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紆余曲折あった!魅力的な新潟スタイルができるまで 

2022.12.23

特集:新アルビスタイルの真髄に迫る#1

シーズンを通して安定したパフォーマンスを披露しJ2優勝、そしてJ1復帰を遂げた2022シーズンのアルビレックス新潟。しかしながら、その成功は一朝一夕で成し遂げられたものではない。何人もの監督たちの下で自分たちのスタイルを模索し、試行錯誤した末に勝ち獲ったものであった。“新アルビスタイル”確立までの悪戦苦闘、そしてそれが結実した2022シーズンの足跡を、10年以上にわたりクラブを追い続けている野本桂子氏がたどる。

魅力的なサッカーで結果

 アルビレックス新潟は5年目の挑戦でJ1昇格を叶え、さらにJ2優勝も果たした。得点数はリーグ最多の73で、失点数も徳島ヴォルティスと並ぶリーグ最少タイの35。連敗は一度もなく、勝ち点は指揮官が目安として掲げた80を上回る84を積み上げた。さらに言うなら、警告数もリーグ最少。今季新設されたJ2アウォーズでフェアプレー賞を受賞した。

 「本当に格好いいんですよ、うちの選手たち」

 そう言って彼らを誇る松橋力蔵監督は、J2優勝監督賞に選ばれた。またJ2ベストイレブンには、小島亨介、舞行龍ジェームズ、堀米悠斗、伊藤涼太郎、高宇洋、高木善朗とリーグ最多の6名が選出された。

 長年、粘り強く守ってからのカウンターを伝統としてきた新潟は、この3年間でボールを持って主導権を握り、魅力的なパスワークでゴールを陥れるチームへと変貌した。ボール支配率も、2年連続でリーグ首位となった。明確なスタイルを築き上げ、内容も結果も伴って、目標を達成した。

 「これが新潟のサッカー」と言える、明確で継続性のあるスタイルは、12年途中から15年までの3年半、チームを率いた柳下正明氏(現ツエーゲン金沢監督)以来だ。

 柳下氏は就任当初「新潟は守備の時間が長くても、まったく苦にならない。どれだけ守備が好きなのか。でもそれがストロング」と苦笑い。そのストロングを、受け身で構えるスタイルから、積極的にボールを奪いにいくスタイルへと進化させた。

15年までチームを率いた柳下監督

 12年のJ1最終節で“奇跡の残留”を遂げると、13年は田中達也(現アシスタントコーチ)、レオ・シルバ(現名古屋グランパス)、キム・ジンス(現全北現代/韓国代表)らを補強。ハイプレスからのショートカウンターが新潟の代名詞になった。この年は、リーグ後半戦だけならJ1首位の勝ち点を積んだ。第33節では優勝が懸かる横浜F・マリノスをハイプレスで圧倒して2-0で下し、日産スタジアムの6万人を沈黙させた。川又堅碁(現ジェフ千葉)はJ1得点王まであと3点に迫る23得点をマーク。ホーム9連勝でシーズンを終えた。15年は9年ぶりに浦和を倒し、クラブ史上初のナビスコカップベスト4進出。しかしリーグ戦は残留争いとなった責任を感じ、柳下氏は勇退。それでも「『新潟はこういうスタイルだよね』というものを残せた」と頷き、新潟を後にした。

 しかしその翌年から、新潟は4年連続でシーズン途中の監督交代が続いた。

 16年は吉田達磨氏がポゼッションをプラスした。選手たちは意欲的に取り組んだが、形になる前に順位が低迷し、残り4試合の段階で解任。片渕浩一郎コーチ(現サガン鳥栖ヘッドコーチ)が暫定監督となり、堅守速攻に回帰してJ1残留を決めた。

 17年の監督は三浦文丈氏(現松本山雅コーチ)でスタートし、シーズン途中から交代で呂比須ワグナー氏が就任した。どちらも自陣でブロックを構えてからのカウンターを志向したが、結果が出ずにJ2降格が決まった。

 降格初年度の18年は鈴木政一氏を指揮官に迎え、クリエイティブでアグレッシブなサッカーを掲げたものの、ブロックの堅いJ2のサッカーに苦戦。14試合を残して解任となった。

 その後を暫定指揮した片渕コーチが、19年は正式に監督に就任。再び堅守速攻をベースにしたが、上位争いを望むフロントの意向で交代に。急きょ就任した吉永一明氏(現アルビレックス新潟シンガポール監督)は「新潟の人たちはハイプレスからのショートカウンターを好む」という分析から、その状況を作るために逆算。ボールを運びながら距離感をコンパクトに整えて敵陣に入ることで、奪われてもすぐに奪い返せる形を築いた。また意図的なビルドアップから優位性を生み出し、ライン間で生きる高木善朗をトップ下に起用した形は現在に通じるものだった。「吉永さんの存在は大きかった。アルベルの時にサッカーが変わったと思われがちですけど、吉永さんから始まっていた」と堀米は言う。チームはレオナルド(現蔚山現代)が28得点を挙げてJ2得点王になったものの、10位で終えた。

19年シーズン途中から指揮を執った吉永監督

 クラブは新たなトライを試みるものの、指揮官が変わるごとにサッカーが変わるため、選手の適性も変わる。結果もすぐには出ない。繰り返される交代劇に、継続性は生まれず。責任感が強い選手ほど元気がなくなり、目の輝きは失われていった。

誇れる存在に

 「何かを変える時には、黒船が必要だ」

 J2で3シーズン目を迎えるタイミングで改革に出たのが、18年末に社長に就任していた是永大輔氏(現アルビレックス新潟シンガポール会長)だった。20年に向け、FCバルセロナの育成組織で長く要職を務めたアルベル氏(現FC東京監督)を招へいすると、新潟の新たな歴史が動き出した。

 J2降格により、クラブへのJリーグからの配分金は2億円下がる。また降格1年目は受け取れた救済金も、2年目からなくなる。こうしたタイミングで社長に就任した是永氏は、これまでのような繰り返しではクラブ自体が存続できなくなるという危機感を持ち、育成型クラブへと舵を切ることにした。若手選手を育て、ビッグクラブへ羽ばたかせるため、久保健英(ソシエダ)らの才能を発掘してきたアルベル氏に白羽の矢を立てたのだ。

 アルベル氏は「ボールを愛するサッカー」という表現で、新たな方向性を示した。ボールをしっかり保持して主導権を握り、立ち位置で優位性を作るポジショナルプレーを伝えた。また「愛するものが奪われたら、すぐに奪い返さなければならない」と、即時奪回も意識づけた。

新潟時代のアルベル監督

 この年は新型コロナウイルス禍により、開幕戦後にリーグ戦が4カ月間中断。過密日程の中で、チームの感染状況によっては試合数がそろわない可能性もある中、公平性を保つために降格なしの措置がとられた。ある意味では、結果にとらわれ過ぎず、新たなスタイル構築に集中できたとも言える。

 不慣れなビルドアップにプレッシャーを受け、うまくいかないこともあったが、指揮官の信念はぶれなかった。何より「アルビレックス新潟が地元の誇りになる」ことを重視し、魅力的なサッカーの構築に力を注いだ。

 また、期待された若手育成に関しては「ヨーロッパの同世代の選手と能力に差はないが、戦いの経験が足りない」と若手を積極的に起用。プロ2年目のGK藤田和輝もプロデビューし、同期の本間至恩は7得点7アシストと結果を出して自信をつけた。しかし終盤は過密日程の影響で主力選手が次々とケガで離脱。アルベル体制の1年目は、11位に終わった。

 この年の10月、所属していた外国籍選手の不祥事に伴い、改革の旗手だった是永氏と、ゼネラルマネージャーだった玉乃淳氏が責任を取る形でクラブを去ることになった。これを受けて、11月に中野幸夫氏が3度目の社長に就任。クラブのレジェンドでもある寺川能人氏が強化部スカウトから強化部長に就任した。2人の最初の仕事は、アルベル氏の監督続投を決めたことだった。

 現役時代は8シーズンに渡り、新潟のダイナモとして活躍した寺川氏は、就任にあたって今後の新潟の方向性を塾考した。

 「僕が選手だった頃のアルビレックス新潟は、汗をかいてハードワークして、頑張って頑張って上に上がってきたクラブ。そこは大事で外せないポイント。でも強化部に入っていろんなシーズンを見てきた中で、それだけでは戦っていけないとわかった。もう1つ上のスタイルを作りたい。アルベル監督のサッカーには、共感できる部分があった。しっかりハードワークしながらも主導権を握るこのサッカーを、アルビレックス新潟のサッカーにしていきたいと強く思った」

 古き良き新潟も、苦しい時期の新潟も知る寺川氏が出した答えは、堅守速攻への回帰ではなく、前に進む選択だった。この1年で、毎日ロンドを繰り返していた選手たちが、どんどんうまくなっていく様子を見てきたことにも可能性を見出していた。……

新アルビスタイルの真髄に迫る

Profile

野本 桂子

新潟生まれ新潟育ち。新潟の魅力を発信する仕事を志し、広告代理店の企画営業、地元情報誌の編集長などを経て、2011年からフリーランス編集者・ライターに。同年からアルビレックス新潟の取材を開始。16年から「エル・ゴラッソ」新潟担当記者、サポーターズマガジン「ラランジャ・アズール」編集を務める。