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紛争国と島国も熱狂させたクロアチア人監督の「究極系」。ペタール・シェグルトが信じるサッカーの力(後編)

2024.02.18

炎ゆるノゴメット#2

ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。

WEB月刊連載として再始動する初回では、アジアカップで初出場のタジキスタンを8強へと導いたクロアチア人指導者の物語を前後編に分けてお届けする。

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流浪のキャリアを経て「世界で最も危険な監督職」へ

 ジョージアでの手腕を買われ、シェグルトがドイツU-21代表監督の最有力候補に挙がったのは2008年12月のこと。ドイツサッカー連盟のチームマネージャー、オリバー・ビアホフに見出され、親友のヨアヒム・レーブも後押ししてくれた。サッカー連盟会長との面接でも高い評価を得て、残るは契約を結ぶだけ。ところが、スポーツダイレクターのマティアス・ザマーがしゃしゃり出てきて「君はドイツ国籍を持たないクロアチア人だからダメだ」と主張し、最後の最後で契約は反故にされた。ザマーとレーブの間で敵愾心が生じていたことも影響したという。破談とほぼ同時にジョージアサッカー連盟のスポーツダイレクターの職も失い、しばらくは無職の日々が続く。

 ブンデス2部のカールスルーエの監督職に続いてウェストハムのアシスタントコーチ職が浮上し、アブラム・グラント監督(当時)の前でトレーニングを5日間実践したものの、一方的に契約締結は撤回された。ジョージアでも私財を支援に費やしており、早くに財産が底をついたシェグルトはアジアに活路を見出した。

 2011年7月、インドネシア・プレミアリーグのバリ・デバタの立ち上げに関わると、その3カ月後には同国の人気クラブ、PSMマカッサルの監督に就任。彼自身はキリスト教徒だが、イスラム教徒の生活や文化を深く知るべく、ラマダン月は断食に挑んだという。インドネシアの若い選手たちを代表クラスに育て、ホーム無敗記録を打ち立てるなど、5年契約を結んだクラブとは相思相愛の関係だった。ところが、ヨーロッパが恋しくなって2013年6月に退団。インドネシア代表監督のオファーも固辞してしまった。

 翌年9月からはボスニア1部のズビイェズダ・グラダチャツの監督に就任する。クロアチアの故郷に近いことも理由の一つだったが、敬愛するオシムからは「何をさまよっているんだ? ここはお前が働くリーグではないぞ」と皮肉られたそうだ。翌年4月にクラブの経営陣が一新されたのを機にボスニアを去ると、再び彼はアジアに吸い寄せられていく。アフガニスタンサッカー連盟とジョージアサッカー連盟の会長同士がインドで接触した際、「困難な条件でも恐れることなく働ける指導者」という理由で強く薦められたのがシェグルトだった。

ドイツ代表監督のレーブと再会したアフガニスタン代表監督のシェグルト。サッカー観が近いレーブとは1996年から深い親交を結び、レーブが1998年にフェネルバフチェ監督に就いた際はアシスタントコーチとしてシェグルトを誘っている

 「最初は『俺はアフガニスタンに行くぞ。クロアチアやジョージアの戦争も切り抜けた強い人間だからな』なんて強気に旅立った。しかし、首都カブールの空港に到着してから装甲車でホテルに向かう最中、市内で爆発が起きた。ライフルを肩に抱えた人が街をうろうろしているし、ホテルの部屋の壁には銃痕が残っていた。『俺はここでいったい何をしているんだ?』と思ったよ。

 オファーは断るつもりだったけど、交渉を前にサッカー連盟はバラの花を手にした5、6歳の男女を50人ほど集めていてね。彼らが一斉に私に駆け寄って、私に抱きついたんだ。自分の幼少期をふと思い出したよ。歯のない子もいれば、薄汚れた顔の子もいた。その中に片足だけ靴を履いている子がいたんだ。ベンジャミンと名乗る少年に対し、通訳を介して理由を尋ねた。彼は希望に満ちた表情で私にこう言った。『なぜ両足に靴が必要なのかい? サッカーでシュートを決める時は1本の足で十分だよ!』。衝撃だった。その瞬間に私は悟った。『もしここで私の可能性が尽きたとしても、もしここで私の人生が終わったとしても、それは神がそうするしかなかった、ということだ。でも、今の私はこの子たちを見捨てるわけにはいかない。アフガニスタンを助けられるのならばここで挑戦しようじゃないか』とね」

 アフガニスタン代表監督は「世界で最も危険な監督職」だ。タリバーンによる誘拐や殺害の危険性があったために現地生活の希望は叶わなかったものの、シェグルトは15度にわたってアフガニスタン入国を繰り返した。2人のボディガードが常に見守る中、彼は爆破テロの現場に何度も出くわしている。負傷者を助けようとした際はボディガードに力ずくで引き留められ、すぐに同じ場所で2度目の爆発が起きたそうだ。もちろん、治安の問題でアフガニスタン国内では代表戦が開催できず、トップリーグも1カ月だけの集中開催だった。……

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Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

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