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謎に包まれた浦和の新外国人、「DMK」ことダヴィド・モーベルグとは何者か?

2022.01.28

1月12日、浦和レッズの2022シーズン新体制で10番を背負うことが発表されたダヴィド・モーベルグ。スウェーデン代表歴を持ち、イングランドの古豪サンダーランドやチェコの名門スパルタ・プラハに在籍していたキャリア以外はほぼ謎に包まれている新戦力の選手像を、浦和の番記者であるジェイ氏に解き明かしてもらった。

 3年計画の最終年、「結実の年」(西野努テクニカルダイレクター)へ向けて総勢13名の新加入選手を迎え入れた浦和。その中でも注目されるのが、現在のところ唯一の新外国籍選手であり、最もベールに包まれている存在でもあるダヴィド・モーベルグ・カールソン(登録名ダヴィド モーベルグ)だ。

 コロナ禍の情勢において入国日は未定のままだが、このスウェーデン人ウインガーは日本への新たな旅を心待ちにしている。果たして、彼はいったいどんな選手で、この極東の島国へ辿り着くまでにどのようなフットボールライフを歩んできたのだろうか。ここではそれを簡単に紹介していきたい。

混迷期のサンダーランドで挫折を味わう

 母国スウェーデンで各年代別の代表に選ばれてきた輝かしい経歴の持ち主は、2021年末に黄金の国へと旅立つことが決まった。しかしそれまでの歩みは決して黄金旅程ではなく、むしろ苦難の連続だった。

 1994年生まれのダヴィドは2011年、17歳で母国トップリーグデビューを果たす。そして国内の強豪クラブ、IFKイエテボリで3シーズンを過ごしたのち、19歳にして早くも最初の岐路が訪れた。当時プレミアリーグに所属していたサンダーランドへの移籍が決定したのだ。

 2013年6月、ダヴィドは移籍金150万ポンド(約2億円)の4年契約でイングランドへと渡ることになったが、この時のブラックキャッツ(サンダーランドの愛称)は多くの「未知の若手」を獲得しており、彼もそのうちの一人だった。フットボールダイレクターのロベルト・デ・ファンティ、チーフスカウトのバレンティノ・アンジェローニ、そして監督のパオロ・ディ・カーニオというイタリア人体制の下で多数の選手が入れ替わったが、この体制が一枚岩ではなかったのが最初の不幸となった。

 フロントは財政改善のため、シモン・ミニョレやステファン・セセニョンら主力を売却。将来性のある、と思われる若手中心の編成を試みたが、ディ・カーニオ監督の要望は「英国で実績のある選手」だった。結局、ディ・カーニオは成績不振も相まって9月に解任され、デ・ファンティも1月に更迭。北欧に詳しいとされていたアンジェローニも3月にクラブを去った。ダヴィドが20歳の誕生日を迎える頃、その獲得に関わった人間は、1年も経たないうちに誰も居なくなってしまった。

 ダヴィド自身も、当然のようにいい時間を過ごせてはいなかった。トップチームで出場したのはキャピタルワンカップ(現カラバオカップ)の1試合のみで、リーグ戦ではまったく出番がなく、セカンドチームでの活動が中心だった。そしてセカンドチームのケビン・ボール監督とも「culture clash」を繰り返しており、良好な関係ではなかった。

2013年9月のリバプールU-21対サンダーランドU-21で、マーティン・ケリー(現クリスタルパレス)にシャツを掴まれながらもボールを争う若かりし日のモーベルグ

 翌年1月には、サンダーランドを離れたい一心でキルマーノック(スコットランド)へ半年間のローン移籍を果たすが、そこでも出番をあまり得られなかった。結局、2014年8月にノアシェラン(デンマーク)への移籍が決定し、失意のままスカンジナビアへと戻ることになる。

 サンダーランドは戦力補強にも投資回収にも失敗し、ダヴィドもまったくフットボールをすることができずに、この件は誰にとっても不幸な移籍となった。当時クラブには同胞の英雄であるセバスチャン・ラーションが所属していたが、それもプラスに働かなかった。モーベルグは後年、地元紙『オフサイド』のインタビューで「自分のことを王様だと思っていた。態度が悪かった」「ラーションの助言に耳を傾けていればすべてがうまくいったはずだ。なぜ、そうしなかったのか」などと過去の自分の振る舞いを悔いる発言をしている。

 ただ同時に、サンダーランドの当時の体制を批判するようなコメントや、同時期にセカンドチームに関わっていたジョーダン・ピックフォードを揶揄するような発言もしてしまったため、サンダーランドのファンにはそちらの印象の方が強くなってしまった。

ロシツキーからかん口令を敷かれるも奮起

 その後、デンマークの2シーズンで自分を取り戻し、プレータイムを確保したダヴィド。そのままノアシェランでプレーを続けることも悪くない選択だったが、スウェーデンU-21代表監督時代に彼を気にかけてくれていたイェンス・グスタフソン監督の誘いを受けて母国への帰還を果たすことになる。

 監督との信頼関係がある環境で、2016年から所属したノルシェーピンでは「信じられないほどいいチームだ」と幸福な時間を過ごせていたようだ。1シーズンと半分で45試合8得点と数字を残しており、2017年の1月にはA代表デビューを果たし、出場2試合目で得点も記録した。

 そしてもう一度、スカンジナビアを離れる挑戦の時がやってきた。2018年12月、ダヴィドは冬の移籍ウィンドウでチェコの雄、スパルタ・プラハへと移籍。3年半の契約で移籍金は3200万クローネ(約6億円)と報じられた。このころから、メディアでは頭文字をとって「DMK」の愛称が用いられるようになっている。

 プラハで合計4シーズンを過ごし、世界で最も美しい都市と言われる地で一定の成功を収めたDMKだったが、ここでも順風ではなかった。最初の半年間は主力として活躍したが、二度の監督交代を経て雲行きが怪しくなってくる。プラハで3人目の監督となったバツラフ・イーレクから信頼を得られず、2019-20シーズンは出場機会が半減した。

 「相手チームの左SB役をやりに来たわけではない」などとプレータイムの少なさに不満を漏らし、2019年12月には移籍が決定的とも報道された。トマシュ・ロシツキーSDからはコメント禁止を命じられるなど亀裂は修復不可能かと思われたが、ここで彼は人間的成長(?)を見せる。

2016年夏にアーセナルから地元のプラハへ帰還すると、翌年冬に引退したロシツキ。勝手を知るクラブで約1年後、スポーツディレクターとして第二のキャリアを歩み始めている

 セカンドチームで3部リーグに出場することに不満を漏らしてはいたものの、サンダーランド時代とは違い、そこで真摯に取り組むことができた。少なくとも本人はそう語っている。DMKはチェコ語を習得することに励み、傲慢な振る舞いをせず、セカンドチームのバツラフ・コタル監督を支え、懸命にトレーニングに励んだ。

 そしてコタルが2020年2月にトップチームの監督に就任すると、再びDMKは輝きを取り戻す。DMKはコタルのためにプレーをし、コタルはDMKを信頼して、彼が望むより攻撃的なプレーを託した。その結果、2020-21シーズンは10ゴールを挙げ、チェコリーグにおける自身のキャリアハイを記録することとなる。……

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ダヴィド・モーベルグ浦和レッズ

Profile

ジェイ

1980年生まれ、山口県出身。2019年10月よりアイキャンフライしてフリーランスという名の無職となるが、気が付けばサッカー新聞『エル・ゴラッソ』浦和担当に。footballistaには2018年6月より不定期寄稿。心のクラブはレノファ山口、リーズ・ユナイテッド、アイルランド代表。

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