なぜ日本と韓国はアジアカップGSで苦戦した?「帰化」で読み解く出場国の強化策
優勝候補の最右翼としてアジアカップに出場しながらも、直接対決で競り負けたイラクに次ぐ2位でグループステージを突破した日本代表。同じく本命である韓国も格下に足下をすくわれて首位通過を逃しているが、彼らが軒並み苦戦した理由は何なのか?そのヒントである「帰化」による出場国の強化策を、アジアサッカー事情に精通するyosuke氏に解説してもらった。
4年に1度開催されるアジアフットボール界の祭典、アジアカップ。今大会は新型コロナウイルスの影響で中国からカタールへ開催地が変更。約1年前のW杯の興奮さながらに、熱戦が繰り広げられている。
我らが日本代表は欧州クラブに在籍する選手を多く招集している。国内のみならずアジア全域においても「優勝候補筆頭」との位置づけだった。お隣の韓国代表も例年にない人数の海外組を擁し、現地メディアでは「史上最強の代表チーム」と推す声も少なくなかった。
ところが、蓋を開けてみると両国ともにグループステージで苦戦。第2節で日本はイラクに敗れ、韓国は最終節でマレーシアに前節に続く引き分け、両国ともにまさかの2位通過となった。そんな彼らを苦しめたイラク、マレーシアのみならず、国内で戦乱が続く中で3位ながら初の決勝トーナメント進出を果たしたパレスチナ、初出場ながら強豪イランと試合終了間際まで渡り合った香港など、今大会はこれまでのアジアフットボール界で「中堅」「弱小」と考えられていた国々の奮闘が目立つ大会となっている。目の当たりにした読者のみなさんも驚かれた方は少なくないだろう。
では、なぜ彼らは急にアジアのトップシーンで戦えるようになったのか?いかにして格上相手に堂々と勝負を仕掛けられるようになったのか?それは決して番狂せではない、彼らなりの「強化策」が功を奏していたからなのだ。
転機は「契約帰化騒動」と「フランスW杯」
もともとアジアのフットボール新興国の強化策といえば「帰化」がお馴染みだ。これは英語で「naturalized」と呼び、文字通り「国籍を変更する」というもの。ラモス瑠偉や呂比須ワグナー(ともにブラジル→日本)が典型例で、その国の育成で輩出されるレベルを超えた選手が代表でプレーできるメリットがあったが、これは代表チームを強化するという戦略的側面よりも、愛着のある異国の地で貢献したいという選手の文化的側面が強かった。
その概念を壊してしまったのが2005年のカタールで起きた「契約帰化騒動」だ。当時欧州クラブでプレーしていたアイウトン、デデ、レアンドロのブラジル人3選手にカタールサッカー協会が帰化料と帰化後の給与を保証するというもので、これはまさに帰化制度の戦略的利用に他ならなかった。その濫用を危惧したFIFAは理事会を緊急開催し、選手の帰化要件を「その国と明確な繋がりを持つこと」と裁定。具体的には「帰化する選手は少なくとも2年間その国に住んでいたか、そこで生まれた親または祖父母がいなければならない」と明文化した。
当時のゼップ・ブラッター会長は「この流れを止めなければ、このままではW杯に出場する欧州やアジア、アフリカの選手がみんなブラジル人になってしまう」と相当な危機感を持ってこの問題に向き合い、その後居住要件が「帰化するサッカー協会の領土で18歳に達した後、少なくとも5年間継続的に居住していなければならない」と厳格化された。これが現在の一般的なフットボール選手の帰化パターンの1つである「naturalized帰化」の要件である。
その一方で、フットボール界にはもう1つの帰化パターンが存在する。それはFIFAが選手の帰化について定めた条文の後段部分「そこ(その国)で生まれた親または祖父母がいなければならない」という「heritage(起源)帰化」だ。
時代は遡って1998年のフランスW杯。グループステージ最終節で日本と対戦したジャマイカ代表FWディオン・バートンを覚えているだろうか。彼はイギリスで生まれ育ち、フランスW杯北中米カリブ海予選に合わせてルーツのあるジャマイカのパスポートを取得。エースとしてゴールを量産し、同国を史上初の本大会出場に導いた。そこには呂比須、ルイス・オリベイラ(ブラジル→ベルギー)ら「naturalized帰化選手」も参戦していたが、彼らとは違った国籍取得として話題を持って伝えられた。
初優勝を手にしたフランス代表もアルジェリア系のジネディーヌ・ジダン、セネガル出身のパトリック・ビエラ、ガーナ出身のマルセル・デサイーなど、旧宗主国を含めたアフリカに縁の深いスターたちがフランスで育成され、世界制覇に貢献。当時は「多国籍軍」として批判する声も多かったが、このW杯は結果的にフットボール界で国際化の波を引き起こすターニングポイントだったと言える。
以降は2000年にゆかりのあるアルジェリア代表に入り、現在は同国代表監督を務めるジャメル・ベルマディ、アルゼンチン出身ながら祖父がイタリア人であったことで2003年に“アッズーリ”に抜擢されたマウロ・カモラネージ、フランス年代別代表に選出されたキャリアを持ちながら、かつて父が主将を務めていたガボン代表を2009年に選択したFWピエール・エメリク・オーバメヤンなど、多くが自身の起源のある国を選択するようになった。国境を超えて人々が移動するグローバル化に伴い、フットボーラーもクラブキャリアだけでなく、代表キャリアとしても多様なパスウェイを描くことができる時代となった。
その流れはついに、長年「世界に遅れを取っている」と嘆かれてきたアジアフットボール界にも押し寄せてきている。近年では強豪国で育成されたアジアに起源のある選手たちが続々と東洋の国々の代表を選び、フットボール新興国が急激に力をつけつつある。彼ら「heritage帰化選手」はこれまでの国際大会でも存在していたが、今回のアジアカップは特にその数が増加。フランスW杯に似た形で国際化の波を引き起こす転換点となりつつある。
日本のGS対戦国を難敵にした「heritage帰化」
日本代表がグループステージで対戦した3カ国でもheritage帰化選手は数多く存在していた。第1戦で健闘したベトナム代表のGKフィリップ・グエンはベトナム人の父親とチェコ人の母親の元にスロバキアで生まれた192cmの大型GK。2020年のUEFAネーションズリーグでチェコ代表に招集された経歴を持つが、その後にルーツをたどってベトナムを選択。代表デビューを飾った日本戦では好セーブを連発した。
第2戦で番狂わせを演じたイラク代表にはU-19ドイツ代表としても名を揚げたMFユセフ・アミン、イギリスで生まれ育ちマンチェスター・ユナイテッドのアカデミーから輩出されたMFジダン・イクバル、U-21デンマーク代表歴を持つMFフランス・プトロスら、将来性を高く評価されていたタレントが名を連ねている。アミンは当初イラクサッカー協会からのスカウトに否定的な反応を示していたが、熱心な勧誘により鞍替えを決断。ドイツでも定評のあったフットボールセンスをもって日本を大いに苦しめた。他にも日本戦で先発したDFレビン・スラカ、長身FWアリ・アル・ハマディら、イラクで生まれたものの国内の政情不安から海外へ逃れ「里帰り」した選手も目立った。
第3戦のインドネシア代表は2000年代前半にグレッグ・ンウォコロ(←ナイジェリア)、FWクリスティアン・ゴンザレス(←ウルグアイ)らnaturalized帰化組の登用が目立っていたが、近年はヴァンフォーレ甲府やコンサドーレ札幌にも在籍したFWイルファン・バフティムら、旧宗主国オランダの出身者を中心にパスポートを与える試みが多く見られている。日本戦で先発したDFジャスティン・ウブネルも、昨年3月までU-20オランダ代表として注目されていた有望株だ。主将のDFジョルディ・アマトはスペイン年代別代表としてプレーしていたが、かつてインドネシア中部に存在したシアウ王国の末裔で、2022年に“ガルーダ”(インドネシア代表の愛称)入り。同年には正式にパンゲラン(王子)の称号も与えられている。CFとして先発したラファエル・ストライクもオランダで生まれ育ったheritage帰化選手だ。……
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yosuke
杜の都に住むロンドン世代のフットボール好き。小中高とゴリゴリにフットボールをプレーしていたが、その一方で幼少期からアジアンフットボールをこよなく愛し、選手の帰化や、Jリーグにやって来そうな外国籍選手探しにも関心がある。SNS経由で知り合ったアジアの友人達と共に試合を観て周るのが夢。