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ミハイロ・ムドリク。22歳のアタッカーが、ウクライナ人史上最高額の選手へと上り詰めるまで

2023.02.07

冬の移籍市場で目玉の1人となり、数多のクラブが獲得を狙ったと噂される中、最終的にはチェルシーへと加入したウクライナ代表のミハイロ・ムドリク。22歳のアタッカーは、いかにしてウクライナ史上最高額を更新するほどの期待を背負う選手にまで上り詰めたのか。選手として、人としての成長の歩み、知られざるエピソードを東欧の専門家である篠崎直也氏が綴る。

 現在紛争の舞台となっているウクライナ北東部、ハルキウ州の中にクラスノフラードという小都市がある。1731年頃に城郭都市として築かれ、やがて繊維業によって発展したこの街にはオーストリアやブランデンブルク、ザクセンなどからユダヤ系の織物職人が移住してきた。1897年には街の人口の17%がユダヤ人だったという統計が残っている。

 ムドリクという名字はウクライナ人の中では珍しく、書物を紐解くとユダヤ系由来である可能性が高いようだ。2001年1月5日、祖先が織物屋を営んでいたかもしれないクラスノフラードに暮らすムドリク一家に第二子となる長男が誕生。この男の子こそが、22年後にウクライナ人選手として史上最高額の移籍金でチェルシーに加入したミハイロ・ムドリクである。

大きかった、今はなき古巣の育成方針

 父ピョートルは音楽指導者、母インナは小学校教師で家族はスポーツに熱心な訳ではなかったが、2歳の頃からミハイロは父とボール遊びを始め、自分の才能を自覚し出すとサッカーのプロを夢見るようになる。6歳の時に地元のサッカースクールへ通いたいとお願いするも、母が息子に習わせたかったのは社交ダンス。サッカーをやるためには、朝にまずダンスのレッスンを受けることが条件だった。2年間続けたダンスにはハマらなかったものの、ドリブルをしながら広い視野を確保できる姿勢の良さや俊敏なステップワークはこの時に培われたスキルだったのかもしれない。

 「クラスノフラードにはプロの選手になるための前提条件が何もなかった」とムドリクは故郷を評しているが、彼よりも2年先にこの街ではアンドリー・ルニン(レアル・マドリー)が生まれていた。人口2万人ほどの田舎町から同時期に2人も世界トップレベルのクラブに在籍する選手が出たことは奇跡のようだ。両者はレアル・マドリーとシャフタール・ドネツィクが対戦した今季のCLグループステージ第3節と第4節で同じピッチに立ち、直接対決が実現している。

ムドリクと同郷のルニン。CLでは敵味方に分かれて戦ったが、ウクライナ代表では共闘している

 2010年、当時9歳のムドリクは真剣にプロへの道を歩むために、ハルキウ州の州都にあるメタリスト・ハルキウの下部組織に入団。「クラスノフラードとは天と地以上の差があった。小さい頃からプロの育成で育った子たちに比べて、自分は独学でやってきたような感じだった」と最初は完全な「お登りさん」だったが、その直前にメタリストのアカデミーがオランダ式の育成システムを導入していたことは彼にとって幸運だった。陸上、水泳、体操といったサッカー以外のトレーニングも取り入れられ、開脚ストレッチが苦手だったムドリクは夏休みの間ずっとストレッチに励み、身体の可動域が拡張したことでプレーの幅も広がった。この時の習慣は今も残っていて、現在は独自にテニスを練習メニューに加えている。

 ともに教師である両親は「いくら技術が高くても、考えることができなければ生かせない。考える能力は勉強によって培われる」として学業を重視した。ムドリクの成績は1年生から9年生(日本の小学1年~中学3年に当たる)まで「オール5」だったという。父ピョートルはメタリストのアカデミーの育成方針を絶賛している。

 「息子がメタリストに入った時、ちょうどオランダ式システムのライセンスを持ったコーチたちがやって来た。このシステムではまず勉学が一番大事で、その次に集団内の規律、そして3番目にようやくサッカーなんだ。成績や生活態度が細かくチェックされる。ピッチ上で素晴らしい結果を見せていたとしても、勉強の成績や生活態度が悪ければレギュラーではプレーできない。息子が選手として自立し始めたのは、間違いなくメタリストのアカデミーのおかげだ」

 しかし、メタリストは2012年末にヤロスラフスキー会長が突然クラブを売却したことをきっかけに凋落の一途をたどる。翌シーズンには八百長問題の処分によりCL出場権を剥奪され、深刻な経営難も明らかに。その後クラブは存続の危機を打開できず、2016年に消滅してしまう。アカデミーもその影響は免れず、ムドリクは13歳だった2014年にドニプロのジュニアユースチームへと移った。

 ドニプロのアカデミーはスペイン式の育成を取り入れていたものの、「サッカーが第一、勉強は二の次」という旧来のソ連的な空気が健在で、両親は不満を募らせた。それでもメタリストでプロになるための条件を身に染みて理解していたムドリクは、飛び級で上の世代のチームに昇格。その時のプレーがシャフタール・ドネツィクのスカウトの目に留まり、15歳でウクライナ王者の一員となった(ちなみに、その直前にFCポルトの練習に1か月参加したが契約には至らなかった)。

頭角を阻んだ「フリースタイラー」時代

 クラスノフラードで最初にムドリクを指導したミハイロ・メルクロフは、ムドリクの類稀な資質が幼少の頃から際立っていたことを振り返っている。……

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ウクライナ代表チェルシーミハイロ・ムドリク

Profile

篠崎 直也

1976年、新潟県生まれ。大阪大学大学院でロシア芸術論を専攻し、現在は大阪大学、同志社大学で教鞭を執る。4年過ごした第2の故郷サンクトペテルブルクでゼニトの優勝を目にし辺境のサッカーの虜に。以後ロシア、ウクライナを中心に執筆・翻訳を手がけている。

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