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ロベルト・エンケ10周忌に寄せて 主治医が語ったスポーツ選手のメンタル

2019.11.10

「プロスポーツの世界は、いまだに心の病を理解できていない」

心の病に苛まれたロベルト・エンケがこの世を去ってから、今日でちょうど10年の歳月が流れた。今週末開催のブンデスリーガ各試合では、キックオフ前に彼へと黙とうを捧げ故人を偲ぶシーンがあった。しかしながら、彼の悲劇を経験した後も、少しでも高いパフォーマンスを目指し極限状態で戦うスポーツ選手のメンタルに対して十分な理解が進んでいるとは言いがたい。その現状について、かつてエンケの主治医を務めたバレンティン・メルクサー氏の言葉から紐解いてみたい。エンケの悲劇を繰り返さないためにも。

 11月10日は、ドイツ代表GKを努めていたロベルト・エンケの命日だ。当時32歳だったエンケは2009年のこの日、自宅近くの線路に飛び込み投身自殺を図ったのだった。

 ハノーファーで不動の守護神の地位を確立し、そしてドイツ代表でも2010年南アフリカW杯に向けて陽気に意気込みを語っていたエンケの死は、驚きをもってドイツ国内はもちろん、世界中に伝えられた。誰一人として、彼の死を理解できなかったのだ――主治医でさえも。

 「彼の病について知っていたみなが、ロベルトが快方に向かっていると思っていました。北ドイツのクリニックに入院する話し合いを終わらせたばかりで、その日取りも決めたところでした。私たち全員が、大きな一歩を踏み出したと思っていたのです」

 9月28日の『ハノーファー・アルゲマイネ』紙に、当時主治医を務めていたバレンティン・メルクサー氏のインタビューが掲載された。メルクサー氏は当時を振り返りながら、現在のスポーツ選手を取り巻く環境について話している。

スポーツ界を取り巻くシステムは、10年前と変わっていない

 メルクサー氏が精神科医および心理療法士として接するのは、スポーツ選手だけではない。むしろ、一般的な患者の中にスポーツ選手が混じっている。数多の患者を診療してきたメルクサー氏は、スポーツ選手と他の一般の人たちを比べて、気づいたことがあるという。

 「ロベルト・エンケの死によって、ハッキリしたことがあります。スポーツ選手全般が、精神的なストレスに対して最も耐久性が低いグループに属するということです。彼らの状況を本当に変えるためには、私たち診療医の方から積極的に働きかけなければいけません。時間はありません。

 私の下には、一般患者に混じって有名なスポーツ選手が来ることもあります。診療は、毎回50分の話し合いを兼ねた診断を行います。(一般患者とスポーツ選手との診療)内容に変わりはありません。私の目から見て、ロベルトは非常に才能豊かで、とても繊細な人物でした。彼が危機的な状況にあったことはすぐにわかりました」

 こう振り返るメルクサー氏は、精神的な治療が当時も今も、秘密にされなければならないことを残念に感じている。

 「今ではもう、サッカーのみならず競技スポーツの世界全般で、アスリートが精神的な障害を抱える可能性があることに異議を唱える人々はいません。私たちは、少なくとも、そこまでは成し遂げました。しかし、いまだにスポーツ界のシステムは、2009年当時のままです。スポーツ界全体が、まるで精神を病んだ人々へより良い治療を施すための変化を拒んでいるようにすら思えます」

 その理由はさまざまだとメルクサー氏は指摘する。1つ目は、クラブまたは所属先が「商品」のイメージが悪くなるのを恐れていること。2つ目は、常に競争に晒される選手や監督自身は「弱さ」を認め、それについて話すことに拒否感を感じていること。そして3つ目に、アイドルを求めるファンの存在だ。自己投影を望むファンたちにとって「敗者」は忌み嫌われる。それぞれ立場が異なるこの3者はしかし、精神疾患から目を背けようとすることで一致している――これが、現場で診療を行ってきたメルクサー氏の実感なのだ。

ロベルト・エンケの名は、通りの名称となりハノーファーの地に生き続けている

スポーツ心理学と精神医学は違う――正しい知識を理解する

 現代のサッカークラブでは、セミプロの世界でもメンタルトレーナーやスポーツ心理学者を取り入れるようになっている。しかし、彼らの管轄は心理療法士や精神科医とは異なる。傍から見れば違いがわかりにくいが、彼らは治療家ではない。

 「メンタルコーチやスポーツ心理学は治療ではなく、最善のパフォーマンスを引き出すことが仕事なのです。もちろん、場合によっては治療を施すことも求められますが、専門家と言うにはできる範囲が限られてしまいます。その結果、私たち医師の下に送られてくる選手たちは、治療が困難なほどに深刻な状態になっています」

 鍛え抜かれた体を駆使し、限界に挑戦するスターたち――この“虚像”が一般社会への大きな誤解を与えている

 「トップアスリートが集う競技の世界で、『健康』であることは目標ではありません。トップアスリートが持つ決定的な特徴は、『身体的にも精神的にも、己の限界を超えようとする挑戦』を絶え間なく繰り返すことなのです」

 身体的な負荷やケガの兆候は、GPSや乳酸値の計測などで可視化されてきたが、精神面での予防は未知数だ。無理を続け、知らぬ限界を超え、助けを必要とするほど自覚症状が表れた時には、すでに治療が困難なほどに症状が進行してしまっているのである。そうして、メルクサー氏は続ける。

 「『競技用の人格』と『人格全体』を分けて考えなければなりません。そうすれば、“メンタルの強さ”と“精神的な健康”の違いを理解できるでしょう。競技の中で最高のパフォーマンスを発揮することは、その選手の生活や人生全体の中の一部にしか過ぎないからです。つまり、スタジアムでひときわ輝いて見える選手も、日常生活ではまったく違った様相を見せているのです」

 しかし、一度うつ病や何らかの精神疾患を患ってしまった場合、スポーツ選手は引退を余儀なくされるのだろうか? メルクサー氏は水泳のマイケル・フェルプスやスキーのリンゼイ・ボン、そしてエンケを例に挙げ、精神疾患の治療を続けながら世界トップレベルのアスリートとして活躍した選手たちを紹介。そして、年々、そのリストに載る選手たちの数は増え続けているという。その上で、しっかりとした条件さえ整えば、現役の続行も可能だという。

 「事前に症状に気づき、きちんとした精神科医から適切な処方を受けることができれば、大半のスポーツ選手達は現役を続けることができるでしょう。しかし、選手や周辺の人々が、自身の精神疾患を頑なに否定するようなら、危険な事態になります」

 スポーツ選手の精神疾患に関しても、関節のケガや筋肉系のケガと同じように扱われるべきだと彼は提言。つまり、チームに身体面の治療を行うドクターがいるように、精神面の治療や診断を行うドクターとの共同作業の重要性を強調する。

 「DFL(ドイツサッカーリーグ機構)では、ライセンス交付の条件としてセキュリティやスタジアムアナウンサー、そしてフィジオセラピストの常駐を義務付けています。しかし、スポーツ精神科医は義務付けられていません。もし、本当に選手たちの精神疾患に取り組みたいのなら、スポーツ心理学者やメンタルトレーナーの他に、スポーツ精神科医をクラブのスタッフの一員としなければなりません。ライセンス交付の条件として加えれば、クラブは動かざるを得なくなります。そうすることで、もっと迅速にアクションを促すことができるはずなのです」

精神疾患への正しい認識を広めるために

 メルクサー氏は、2010年に設立された「ロベルト・エンケ基金」の運営委員の一人でもある。エンケの死後、妻のテレーザ・エンケ氏によって精神疾患の人々を支援するために設立された組織だ。とりわけ、うつ病を社会的に受け入れられるようにし、うつ病を患うスポーツ選手達の治療に力を入れ、アーヘン大学附属病院と提携して電話相談を引き受けている。

2016年、DFBで会見に臨んだテレーザ・エンケさん

 『ロバート・エンケ基金』はドイツサッカー連盟(DFB)、エンケが所属していたハノーファー、そしてブンデスリーガがそれぞれ5万ユーロ(約600万円)ずつ出資し、資本金として設立された。2010年南アフリカW杯で3位になった当時のドイツ代表チームは、20万ユーロ(2400万円)をこの基金に寄付している。本来代表の一員となるはずだったエンケが受け取るべき賞金額を、選手たちが捻出して寄付したのだった。

 メルクサー氏は、SNSの発展、サッカー界の経済的なバブルによる精神面へのネガティブな影響を懸念する。そして、うつ病のみならず、ますます精神疾患を患うアスリートたちは増え続けると危惧している。プレーヤーズファーストを唱えるためにも、今後はどのように精神科医や精神疾患について正しく理解し、予防に努められるシステムを構築していくことが、スポーツ界の課題になる。


Photos: Bongarts/Getty Images

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ロバート・エンケ文化

Profile

鈴木 達朗

宮城県出身、2006年よりドイツ在住。2008年、ベルリンでドイツ文学修士過程中に当時プレーしていたクラブから頼まれてサッカーコーチに。卒業後は縁あってスポーツ取材、記事執筆の世界へ進出。運と周囲の人々のおかげで現在まで活動を続ける。ベルリンを拠点に、ピッチ内外の現場で活動する人間として先行事例になりそうな情報を共有することを心がけている。footballista読者の発想のヒントになれば幸いです。