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ウクライナにあの平穏を…独立後初のW杯出場に沸く17年前、私が見たキエフ、触れた温かさ

2022.03.20

ロシアによるウクライナ侵攻が進む中、サッカー界にも様々な影響が伝えられている。3月下旬に予定されていたW杯欧州予選プレーオフのウクライナ代表戦も、6月に開催延期が発表された。今願うのは、ウクライナの人々に一刻も早く平穏な日々が戻ること。ついこの間までそこには、祖国のサッカー代表チームに国民が熱狂する当たり前の日常があった。ブロヒン監督が率い、シェフチェンコらを擁した代表が、1991年の独立後3度目の予選参戦で初のW杯出場を決めた2005年秋、首都キエフを取材した小川由紀子さんが、当時現地でじかに触れたサッカーのあるウクライナの風景を綴る。

 このところ、テレビのニュースで見ない日はない、キエフの独立広場。

 中央にそびえているのは自由の塔。かつてはその場所にレーニン像があったが、独立後に撤去され、今は女の子が手を広げた像が立っている。モデルとなったのは設計した建築家の娘さんだそうで、「彼女はかわいかったなぁ……」と、ナンパした夜を懐かしみながら通りすぎる人もいると聞いた。

 この広場の映像を見て思い出すのは、かの地を初めて訪れた2005年10月の夜のことだ。そこでは、ウクライナのW杯初出場を祝う祝賀会が盛大に行われていた。

代表祝賀会の夜

有言実行のブロヒンが選手に植え付けた自信

 スポットライトに照らされた特設ステージに、エースのアンドリー・シェフチェンコを筆頭に、ウクライナ代表選手たちが続々と登場すると、広場を埋め尽くした市民は英雄たちに大声援を送った。1991年12月にソビエト連邦が崩壊して以来、この2006年ドイツ大会が、ウクライナにとっては最初にして唯一のW杯出場だ。

 それを実現した当時のチームは、かつて“ウクライナの矢”の異名を取った俊足ストライカーで、1975年にバロンドールを受賞したオレグ・ブロヒンが監督、2004年に同賞受賞のシェフチェンコがキャプテンという、まさにウクライナサッカーの黄金期。レバークーゼンに所属していたFWアンドリー・ボロニン、ディナモ・キエフのGKオレクサンドル・ショフコフスキー、ウクライナ代表の頭脳と呼ばれたシャフタール・ドネツクのプレーメイカー、アナトリー・ティモシュクら、シェフチェンコ以外にもきらめくような才能がそろっていた。

 90年代のウクライナ代表は、独立以降毎シーズンのようにリーグ優勝していたディナモ・キエフのスタメンとほぼ変わらなかったが、この頃はシャフタールやドニプロが台頭し始めて、より多面性のあるチームになってきた時期でもあった。

 ブロヒン監督は、当時は国会議員も兼任していたカリスマの人だ。就任会見では「私は、ウクライナ代表を、W杯に連れて行くことを約束する!」と宣言し、見事実現した。

 彼は、成功の一番の秘策は「選手に自信を植え付けたこと」だと言った。「ウクライナはW杯に出場するだけの実力を持ったチームだと、選手たちに認識させたのだ」と。

2003〜07年に代表監督を務めたブロヒン(写真は2005年、当時52歳)。その後2011〜12年にも2度目の指揮を執った

 選手時代から有言実行の人だったブロヒンのそうした言葉には、説得力があった。そして彼は、自分の意志を伝えられるチームを作るために、ウクライナ代表に己を捧げる選手だけを選んだ。

 欧州予選の最初の頃は、ブロヒンの招集に対し「クラブを優先させたい」と断りを入れてくる選手も多かったが、W杯出場が実現しそうになるにつれ、「私にも代表チームの力にならせてください!」とコロッと態度を変えてきたという。

 しかしブロヒンは、自分の要請を無下にした選手には二度とチャンスを与えず、逆に「コイツは!」と見込んだ選手はとことん使い続けた。当時ディナモ・キエフに所属していたMFルスラン・ロタンなどはその一人だ。彼はデビュー当初は実力を発揮できず、才能を疑問視されることもあったが、監督の信頼に応えて奮闘した結果、シェフチェンコの得点力を生かせる名パサーとして活躍。自国とポーランドが共催した2012年のEUROや2016年の同大会にも出場し、代表100キャップを記録するウクライナを代表する選手となった。

 この2005年の取材でお世話になったスポーツラジオ局の解説者、ディマの話では、シェフチェンコも少年時代は決して目立った存在ではなく、「君はスターにはなれんな」と言っていた指導者もいたそうだ。

 ディマもかつてサッカー少年で、ディナモ・キエフの少年チームにいたシェフチェンコとは何度か対戦したことがあったそうだが、「むしろ名前がとどろいていたのは別の子だった。そいつが今どこに行ってしまったかはわからない」と話していたから、いつどのように才能が花開くかはわからないものだ。

街なかのおみやげ屋さんはシェバ一色だった

ウクライナこそがロシアの兄、という思い

……

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ウクライナ侵攻

Profile

小川 由紀子

ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。

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