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欧州で知ったサッカーの解釈とピムとの出会い。大宮・中村順アカデミーダイレクターが辿るサッカーの旅

2021.09.28

中村順(大宮アルディージャ アカデミーダイレクター)インタビュー前編

日本サッカーの育成界にこの人あり。柔和な笑顔とテンポの良い関西弁が印象的な55歳は、誰もが思わず話したくなるような、心を開きたくなるような、オープンマインドの持ち主でもある。だが、1990年代に一念発起して単身でドイツに渡ったことも、かつてからの夢だった育成年代の指導へ体当たりでぶつかっていることも、すべてはあふれんばかりの圧倒的な情熱に突き動かされてきた、“信念の人”でもある。大宮アルディージャアカデミーダイレクター。中村順。

インタビュー前編はヨーロッパで知ったサッカーの解釈、師と仰ぐピム・ファーベークとの出会いなど、20代と30代前半の時代を振り返ってもらう。

“山賊焼き”の串はシートに刺すもの


――まず、今の大宮アルディージャにおける立場について教えていただけますか?

 「大宮アルディージャのフットボール本部育成部長、いわゆるアカデミーダイレクターとヘッド・オブ・コーチという役職に就いています。具体的には、アカデミーにおけるサッカーの考え方を作っていったり、カリキュラムを作ったり、それに沿って実際にコーチや選手たちが活動してくれているかなというのをモニタリングして、改善したり、コーチの評価を下したり、ということをやらせてもらっています」


――何となくアカデミーダイレクターってよく聞きますけど、実態の部分を少し詳しく教えていただけますか?

 「まあ、何かと謝っているという(笑)。常に『すみません』と謝っているのが実態で(笑)、選手育成やコーチ育成というところをメインにやれたらいいんでしょうけど、それを支える部分の仕事が多くて、最初の3年間ぐらいは地ならしみたいな部分がありましたね」


――誰に謝っているんですか?(笑)

 「バスに乗っていたアカデミーの子が“山賊焼き”を食べた後の串を、シートとシートの間に挟んでいて、その次に座った人が『痛っ!』となったみたいで(笑)、苦情の電話がかかってきたと社長に呼び出されて、『すみません』と。で、次の年にまた新しく入ってきた選手が、また近所のお店で“山賊焼き”を買って食べたら、また串をシートに刺すんですよ。また社長に呼ばれて、『去年言っただろ。何で改善できないんだ』と言われたので、『社長。新しい子が入ってきて、山賊焼きを買って食べたら、それはシートに串を刺すんですよ。毎年、繰り返して言わなあかんのですか。育成というのはそういうもんですわ』とか(笑)、そうやって会社の理解を深めたり、選手育成とはどういうものかを理解してもらうための時間が、最初は必要だったかなと思いますね」


――では、アルディージャのアカデミーの話は少し後にまた詳しく聞かせてください(笑)。中村さんは大学を卒業された後に、ケルン体育大学に進まれていますが、これはどういう経緯からですか?

 「良いプレーと悪いプレーや、うまく行く時とうまく行かない時があって、『これって何でうまく行ったのかな?』というのが自分でわからなかったんですよ。指導者の言っていることも表面的にはわかるけれども、その基準やサッカーのメカニズムを知りたいなという想いが、プレーヤーだった高校2年生の時に芽生えたんですね。将来は体育の先生になって、子供たちにサッカーを教えたいという希望があったので、この疑問を解決したいなと。日本には当時そういうことを教えてくれる場所はなかったですし、もう少し勉強したいと思ってドイツに行きました」


――ドイツを選んだ理由はどういうものだったんですか?

 「ちょうどサッカー雑誌に、大阪体育大学で祖母井(秀隆)さんという方がドイツから帰られてコーチでおられるという記事を読んで、『この人に話を聞きたいな』と思って、大学の先生を通じて繋いでもらって会いに行ったんですよ。それで祖母井さんの家にお邪魔して、いろいろ話をしていたら『人に聞くよりも、自分で行ったらええやん』みたいな感じで、背中を押してくれたんです。実はその時に祖母井さんが見ている大阪体育大学のBチームに、(ズデンコ・)ベルデニックさんが臨時コーチに来られていたんですよ。それで、僕はベルデニックさんと試合を見て、片言の英語で会話しながら『ケルン体育大学で祖母井さんと一緒やったんや』『ユーゴスラビアの人なんや』とか思いながら、『でも、こういう人たちと普通にサッカーの話をしたいなあ』と強く思って、それも決断の1つの要因になりました」

2012年に大宮を率いることになるベルデニック監督

「サッカーってルールは1つやけど、その解釈の仕方や表現の仕方は千差万別なんやな」


――時代的にはドイツがイタリアW杯で優勝もして、ベルリンの壁が壊れてというタイミングだったと思いますが、行きやすさみたいなものもあったのでしょうか?

 「そうですね。ビザが下りて行きやすかったのと、ドイツが強かったのもありましたし、祖母井さんとの出会いも大きいです。ただ、結果としてドイツのサッカーに触れていく中で、『ちょっと僕には合わんな』と。当時は相手より多く1対1に勝って、相手より多く走ってというスタイルで、『それをやるんやったらドイツ人が絶対に有利で、日本人は不利やんな』ということを、ドイツに行って2年ぐらいした時に感じたんです。そんな時にボルシア・メンヘングラートバッハに留学に来た中田一三くんのお世話をしていた縁から、オランダのエクセルシオールにいた小倉隆史くんの試合を見に行って、ここでも『明らかにオランダとドイツのサッカーは違うよな』と。その時にピム・ファーベークと出会ったんですよ」


――おお。そこでピムさんと出会っていたんですね。

 「そうなんです。当時の彼は無職で、ジムで一緒になっているうちに仲良くなったという小倉くんに紹介してもらったんです。そこからピムと連絡を取るようになって、『今度フォルトゥナ・シッタートというチームの監督になるから』と言われて、ケルンから近かったので毎日のようにオランダまで練習を見に行って、毎週試合を見せてもらって、いろいろな話をしている時に、『これやったら日本人もできるんちゃうかな』と思ったんですよ。ドイツにはない考え方や理屈や理論がそこにはあったんです。『ああ、サッカーってこうなってんねんな』と。自分が高校2年生の時に知りたかったメカニズムがそこにはあったんです。『コンパクトにする』『しっかりトライアングルを作る』というものが。そこからイタリアやユーゴスラビア、ブラジルにもサッカーを見に行ったりと、バックパッカーとして世界中のいろいろなところを回っていったんです。その時に感じたのは『サッカーってルールは1つやけど、その解釈の仕方や表現の仕方は千差万別なんやな』と。でも、それがどこから来ているかと言ったら、文化とか価値観とか歴史とかそういうところからで、ブラジルに行ったらブラジルの、ウルグアイに行ったらウルグアイのサッカーがあって、いいとか悪いとかはないんやと。勝った方が偉そうにしているだけなんやと(笑)。そういうことがわかりましたね。結局ドイツには4年間いました」

1980年代から母国オランダで指導者業を始め、数々の国内クラブを渡り歩いていたピム監督。大宮での指揮を皮切りに、国外にも活躍の場を広げていった。写真はオマーン代表監督を務めていた2019年


――20代後半ぐらいに、海外でそういうサッカーの部分を学べたことは素晴らしい経験ですよね。

 「素晴らしいですよね。それは先人と言われる祖母井さんや、その前にいた日本人の方々が地ならしをしてくれたおかげで、僕たちが行きやすくなったのはありましたね。『日本のサッカーを何とかしたい』という想いがあって海外に来られて、不自由な生活の中からいろいろ学ばれて、というのがあっての今かなとは凄く思います。今は若い選手がどんどん世界に何不自由なく飛び出して行っていますけど、当時は決してそんなことはなくて、そういう先輩たちの苦労があったから、僕も素晴らしい経験をさせてもらいました」

日本への帰国。W杯経験者との“答え合わせ”


――そういう経験をされると、そのままヨーロッパにいたいと思われたんじゃないかなと感じるのですが、日本に戻られたのはガンバ大阪からオファーがあったからですか?

 「正直ずっとドイツにいたいなと思いました。夢もドイツ語で見るようになっていましたし(笑)、何不自由なく暮らしていたので、将来の食い扶持をどうするかなというところで。でも、自分の当初の目的だった『日本の子供たちに本場のサッカーを伝えたい』という希望があったので、日本に帰るチャンスがあって、サッカーで生計が立てられるところがあるならば、そこにトライするのはきっかけとしていいのかなと思いましたね」


――当時のガンバ大阪のジークフリート・ヘルト監督は、西ドイツ代表で1966年のW杯にも出ている人でしたけど、そんな方といきなり一緒に仕事をするってどんな感覚だったんですか?

 「実はディナモ・ドレスデンでヘルトさんが監督をされていた時に、今のガンバ大阪の松波(正信)監督と岡中勇人くんが留学していて、そこに僕が通訳として行っていたんですけど、それより前にたまたまケルンでドレスデンの試合を見た時に、『将来この人と一緒に働くんちゃうかな』というインスピレーションが働いたんですよ。それで実際一緒に働くことになって。イングランド代表のハーストのシュートが入っていた、入っていなかったの話になったら、あの温厚なヘルトさんが『絶対に入っていない』と断言していました。あと、言われることといったら、当時の90年代のドイツが求めていた1対1=ツバイカンプの部分と、『フリーランニングしなさい』『マークは相手に息がかかるぐらい近くにいなさい』と。テクニカルな部分というよりはそういう戦う姿勢を見ておられて、『ああ、負けず嫌いなドイツ人の方やなあ』という印象でしたね」


――当時は外国籍選手もプロタソフ、アレイニコフ、ツベイバ、ヒルハウスとW杯経験者ばかりでしたが、通訳をされているとそういう選手たちとも関わりがあったんじゃないですか?

 「プロタソフとアレイニコフはソ連代表として、1988年のEUROでオランダとの決勝を戦った選手たちなんですよね。当時のソ連代表の練習を見にいった友人から『凄くコンパクトフィールドにしていて、縦幅を凄く短くして、最後はスルーパスを出してゴールまで行くというのをしきりにやっていて、そのコンビネーションとスピード感、判断の速さが凄かった』と。『どんな練習してたん? 選手はどうやったん?』と聞いていたような選手が目の前に来たわけですよ。それを彼らに直接聞いたら、判断を速くするために立ち位置を取って、横に広げて、常にFWは背後を狙うアクションをすると。中盤の選手は常にアラートな状態で、周りを見てシンプルにプレーすることや、技術を正確にすることだと。『なるほどなあ』って。僕は現場にいなかったEUROやW杯に出ていた選手の生の声を聞けたというのは、凄く大きかったですね」

1986年のメキシコW杯でプレーするアレイニコフ


――ソ連代表がやっていたことなんて、今のサッカーにも通じていますよね。

 「そうですね。サッカーって突然奇抜な戦術が決まるんじゃなくて、一連の流れの中で系譜として紐づいていて、結果としてそうなったというところがあって、その一連の流れを歴史として見続けている自分は幸せですよね。ドイツにいた頃は、ドリームチームのバルセロナがあって、そこに対抗したACミランがあって、将来のサッカーはどうなるかっていう議論があった時に、ヘルトさんは『バルセロナとミランが融合したようなサッカーが10年後のサッカーだな』と言っていたんですけど、10数年後にグアルディオラがそれをバルセロナでやったわけですよ。『やっはり偶然じゃないよな』って。『みんなそういうふうに見てんねんな』っていうのを知れたのは大きかったですね」

サッカー観を変えたピム・ファーベークとの再会


――ガンバの後にブランメル仙台に3年間在籍されて、そこからアルディージャに来るきっかけはピムさんが監督に就任していたからですか?

 「ピムに呼ばれたわけじゃなくて、ブランメルとの契約が終わった後、もうサッカーをやめようと思ったんです。ブランメルではコーチをやらせてもらっていて、チームはJリーグに昇格できなかったですし、選手自身も上手くなってなかったんです。そういう自分をしっかり見つめた時に、『オレってサッカーのコーチって言っているけど、選手も上手くしてないし、チームも勝たせていないし、実力ないんやな。大阪帰って何か違う仕事しよ』って思ったんですよね。その時に佐久間悟さん(現・ヴァンフォーレ甲府代表取締役社長)から電話がかかってきて『何してるの? プータロー?』って(笑)。『そうそう、プータローです』『これから何するの?』『何しようかなと考えているんですけど』『ピムと契約の話をするから、通訳として間に入ってくれ』と。

 実はピムが“フースバルトレーニング”というドイツの雑誌にゾーンディフェンスについて説明した記事があって、僕はドイツにいる時にそれを日本語に訳していたんですよ。それで、ピムと契約の話をする時に、彼が『自分のサッカーの考え方はこうで』とか話していたので、『日本語ではこれがあるよ』とそれをパッと出して、『何でオマエが持ってるの?』『ドイツのフースバルトレーニングに記事を出したでしょ。その時にオレも訳したんだ』と。それで契約が前向きに行ったんですよね。それが大宮とのきっかけです。クラブから『中村さんも一緒にやってくれませんか?』と言われたので、僕はサッカーをやめるつもりでいたけど、最後にもう1回ちょっとだけサッカーを勉強しようということで、大宮にお世話になったんです。

 それが自分のサッカーの世界への扉を大きく開いてくれましたね。毎日のようにバルセロナのビデオを見て、当時はグアルディオラがピボーテでプレーしていて、フィーゴやリバウドがいて、『このメカニズムはどうなってんねん?』というのをビデオを見ながら勉強して。ピムがその日の大宮の練習をやるじゃないですか。その夜にバルセロナを見たら、練習でやったことがそのまま試合に出ているんですよ。『あれ?今日の練習でピムが言ってたことやな』ということを渋谷(洋樹・現ヴァンフォーレ甲府ヘッドコーチ)さんと言っていて、『何で? 彼は未来を見れるの?』みたいな(笑)。当時バルセロナの監督をしていたファン・ハールとピムは友達だったので、日本に来る前にピムはバルセロナへ遊びに行って、これからどうしていこうというプランを聞いたりしていたこともあって、それも併せたものをレクチャーしてくれたんですよね。そこで僕のサッカーを探求する気持ちが、より刺激されてしまったんです。『ああ、こんなんなんや』と。そういうサッカーを大宮でやっていて、吉田達磨さん(現・シンガポール代表監督)をチンチンにしたという(笑)」


――モンテディオ山形の選手だった吉田達磨さんが、ピムさんのアルディージャがやっていたサッカーに衝撃を受けて、中村さんに話を聞きに来たんですよね。その話は非常に印象的です。

 「ずっとボールを追いかけていたという。山形をチンチンにしたのは覚えています(笑)。というのは、『まずはFWを切ってしまえ』というプランがあって、次に『ボランチを切ってしまえ』と。なぜかと言ったら、当時の山形は植木(繫晴)さんが監督で、前からのプレッシャーが面倒くさかったんです。じゃあどうするのという時に、『まずはビルドアップを安定させるために、2トップを切ってしまえ』と。そこで数的優位を作って、プレッシャーのかからない状態を作って、次に『ボランチを切ってしまえ』と。ボランチだった達磨のところを切りに行って、それでヘロヘロになった瞬間に仕留めに行けと。要はバイタルエリアを攻略して、前向きができたら、アクション、アクション、アクションなんです。その時には相手のパワーがないというシナリオを、90分間のストーリーを作るわけですよね。『これは山形の選手もたまったもんじゃないよなあ』と。行っても行ってもボールを取れないし。そこに達磨がいたんですよね。その後にピムのサッカーの説明を求めに、達磨はわざわざ何回か大宮まで来ましたね」


――以前、渋谷さんにインタビューをした時に、『たぶんピムさんにサッカーを教わった人は、みんな指導者をやりたくなると思う』とおっしゃっていたんですけど、中村さんもそう思いますか?

 「指導者の資質や能力というのは様々あるんですけど、『こうやったらサッカーって上手く行くよね』『こうやったらボールが回る』『こうやったら得点チャンスが出てくる』『こうやったら守れる』というようなメカニズムを教えてもらったという想いが、当時ピムと一緒にやった選手はあるんじゃないですかね。そこにカリスマ性だったり、現役時代のキャリアや実績だったり、もちろんそれは加味されることなんでしょうけど、そういうバックグラウンドは関係なく、『こういうふうに考えたら勝つ確率が高いよね』というようなことはみんな教えてもらったので、それを伝えたいなと思うんじゃないかなと。サッカーのメカニズムを理屈で教えてもらえたことが大きいのではないでしょうか」


――それは今から考えても普遍的なものだったなと思われますか?

 「そうですね。なぜオランダ人の多くのコーチが海外に行って頑張っているのかというと、もちろん語学の問題はあると思うんですけど、1つは彼らの解釈やサッカーの理解の中で、“スペース”というのは凄く重要で、『“105×68”のスペースというのは世界中どこに行っても変わらないよね』と。それを基準にサッカーを考えたら伝えやすいんです。技術があるとか、足が速いとか、背が高いとか、それは国によって違うけれど、スペースは普遍的なものやと。11人対11人で与えられるスペースは限られていて、これをベースに考えたらサッカーは理解しやすいよね、と。だから、それを教わった大宮出身の当時の選手たちも、サッカーを伝えやすいという部分があるんじゃないかなと思いますね」


――アルディージャにとってももちろんですけど、中村さんにとってもピム・ファーベークという人は相当大きな存在ですか?

 「うーん、そうですねえ…… 何やろうなあ。決して目立とうとしないし、しゃしゃり出ないですし、控えめで、自分の能力があることも見せびらかさないですし、というところに逆に憧れてしまうというか。誠実さであったり、サッカーに対する向き合い方であったり、人に対する接し方であったり、『こういうふうになりたいよな』って感じさせてくれた存在かなと思いますね。凄く影響を受けました」

クラブでは大宮や京都、代表では韓国、オーストラリア、オマーンを率い、アジアサッカーに多大な影響を与えたピム監督。2019年に63歳の若さで逝去した際には、日本のみならずオーストラリアでも黙祷が捧げられた

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Photos: ©1998 N.O.ARDIJA, Getty Images

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中村順大宮アルディージャ戦術文化

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーとなり、現在はゲキサカを中心に活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!