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「純血主義」ではなく「属地主義」――アスレティックのフィロソフィへの大いなる誤解

2021.01.07

【アスレティックの 「純血主義」は今――異端なる バスクサッカー をたずねて#1】

 まず最初に基本的で根本的な誤りから正しておかなければならない。アスレティックのフィロソフィを形容する際に使われてきた「純血主義」という言葉である。私も無批判、無自覚に使ってきたが、これは完全に誤りだ。

 「純血主義」と聞くと、“まるでバスク人という人種があって、その血統に混じりっ気ない者たちだけがアスレティックでプレーできる”というふうに響く。だが、何よりもバスク人というのは人種ではなく「民族」である。文化や言語を共有する人たちの集まりであって、生物学的な意味での人種や血とは関係がない。

血や人種ではなく「生まれ」と「育ち」

 スペインでバスク人という時には一般に“バスク生まれの人”を指す。アンダルシアからビルバオへ引っ越して来た人はバスク人という自覚はないだろうが、ビルバオで生まれ育った息子は、自分はバスク人だと思うかもしれない。さらに次の世代、彼の子供――バスク生まれの親の子――は完全にバスク人になってしまっているのではないか。「三代住めば江戸っ子」という言葉があるが、移住者の孫の代くらいには言語や生活様式、価値観も共有しているのが自然。つまり、「民族としてのバスク人」の要件は満たしていることになる。

 当然ながらアスレティックのフィロソフィには「血」や「人種」という言葉はまったく出てこない。代わりに「生まれた」、「育成された」という言葉が使われている。

 この生まれと育ちを重視するフィロソフィをアスレティックは「属地主義」と呼ぶ。戸籍上の出身地またはサッカー選手としての出身地(=育成地)が「エウスカル・エリア」(歴史的バスク)であれば、アスレティックでプレーする資格がある、としている。江戸っ子との比較で言えば、アスレティックでプレーするのにバスクに三代住む必要はなく、生まれただけで良い。否、生まれる必要すらなく、「育てば」(サッカー的に言えば「育成されれば」)十分なのだ。

 例えば、FWイニャキ・ウィリアムスの両親はガーナ人だが、本人はビルバオ生まれ。アスレティックが純血主義であれば、黒い肌の彼は幼い頃からの夢を実現できていない。もっとも、「僕は黒人だがバスク人だ」が口癖のウィリアムスがアスレティックでプレーすることに異議を唱える「黒人はバスク人ではない」という陰口もあるそうだ。そういう者たちが描くバスク人というのは肌の色が白い者たちであり、移民は入らないらしい。確かに南部アンダルシアから来ると北部バスクには金髪、碧眼の人の割合が多いような、体格も大柄な人が目に付くような印象はあるが、アスレティックは人種、純血を問題にしない。生まれと育ちを問題にする。彼らの下部組織には黒人が普通にいるし、いずれアジア人がトップチームでプレーする姿が見られるかもしれない。

トップチームデビュー7シーズン目を迎えたウィリアムス。若手有望株の頃から引き抜きの噂が絶えなかったが、19年にクラブと異例の9年契約を結びアスレティックへの忠誠を誓った

 だが、ここで問題なのは、育成地(トップチームを除くバスクのクラブ)と育成年代(10歳から21歳まで)について制限があるにもかかわらず、育成年数は無制限なこと。例えばUEFAが「地元育成選手」の条件として課している「3年間所属したこと」というような制限がない。これによって次のようなケースが起き得る。

 仮に、ソシエダBにガーナ生まれの19歳の“ウィリアムス2世”と呼ばれる若者がいたとする。彼は1年前にスペインにやって来たばかりでバスク語はおろかスペイン語もしゃべれず、バスク文化にも馴染みがない。そんな彼をアスレティックが引き抜いたらフィロソフィに反する、と誰でも思う。「属地主義」にはバスクへの愛着とか文化への共感が含まれている、と解釈するのが普通だからだ。人種は問わないがバスクの地に属しているという意識は問う。そこを問わないと、「バスクのクラブ」とか「バスク人のクラブ」とかという物言いは成立しなくなる。

 ところが、生まれと育ちだけを問うフィロソフィ上、この“ウィリアムス2世”獲得は合法なのだ。バスク人の意識がないバスク生まれ、またはバスク育ちの選手をどう扱うかは、常に物議を醸してきた。これについては具体例を挙げながら別稿で掘り下げていくことにする。

ボスマン判決後の「栄光ある孤立」

 さて、このアスレティックのフィロソフィにとって大きな転機となったのが1995年のボスマン判決である。……

Profile

木村 浩嗣

編集者を経て94年にスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟の監督ライセンスを取得し少年チームを指導。06年の創刊時から務めた『footballista』編集長を15年7月に辞し、フリーに。17年にユース指導を休止する一方、映画関連の執筆に進出。グアルディオラ、イエロ、リージョ、パコ・へメス、ブトラゲーニョ、メンディリバル、セティエン、アベラルド、マルセリーノ、モンチ、エウセビオら一家言ある人へインタビュー経験多数。