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サンフレッチェに全盛期の「ハヤオ」が戻ってきた意味。サポーターに届けた「誇り」と欧州で得た「成熟したチーム・スピリット」

2025.03.03

【特集】元欧州組の影響力#1
川辺駿(サンフレッチェ広島)

J1連覇を成し遂げたヴィッセル神戸の成功でクローズアップされているのは、大迫勇也、武藤嘉紀、酒井高徳などの「元欧州組」の存在だ。日本代表の経験を持つエリートだけでなく、若手も含めた海外進出が加速している今だからこそ、今後は戻って来るケースもさらに増えていくだろう。世界を経験した選手たちがJクラブにどのような影響を及ぼし、何をもたらしているのか――それぞれのケーススタディについて掘り下げてみたい。

第1回は、ベルギーの強豪スタンダール・リエージュで7得点9アシスト(23-24シーズン)という結果を残しながら、古巣・サンフレッチェ広島に帰還した川辺駿。欧州での経験がもたらした変化、新システム「HAYAO-DIAMOND」が及ぼしている効果、そしてチーム全体に与えている精神的な好影響について、アカデミー時代から川辺を知る中野和也記者が伝える。

「サンフレッチェ広島」というブランドへの誇り

 川辺駿が広島にもたらしたものは、プライドである。

 この言葉の本質を理解していただくには、サンフレッチェ広島の歴史を少し説明する必要があるだろう。

 1992年のクラブ創設以来、いや実はその前から、広島のサッカー界は「人材流出」が当然のこととして、受け入れられてきた。

 1965年の第1回日本サッカーリーグから前人未踏の4連覇を果たしたのは、サンフレッチェ広島の前身である東洋工業サッカー部。日本リーグ時代はおろか、Jリーグでも破られていない4連覇という偉業を果たした東洋工業サッカー部のレギュラーの多くは日本代表で、「代表の共通語は広島弁」とまで言わせた時代もあったが、その栄光は1960年代で終焉。1970年代は最強のストライカー・釜本邦茂を抱えたヤンマー(現C大阪)や最速ウイング・杉山隆一を擁した三菱重工(現浦和)に時代を奪われ、80年代に入ると読売クラブ(現東京V)や日産自動車(現横浜FM)が台頭する一方で、東洋工業から社名変更したマツダサッカー部は低迷し、時に2部降格を余儀なくされるなど、名門は厳しい状況に立たされた。

 その要因の1つは、やはり予算である。

 1970〜80年代にかけてマツダを経営危機が襲い、サッカー部に多額の予算をかける余裕がなくなっていた。広島出身の名選手である木村和司や金田喜稔らを獲得できず、かつてのように優秀な大卒選手を獲得することも厳しい状況に陥っていた。

 1984年、監督に就任した今西和男がハンス・オフトをヘッドコーチとして招聘して事実上の監督として改革に着手。同時に高卒選手たちを採用し、時間をかけて育ててチームを構成する「育成型」にシフトするなど、現在のサンフレッチェ広島が受け継いでいる哲学を強化方針として打ち出した。ただ、改革や育成には時間がかかる。

 1992年、Jリーグ参画に消極的だったマツダを広島の世論が動かし、「オリジナル10」としてのJクラブ=サンフレッチェ広島が誕生。しかし、プロともなれば予算の問題はさらに重くのしかかる。

 それでも初代監督であるスチュアート・バクスターの戦術が奏功して、チームは強化された。フジタ(現湘南)から獲得した高木琢也やドイツから呼び寄せた風間八宏、チェコスロバキア代表の主将を務めたほどの実力者であるイワン・ハシェックらに加え、広島で育成した森保一や前川和也、片野坂知宏らの実力者が噛み合い、1994年にはステージ優勝を果たす。

 しかし、マツダはクラブ設立時から「親会社」ではなく「大手スポンサー」という位置づけ。サンフレッチェ広島は設立当初から独立採算でやっていく必要があったのだが、Jリーグブームが終焉したことで観客動員が低迷し、収益は悪化の一途を辿った。1997年オフには経営危機が発覚する。高木琢也や路木龍次、森保一ら日本代表クラスの主力を移籍させざるを得なかった(森保は後に期限付き移籍へと変更)ほどで、翌年には柳本啓成も移籍。盧廷潤もオランダに新天地を求めるなど、初期の広島を支えてきた人材が次々に流出する事態になってしまった。

 もちろん、プロとしてサバイバルするために財務状況を改善させる必要があったのは事実で、その大義のためには致し方なかった。しかしサポーターにとっては「経営危機のための人材流出」などは想定外の事態。衝撃は大きかったが、以降も選手たちの流出は続き、成績も低迷したことで、不安は増大していった。

 その経営面の不安は1998年、家電販売大手のエディオンを経営する久保允誉社長が就任したことで改善の道を辿った。だが、その後も選手たちの流出は続く。プロ意識の高まりからくる選手たちの「ステップアップ」への欲求が、要因だ。

 2002年、初のJ2降格。そのオフには、久保竜彦や藤本主税といった主力がチームを離れ、水戸に期限付き移籍したトゥーリオ(田中マルクス闘莉王)は広島に復帰せず、浦和に完全移籍。2007年、2度目の降格時には、広島ユース出身者として初めてW杯に出場した駒野友一が磐田に移籍した。

2023シーズンからアカデミー普及コーチ(スクールコーチ)として広島に帰還している駒野

 2009年にJ1復帰を果たし、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督のもとで革新的なサッカーを展開していたが、結果を出せば出すほど、そして森保一監督のもとで優勝を重ねても、移籍する選手たちが増える。柏木陽介、槙野智章、森脇良太、髙萩洋次郎、浅野拓磨。広島に移籍して才能が本格開花した石原直樹や李忠成、ドウグラスも、大分時代から日本代表に選出されていたが、広島に来て連覇に大きく貢献した西川周作も。そして2016年オフには、広島の絶対的なエースだった佐藤寿人も、名古屋に新天地を求めた。

 2001年に高卒加入し、2004年オフに移籍して2013年オフに戻ってきた林卓人のような例もあるが、それは希少。森﨑和幸や森﨑浩司、青山敏弘といった広島一筋のレジェンドもいるが、基本的に広島は人材供給クラブであり、選手たちにとっては成長に向かう螺旋階段の踊り場のようなものだった。それは決して悪い意味だけではなく、プロとしては当然のこと。だが、サポーターの立場からすれば、そういう自覚を持つには、複雑な感情が邪魔をする。

 ただ、広島のそういう立ち位置は、少しずつ変わってきた。

 2023年夏、森島司が名古屋に移籍すると、足立修強化部長(当時)はすぐに動く。C大阪から加藤陸次樹を獲得することはすでに決まっていたが、加えてマルコス・ジュニオールも横浜FMから移籍させた。さらにオフには大橋祐紀を他のJクラブとの争奪戦を制して獲得する。こんなことは、過去の歴史にはなかった。

 それでも2024年夏、その大橋に加え、川村拓夢や野津田岳人が海外移籍。他のJクラブも同じ悩みを抱えているが、広島もまた海外移籍による人材流出に悩んでいた。サポーターは海外での成功を願って選手たちを送り出すしかなかったが、一方で残された者としての想いが心の奥底に蓄積する。「サポーターは移籍できない」とよく言われるが、広島のような人材供給クラブを支える人々の寂しさや切なさは、その立場にならないとわかるまい。

 だからこそ、こう言い切りたい。川辺駿の価値は、寂しさに震えていたサポーターたちに希望を与えたことだ、と。

 広島で生まれ育ち、サンフレッチェ広島の育成組織でサッカーに夢中になった若者は、2014年にトップチームへと昇格。2015年から磐田に期限付き移籍すると、名波浩監督(当時)にその才能を大きく評価され、主力として起用されることとなった。3年間をほぼレギュラーとして過ごし、1年目はJ1昇格、2年目以降もチームの躍進に大きく寄与した川辺は磐田のサポーターにも愛され、広島サポーターは「このまま磐田に買い取られるのでは」と恐怖した。実際、期限付き移籍最終年となった2017年の広島は勝ち点1差のギリギリでなんとか残留。磐田は13位から6位へと躍進し、チームとしての勢いは間違いなく、広島は劣勢だったのだ。

 しかし、川辺の決断は違っていた。……

Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。