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サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?『競争闘争理論』の必要性

2022.02.10

【特別公開】『競争闘争理論』はじめに

3月15日に発売予定の『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?』は、25歳でアルゼンチンに渡り、帰国後に鎌倉インターナショナルFCの監督に就任した河内一馬の初の著書だ。本書はスポーツを「個人」と「団体」という従来のカテゴリーに加えて、「競争」と「闘争」という新たな軸で分類し、サッカーという競技が有している「前提」を問い直すという意欲作だ。その議論の出発点となる「はじめに」を特別公開。

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 なぜ、私たちは「闘わなければならない」のか。

 そもそも、サッカーというスポーツ、またはゲームにおいて、私たちは「闘う」必要があるのだろうか。仮に「闘わなければならない」というのであれば、一体サッカーにおいて「闘う」とはどういう行為・思考態度のことをいうのか。どのように説明をすれば「今、あなたたちは闘っていない」と明確な根拠を持って他者に伝えることができるのか。私はそれを、長い間説明することができなかった。サッカーというスポーツを深く思考するようになってから、考えることはそればかりである。

「精神論」をめぐるジレンマ

 「精神論」という言葉がある。本書の内容は、いわゆる「精神論」とは異なる概念であるが、一方で、科学的な根拠をもとにサッカーを語ることを目的としたものではなく、純粋な「技術論」「戦術論」とも異なっている。

 よって本書の内容に入る前に、この「精神論」という言葉に対する私の考えを述べておかなければならない。日本には、「精神論」という言葉に敏感に反応する人々がいる。それは選手かもしれないし、指導者かもしれないし、はたまたファンかもしれないが、あまりポジティブに使われることはないように思う。かくいう私は、もしも「精神論」と呼ばれるものが、「あらゆる角度から検証されたのち、(明確な目的に対して)効果の見込めないものとされている」のにもかかわらず、それを直視せず、古びた見解や狭い視野によって行われる行為、あるいはその態度のことを指すのであれば、強い嫌悪感を覚える。

 例えば、サッカーというスポーツにおいて「体力を鍛えるため」という“曖昧な目的”のために何十分間も同じペースで走り込みを行うことは、私にとって到底理解に苦しむ行為である。加えて「お前は“気持ちが弱いから”走れないのだ」などと言われようものなら、使い物にならない精神論とはこのことである。サッカーにおいて「自信を持ちたいから、もっと練習時間を長くする」などの発想も同様である。

 一方で、試合において良い結果をもたらすことができなかった時に、例えば「気持ちが足りない」「魂を感じない」「闘えていない」などとする一見曖昧な見解に対して、「精神論かよ……」と嘆き、まったく聞く耳を持たない者がいる。私は、仮にこれらの見解を「精神論」と呼ぶのであれば、サッカーにおいて「精神論」は大いに必要である、と考えている。

 私は(またはサッカーに関わる多くの人々は)このスポーツにおいて、それらの「数字や作戦ボードでは説明できない」類の要素が、勝敗に(あるいは成長に)大きく関わっていると確かに信じている。しかし、ここで問題になるのは、先の通り、サッカーにおいて「闘う」とはいったい何なのか? 「(適切な)精神」とはどのような状態なのか? ということが、一向に説明できない点である。

 そのため(日本の)サッカーにおいては、この「数字や作戦ボードでは説明できない」要素を口にすることが、とりわけ指導者にとって、ある種タブーのような扱いを受けることがある。もちろん、自らの知識不足を隠すことや、ヒエラルキーの構築を目的に、それらの言葉を「思考を止めるツールとして」利用する指導者がいることも、また「精神論」に対する拒否反応を助長する原因となっているが、私たちは本当に、「数字や作戦ボードで説明できること」や、最新のテクノロジー、あるいは最新のトレーニング理論だけを追い求めていれば、それで良いのだろうか。

なぜサッカーは「闘う」べきなのか?

 現代サッカーにおいては、科学的根拠に基づく理論体系をもとに、テクノロジーを用いて「できる限り曖昧な要素を減らす」ことが、正しい進化の流れとして捉えられているように思うが、本書は、「闘う」や「精神」などのある種、曖昧な表現を排除しようとすることが目的ではなく、むしろ、それらを「全員が納得して使えるようにする」ことを目的としている。

 本書の第一章では、筆者である私の経歴に触れることで、各年齢や段階で訪れた「理論構築の種」となった出来事やきっかけを記した。学生時代の「東洋医学」と「西洋医学」との出会いは、私が本書で提唱する理論を構築するに当たって、なくてはならない出来事であった。

 第二章では、本書の目的を整理し、「分類する(カテゴライズ)」ことの重要性を説いている。その上で『競争闘争理論(Competition and Struggle Theory)』について説明するとともにスポーツをカテゴライズし、そのなかの“あるカテゴリー”に焦点を当てていく。

 第三章では、サッカー(スポーツ)をする人間の「思考」をテーマに、思考のプロセスを「思考回路」と「思考態度」の二つに分けて定義することによって、日本のサッカーが本来どちらのプロセスにアプローチするべきなのかについて考察を行った。

 第四章では、「競争」と「闘争」の根本的な違いである「保証されている権利」を明確にし、それによってあらゆる前提が異なることを示している。

 第五章では、サッカーにおける「精神」を紐解くことに挑み、サッカーをプレーするうえで「適切な精神的状態」とはどのような状態か、あるいはサッカーにおける「集中」とは何を指すのか、それらを明確に定義することによって、そこから波及している日本サッカーの様々な問題について言及した。

 第六章では、スポーツにおける「チームワーク」を改めて分析し、私たち日本人が自然と築く「チームワーク」が、サッカーというゲームにどのように影響を与えているのかを考察している。

 第七章は、本書で最も多くの文字数を割き 、サッカーにおける「非言語のコミュニケーション」に焦点を当てた。その結果明らかになる「意思」の重要性と、その「意思」を体系化した「インテンション・サイクル(意思・意図の循環)」を通して、「ポジショナルプレー」や「ゲームモデル」、「エコロジカル・アプローチ」などのフレーズに触れ、現代サッカーの流れを紐解いた。この章に関しては、サッカーというゲームに特化した専門的な内容となっているため、その他のスポーツに従事している方々は読み飛ばして頂いても構わない。

 第八章では、スポーツにおける「感情」について検討している。なぜ「感情」は理性と相反した「敵」として捉えられてしまうのか、感情は本当に抑えなければならないものなのか。サッカーにおいては「感情」をどのように捉えるべきなのか。そうした問いに対する私の考えを提示する。

 最終章となる第九章では、スポーツにおける「見た目」を考察し、導き出した結論から「サッカーはカッコよくなければならない」と主張した。第九章を読めば“見た目は見た目だけの問題ではない”ことが、分かって頂けることだろう。

 本書で提唱する理論は、サッカーにおける「戦術的・技術的・身体的・精神的・社会的」などのあらゆる要素について考える全ての状況で「出発点」となる概念であり、サッカーの「前提」である。つまるところ、サッカーやスポーツを今一度「問い直す」作業を伴い、日本サッカーのみならず、日本スポーツ界全体への提言となるだろう。

 本書は「日本人はサッカーを誤って解釈している(前提を間違えている)」という仮説に対して、「なぜなら」に当たる根拠を、「競う」ゲームと「闘う」ゲームとの比較に基づく「一つの理論」を軸に、 あらゆる角度から思考しようとする試みである。この「前提を問い直す」作業こそが、日本サッカーに残された最大の課題であると、私は強く信じている。

 あなたは、競うべきか、それとも、闘うべきか。


Photos: Kazuki Okamoto / ONE LIFE

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『競争闘争理論』

Profile

河内 一馬

1992年生まれ、東京都出身。18歳で選手としてのキャリアを終えたのち指導者の道へ。国内でのコーチ経験を経て、23歳の時にアジアとヨーロッパ約15カ国を回りサッカーを視察。その後25歳でアルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学、CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位)ライセンスを取得。帰国後は鎌倉インターナショナルFCの監督に就任し、同クラブではブランディング責任者も務めている。その他、執筆やNPO法人 love.fútbol Japanで理事を務めるなど、サッカーを軸に多岐にわたる活動を行っている。著書に『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』。鍼灸師国家資格保持。

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