
クラブ黎明期を知るフットボーラーが抱くのは100年続くサイクルが生み出すDNAへの希望。梁圭史・ファジアーノ岡山U-18監督兼ヘッドオブメソッドインタビュー
【特集】ファジアーノ岡山、 市民クラブがJ1に見る夢#9
2025シーズン、クラブ創設以降初めてJ1を舞台に戦うファジアーノ岡山。1つの大きな夢を叶えた市民クラブは、その先に何を見るのか?森井悠社長は「岡山のスポーツ業界の中では非常に有利な立場にいる。(売上)100億円をいろんな形で目指すこと自体は不可能ではない」と大きな青写真を描いている。悲願の実現に至る過程、そしてその未来にある景色に思いを巡らせてみたい。
ファジアーノが産声を上げた2005年に選手として加入すると、引退後はトップチームのコーチや育成部門の監督を歴任し、クラブを黎明期から支えてきたのがヘッドオブメソッドも兼任する梁圭史U-18監督だ。昨シーズンはU-18が初めてプレミアリーグに参戦するなど、進境著しいアカデミーの中心人物に、今までの思い出とこれからの展望をじっくりと語ってもらう。
(取材日:1月22日)
「いつ、どこで、誰とやってもフットボールは変わらない」という信念
――ファジアーノ岡山のアカデミーが一番大切にしているものは何でしょうか?
「ファジアーノの育成年代においては、『子どもたちが夢を叶える場』ということを一番大切にしていて、その中にはいろいろな夢があると思うんですけど、とりわけフットボールの中での夢を叶える場所として考えています」
――ファジアーノのアカデミーは明確な育成方針を掲げられていて、その中のMissionに『子どもたちが夢を叶える舞台となる』という文言がありますね。この育成方針は『Mission』『Direction』『Goals』『Philosophy』『Playstyle』と5つの項目があって、非常にディテールまでしっかり策定されている印象です。
「今のクラブは3本部制になっていて、フットボール本部、事業本部、管理本部があるのですが、育成方針はフットボール本部のところで、今の育成部長の西原(誉志)と服部(健二)GMを含めたスタッフが作ったものです。ああいう形で一番のおおもとになるものが明確だと、立ち返りやすいことは間違いないので、良い指針になっています」
――あの育成方針を拝見すると、『サッカー選手として』と『人として』という二つの軸を大切にされていることがよくわかりますが、ファジアーノのU-18はしっかりしている選手が多い印象があります。
「たぶん監督がしっかりしていないから、選手がしっかりするんでしょうね(笑)。でも、まず人として尊敬されること、人としての魅力を持つことは僕も考えています。社会に出ればこの多様性の時代の中でいろいろな人がいますし、言語や宗教や文化の違いも出てきます。僕が選手たちによく言うのは『いつ、どこで、誰とやってもフットボールは変わらない』ということで、つまりはいつでも、どこでも、誰とやっても、自分を出せるように、ということは選手に促していますし、それはU-18の活動だけではなくて、クラブとしても求めているものだと思います。やはり良い選手はどんな戦術を採っても、どんな選手と一緒にやっても良い選手ですし、『誰とでもしっかり話せる準備をしておいた方がいい』ということは伝えています」

――以前U-18に所属していたナジ・ウマル選手(現・中央大)には宗教上の理由で『ラマダン』があって、その影響で練習中に水を飲めない時に、彼が練習しやすいやり方を周囲が協力して考えていると。日本人の選手が国による文化の違いをそういう形で知ることが大切だと、梁監督がおっしゃっていたお話が凄く印象的でした。
「僕もルーツは在日コリアンですが、人間性に人種は関係ありませんし、そういうことをコミュニケーションを取りながら理解していくというか、先入観を持って入らないことの大事さは僕も持っているつもりです。『ラマダン』をする選手と一緒に練習する機会自体がなかなかないわけですけど、それも1つの形として受け入れるというか、ある意味では試合中にやろうとしていることがうまくいかない時の解決法と変わらないんですよ。想定と違うことが起きた時に、どう立て直せるか、どうまとまれるかという部分と同じようなことだと思います」
――指導方針の『Playstyle』には『0秒切り替え、0秒アタック』という文言が書かれています。これは非常にキャッチ―ですね。
「『0秒切り替え、0秒アタック』というのはトランジションのところの話なので、攻撃も守備もシームレスにやるというイメージですね。そもそも『0秒』というのは数字ではないわけで、それを使うこともありますし、失った瞬間から取りに行くような“攻撃から守備”のところでは『5秒切り替え』というワードも使いながらやっています。今のフットボールは切り替えのところも、守備しながら攻撃する、攻撃しながら守備するという形で流れが止まらないので、『0秒切り替え、0秒アタック』はキャッチ―だと思いますし、凄くわかりやすいと思います」
――梁監督は指導をされる時に、こういうキャッチーな言葉は使われる方ですか?
「僕は基本的に『なんだ、この言葉?』というものよりは、誰が聞いてもわかるような、小学生が聞いても理解できるような、なるべくシンプルな言葉で伝えた方がいいかなと考えています。もちろん年代によって理解度の差もありますし、僕はボキャブラリーが少ないので(笑)、なるべく日本語で、頭に入りやすい言葉で伝えるようにしていますね。伝える時の言葉も、頭に残るようなものを3つぐらいにまとめます。もちろんU-18での3年間で指導者が変わることもありますし、大きなところからシンプルに伝えていくことで、どんな戦術にも対応できるかなと。サッカー人生は長いので、その言葉にしか反応しないよりは、誰もが使うだろうという言葉で指導しているイメージです。だから、僕がキャッチーな方に振れたら、選手が驚くかもしれないですね(笑)」
――では、今年はちょっとそっちに振れてみてください(笑)。
「考えておきます(笑)」

岡山出身のサッカー少年が地元のクラブに帰ってくるまで
――ご自身のことも聞かせてください。梁監督は岡山のご出身ですが、子どものころを振り返ると、当時の県内のサッカーの盛り上がりはいかがでしたか?
「僕は小学校2年生まで日本の小学校に通っていて、3年生から中学3年生までは朝鮮学校に行っていました。そこから高校は広島に行ったのですが、僕が育った水島の工業地帯の近くは、サッカーを楽しくやっていた地域だったと思います。僕自身は男の子3人兄弟の3番目で、そのころはどちらかと言うとソフトボールがメジャーで、就学前は僕も兄と一緒にソフトボールでランナーの役をやっていました(笑)。ただ、小学校1年生で引っ越した先がサッカーの盛んな地域で、兄がボールを蹴っていたので、僕もやり始めた感じですね。父も岡山出身ですが、もともとは巨人の試合をみんなが見るような、サッカーの話題は出ないような感じだったようですし、そういう意味では過渡期というか、まだサッカーで文化を作っていくような環境ではなかったと思います」
――2000年にはヴェルディ川崎でプレーされていますよね。
「はい。当時は在日朝鮮蹴球団でプレーしていたのですが、北朝鮮代表の合宿に招集されたんです。そこから遠征メンバーにも選ばれて、そのあとで代理人経由で練習参加をして、2000年シーズンのセカンドステージからヴェルディに入ることになりました。その経験は本当に大きかったですね。僕が育ってきた環境は一体感を大切にしてきたんですけど、個というものがより際立つ部分と、『そもそもフットボールでしょ』という考え方の中で、実力があれば認められるわかりやすさは、今の自分の中でも強烈に残っています。凄く良い選手がたくさんいて、素晴らしい経験をさせてもらいました」
――今はファジアーノのトップチームでコーチを務めている村主(博正)さんとも一緒にプレーされていたんですよね?
「村主さんともプレーしましたし、(カマタマーレ)讃岐の米山(篤志)監督とも一緒にやっているので、そういう方が今も比較的近くにいらっしゃるのも、『縁があるな』と思います」
――ファジアーノには2005年に選手としていらっしゃったんですよね。
「はい。2003年まではザスパ草津にいたんですけど、ケガもありましたし、結婚もしていたので、より高みを目指すサッカーを続けるのではなくて、違う道に進もうと思って、それからしばらくは知り合いの会社で働いていました。その時に勤めていた会社の代表が中学時代のサッカー部の恩師で、ちょうどファジアーノを立ち上げるということになったタイミングで、『こういう話があるけどやるか?』ということになったんですね。もう1年近くボールを蹴っていなかったので、『たいした戦力にならないので、結構です』とお断りしたんですけど、是非ということで現役復帰することになりました」
――その決断は人生にとって相当大きな岐路になりましたね。
「メチャクチャ大きな岐路でした(笑)。『こんなことがあるんだな』という感じです。運が良かったですし、うまく“レール”に乗ることができたんだなと思います。その後も僕は木村(正明)オーナーに誘われて、ファジアーノで選手からコーチになったんですけど、クラブがプロ化するタイミングでもともと在籍していた選手はほとんどいなくなって、コーチングスタッフも手塚(聡)監督だけが決まっている状況で、『スタッフをやってくれ』と言ってもらえたので、それがなければ今の自分もないと思いますし、本当に感謝しています。人との出会いが大切だなということは痛感していますね」
――しかもその立ち上げのころに一緒にプレーされていた中に、岡山学芸館高校の高原良明監督や吉谷剛コーチ、玉野光南高校の乙倉健二監督という、今の岡山の2種年代を支えている指導者の方々がいたわけですよね。……

Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!