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複雑性をトレーニングする

2022.05.08

現代サッカーの急激な進歩を支えている要素の1つとして、「研究対象としてのサッカー」の隆盛が挙げられる。そうした中で生まれ、トレーニングの発展にも大きな影響を与えているのがサッカーを「複雑系」として捉えるという視座だ。複雑系とはいったいどういった概念で、いかにしてトレーニング理論に影響を与え、そして具体的にどのような形でトレーニングに変化をもたらしているのか。イタリアのWEBマガジン『ウルティモ・ウオモ』による解説記事(2021年9月2日公開)を特別掲載する。

※『フットボリスタ第89号』より掲載

 「今日のサッカーでは、戦術ばかりトレーニングして技術をないがしろにしている。基本に立ち戻るべきだ」

 今までに何度、こうしたもの言いを耳にしただろう?友人たちとの会話やあるいはTV番組のスタジオで、我が国においてタレントが育たなくなった理由として、あるいは単に外国チームの優勢を説明する道具として、最もよく使われる常套句の1つがこれだ。

 「フィジカルコンディションのせい」にはできないけれど、我われをただ混乱させるばかりの面倒くさい戦術の構造や理解不能な他分野の理論などといった「モダンな風潮」にも振り回されたくないという時に、最も純粋かつシンプルな理由として引き合いに出されるのが技術である。

 しかしながら、「技術」とは正確にはいったい何を指しているのだろうか?

 単純にこの言葉の語源(ギリシャ語で「行う術」)を考えるだけでも、「技術をないがしろにしてはならない」というもの言いが役に立たないことは明らかだ。それをあえて言い換えてみるならば「(物事を)うまくやることは重要だ」となるだろうか。当たり前過ぎてほとんど意味がない。「うまくやる」という表現の目的語になる「物事」とは具体的に何なのか?それを規定するものがあるとすれば、その行為の目的以外にはないのではないか?

 「技術をないがしろにしてはならない」というもの言いは、その技術、すなわちプレー(例えばインサイドキック)が1つの独立した振る舞いとして存在しており、サッカーというゲームがもたらす場の状況やプレー選択といった「文脈」とは無関係に、独立して取り扱うことが可能だという考え方に根ざすものだ。しかし、技術を1つの独立した振る舞いとして捉え、鍛えればどんな文脈の中に置いても同等の有効性を持つというこの考え方は、今や時代遅れになりつつある。

 そして、それはしばしば「技術」に対置して使われる「戦術」という言葉についても言えることだ。この言葉もある時はポジティブな含意を持って(「セリエAの試合はより戦術的だ」)、またある時は冒頭の議論のようにネガティブな含意を持って使われる。だが、もし「戦術」という言葉を定義するのであれば、むしろこう言う方が適切だろう。

 「戦術とは、個人と集団による選択の総体である」

 サッカーというゲームにおいて、技術と戦術は相互的な依存関係にある。1人のプレーヤーは、チームという文脈の中で下された1つの選択を遂行できなければならない。

 アーセン・ベンゲルはこう語っている。

 「サッカーにおける問題は、選手が間違ったやり方でプレーの仕方を学ぶことだ。まず実行する技術、次に意思決定、最後に認知……。1人のプレーヤーがボールを持つ時はいつだって、まず認知し、決断し、そして最後に遂行するものなのだが」

若手選手の育成力が高く評価されたベンゲルは、以前から伝統的なトレーニングに懐疑的な発言を残している1人だ

 オランダのトレーニングメソッド研究家レイモンド・フェルハイエンは、技術的な振る舞いについて次のような解釈を提示している。

 「器械体操における技術とはある特定の行為の遂行だが、サッカーにおける技術とはある決断の遂行である」

 器械体操においては、技術的な振る舞いこそが競技そのものの目的だ。選手は理想とされる振る舞いを、どれだけ完璧に遂行できるかに応じて評価され採点される。しかしサッカーにおいて技術とは、チームメイト、敵、そしてゲームを取り巻く環境との情報交換によって決定された1つの目的に到達するために選択された、ある特定の行為の遂行だ。

 加えて、サッカーというゲームにおいて今目の前にある状況は二度と再現されることがないという事実も勘定に入れる必要がある。スペースへのパスは味方へのパスと同じではないし、同じ相手への2つのパスがまったく同じ身体動作となることも決してない。ピッチの内側に入り込むためのドリブルとシュートを打つためのドリブルは違うし、敵FWの先手を取るためのジャンプとポストプレーをするためのジャンプも異なる。サッカーにおいて技術とは、本質的にカオスである状況の中に生み出された文脈に沿ってある選択を実行するため、ある目的を達成するための手段であり、それ以上ではない。

 しかしながら伝統的なサッカー観は、ある技術の遂行をトレーニングするためには文脈から切り離す形で取り出して行う必要があるという立場に立っている。より正確に言えば、1つの技術をゲームという文脈の中に落とし込む前に、まずその技術の遂行を決められたプロセスに従って段階的に(「簡単」なものから「難しい」ものへ)習得することによって「理想的な形」を獲得することが必要だという立場だ。もしある技術を高めようとするならば、それをゲームの文脈から切り離し、「純粋な」形で遂行できるようなトレーニングを準備する必要があるというわけだ。しかし、サッカーにおいて同じ状況が再現されることは決してないだけでなく、技術の遂行がゲームの目的ではなく手段であるとするならば、1つの技術的振る舞いを向上させようとする時に、あえてゲームの文脈から切り離して「理想的な形」を追求しようというアプローチには果たして意味があるのだろうか。

 常に引用されてきたヨハン・クライフの有名な言葉がある。

 「サッカーをプレーするのはシンプルだ。しかしシンプルなサッカーをプレーするほど難しいことはない」

 不思議なことに、「技術は戦術を制する」という立場を取る人々からも、またその反対の立場の人々からも同じように支持され引用されてきたこの言葉の裏には、これまであまり掘り下げられてこなかった1つの論点が隠されている。それは、サッカーというゲームの複雑性を受け入れる立場、技術の重要性と創発性を重視する立場は両立できるかという問いだ。この2つはしばしば対立するものとして取り扱われる。特に「サッカーはシンプルだ。なぜなら技術さえあれば何でも可能なのだから」と言うタイプの人々はそうだ。しかし実際には、状況を読み取り解釈する能力、すなわち技術を選択し遂行する能力を重視する立場は、サッカーを「複雑系」として捉える立場とは何ら矛盾しない。

複雑系を受け入れその中でプレーする

 あるシステムが「複雑系」と定義されるためには、それを構成する要素の間に生じる関係が非線形的な特性を持っていなければならず、そのシステムの「複雑度」は内部にある要素の種類、そしてそれらの間に生じる関係の量に規定される。したがって複雑系と定義されるシステムは、それを構成する一部分を切り取って他の要素との関係性を考慮することなく個別に分析しても、全体を理解することはまったく不可能だ。

 複雑系に関しては認識論的な考察がさまざまな形で深められており、その大家の1人である哲学者エドガー・モリンはこう主張している。

 「予見不可能性とパラドックスは複雑系の中に常に存在しており、それゆえにいくつかの事柄は不可知の領域に留まるだろう」

 それでは、サッカーとそれを構成する諸要素、すなわちプレーヤー、チーム、監督とテクニカルスタッフ、クラブスタッフ、トレーニング、試合、サポーターなどを、ダイナミックな複雑系であると定義することは可能だろうか?

 それを否定する要素は見当たらない。したがって、サッカーは1つの複雑系であると定義できる。何よりもまずサッカーを構成する生身の人間が1つの複雑系であり、またトレーニングから試合までの活動そのものも、諸要素が複雑に絡み合った1つのシステムであるからだ。サッカーというゲームが複雑なのは、複数の要素がダイナミックに結びつき、その関係を通して相互に影響を与え合いながら進んでいくゲームであり、しかもそれを取り巻く環境との間でも相互に関係し影響を与え合っているからだ。その要素と相互作用の多さゆえ、サッカーには「全体は部分の総和よりも大きい」という複雑系の基本的な特徴が当てはまる。これは、例えば機械時計のようにそれぞれのパーツは全体の単純な一部分として特定の機能を果たすだけでそれ以上ではない「複合系」とは、根本的なところで異なっている。

 そして、それに一度気付いてしまうと、今度はサッカーについて考える時にも大きな問題に直面せざるを得なくなる。もしサッカーが「複合系」ならば、それを理解するためにはパーツに分解すればいい。しかし、「複雑系」であるならばそれは不可能だ。なぜならそれを構成する要素は複雑に結びついて相互に作用しており、それを個別に取り出しても全体の働きを理解することには役立たないからだ。複雑系としてのサッカーを受け入れるということは、1人ひとりの個別性、独自性を受け入れるということでもある。

 それでは、複雑系と定義できるシステムの中で概念や原則を伝達し、学習を促し、パフォーマンスを向上させるためにはどうすればいいのか?

 人間が複雑系の中でどのように振る舞って解決法を見出すかについて知る上では、神経科学の研究成果、とりわけミラーニューロンについてのそれが助けになる。その名前から連想されるものとは裏腹に、ミラーニューロンは外部の動きを「反射」するのに役立つわけではなく、1つの身体動作をその目的と結びつける、すなわちその動機を体得させる機能を持っている。ミラーニューロンは目的を持った身体動作を認識した時に発動し、自身の身体動作をその目的と紐付ける。また、その発動の仕方には自分がその身体動作を行った時、それをイメージした時、そして他者がそれを行うのを見た時のいずれにおいてもほとんど違いがない。これは、我われの脳に他者の意図や感情を理解し共感する能力が備わっているためである。

 脳は周囲の空間を、自分の行為が及ぶ範囲にあるかどうかを基準に認知する。そしてその範囲というのは、行為がどれだけの時間で及ぶかに応じて段階的にレベル分けされる。例えば、食事のテーブルを準備している時に誤ってグラスに触れてしまったけれど、それが床に落ちて割れる直前に素早い反応でキャッチした、という場面があったとしよう。それが可能だったのは、理性によって危機を認識しそれを避けるために反応した結果だと我われは考えがちだ。しかしベンジャミン・リベットの研究によれば、何かが起こることを認知してからそれに反応して行動するまでにはおよそ350ミリセカンド(0.35秒)の遅れがあるという。ただ、身体は脳が危機を認識する以前にすでに反応している。

 「認知」と「認識」の間にはタイムラグがあり、身体はそのタイムラグの間にすでに動き出しているのだという。反応を起こすのは「認知」であり、「認識」はその後にやってくるのだ。この神経科学の研究成果は、身体動作は常にその目的と結びついており、しかもそれを「認識」するのは動作そのものよりも後になることすらあることを教えてくれる。

 サッカーの試合は、ほんの一瞬の間に下される無数の、そしてその1つひとつが試合の展開を方向づける選択の積み重ねによって成り立っている。もしその選択の大半(とりわけ、時間が最も圧縮されているボールの直近で行われるアクションに関する選択)がこの種の、すなわち無意識下での選択であるとしたら、そうした状況下で「考える能力を持ったプレーヤー」について語ること、ボールを前にして手札の中から最も有効なカードを意識的に選んで切ることができるプレーヤーについて語ることに、果たして意味はあるだろうか?

 もしサッカーの試合が複雑系であり、その展開を予測したり再現したりすることが不可能であるとしたら、そのシステムの内部にいるプレーヤーが最も効果的な選択を下す術を身につけるために必要なのは、何よりもまず「選択すること」をできる限り数多く繰り返し、経験値を高めることだろう。

プレーヤーを向上させる環境を準備する

……

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エコロジカル・アプローチディファレンシャル・ラーニングトーマス・トゥヘル

Profile

ウルティモ ウオモ

ダニエレ・マヌシアとティモシー・スモールの2人が共同で創設したイタリア発のまったく新しいWEBマガジン。長文の分析・考察が中心で、テクニカルで専門的な世界と文学的にスポーツを語る世界を一つに統合することを目指す。従来のジャーナリズムにはなかった専門性の高い記事で新たなファン層を開拓し、イタリア国内で高い評価を得ている。媒体名のウルティモ・ウオモは「最後の1人=オフサイドラインの基準となるDF」を意味する。