもしょうがないので、そうした部分も含めて楽しめればいいかなと思っています」

Ko KOJIMA
小島 耕

■経歴
1998年 明治大学商学部 卒業
1998年 株式会社図書出版 入社
2004年 株式会社SQUAD 入社
2010年 株式会社Production9 入社
2020年6月 株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック代表取締役副社長 就任

最近の社内外での口癖は「できっこないをやらなくちゃ」

Photos: Mito HollyHock

※後編はこちら

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ビジネス水戸ホーリーホック

Profile

玉利 剛一

1984年生まれ、大阪府出身。関西学院大学卒業後、スカパーJSAT株式会社入社。コンテンツプロモーションやJリーグオンデマンドアプリの開発・運用等を担当。その後、筑波大学大学院でスポーツ社会学領域の修士号を取得。2019年よりフットボリスタ編集部所属。ビジネス関連のテーマを中心に取材・執筆を行っている。サポーター目線をコンセプトとしたブログ「ロスタイムは7分です。」も運営。ツイッターID:@7additinaltime

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