「広島を背負う男になる」。東俊希が自ら望んだ「7番」に込める、サンフレッチェへの愛と覚悟
サンフレッチェ情熱記 第37回
1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第37回は、国内外から届いた誘いを断り、広島残留を決断した東俊希。腰椎分離症、そして選手生命すら危ぶまれたコンパートメント症候群を乗り越えた彼は、なぜ「広島でプレーできるのは幸せ」と語るのか。2026年夏、自ら希望して背負うことになった「7番」。その背番号に込めた、広島への愛と覚悟に迫る。
「広島に残ります」。東俊希が残留を決断した理由
心のどこかで「東俊希は移籍しない」と信じ込んでいた。根拠などない。ただ何となく、東は広島でプレーしてくれると確信していた。
だから「東が移籍する可能性がある」と聞いた時は正直、驚いた。6月上旬、あるインターネットのサイトが「東があるJ1クラブへの移籍が決まった」というような主旨の記事をアップしたことで、広島サポーターからは悲鳴のようなコメントが相次いだ。
だから筆者はまず、栗原圭介強化本部長に確認した。6月16日のことだ。
「東俊希選手の移籍については、結論が出たのでしょうか」
栗原本部長は、笑顔で肯いた。
「はい。彼は(新シーズンも広島に)残ります」
ほっとした。
「実際、クラブに対する正式なオファーは、あったんでしょうか」
「それは、届いてないですね」
全くの事実無根ではなく、代理人レベルの折衝ではあるが、移籍話はあった。ただ、広島のレギュラーであり、百年構想リーグのアシスト王(7アシスト)にも輝いた東に対するオファーである。それなりの覚悟を持って、相手も申し入れたはずだ。
それでも彼は、広島残留を決断したという。
「どうしてなんでしょうね」
栗原本部長は笑った。
「それは、(東)シュンキに直接、聞いてください」
6月22日、筆者は東に直接、問いかけた。
「東選手の移籍が決まったという情報が、6月上旬に出ていたんですよ。栗原本部長は『シュンキは残留しますが、その理由は本人に聞いてください』と言っていました」
「そんなことを言われていたんですね」
笑いながら、東俊希は語り始めた。
「あるJ1のクラブから(代理人を通して)打診があったのは確かです。相手は(J1の中では)大きなクラブでしたが、(相手クラブが提示した)条件等について詳しくは聞いていません。
ただ、自分は結婚もしましたし、子どもも生まれたこともあって、なるべく広島でプレーしたいという気持ちがあったんです。その気持ちを(広島の)強化部に伝えた上で、広島の新しい契約を提示してほしいとお願いしたんですよ」
クラブの提示は「想像以上でした」と東は言う。
「クラブの自分に対する熱量をすごく感じましたし、いい話し合いができた。なので、(広島)残留はほぼ即決、という感じでしたね」
栗原本部長が「彼が広島に残留してくれた要因は、シュンキの広島への愛情だったのではないか」と言っていた言葉を思い出し、それを伝えた。
「はい。(サンフレッチェ広島への)愛着は、もちろんあります。ここまで自分が成長できたのも広島の環境があってこそ。自分に関わってくれたコーチやユース時代からの指導者、監督たちのおかげだと思っています。なので、国内移籍は、なるべくしたくないと思っていました。
広島には日本で一番の環境が整っています。新しいスタジアムも最高ですし、サポーターも素晴らしい。何と言えばいいのか、いいサポーターばかりで、高貴な感じがしています。だから新しい条件提示をもらった時、即決で広島残留を決めることができました」
東はSNS上での「移籍騒動」を知っていた。
「噂サイトは見ていたんですよね。どこの関係者なんだろうと思いながら、静かに(笑)。本当は何か言いたかったんですけど、それはさすがに(苦笑)」
「とりあえず海外」では行かない。ポーランド移籍を断った葛藤
SNS等で彼の移籍が騒がれたのは、これが初めてではない。2024年7月、ポーランド1部のヤギエロニア・ビャウィストクからオファーがあったとネット上で話題になった。
相手は2023-24シーズンにポーランド1部で初優勝を果たしたクラブであり、欧州チャンピオンズリーグ予選への出場も決定していた。つまり移籍が現実となれば、東は欧州トップレベルの戦いに参加できる可能性もあったのだ。ただこの話は「交渉は打ち切られた」と現地メディアが報じたこともあって、騒ぎはほどなく沈静化した。
この年の8月27日、彼に真偽を確かめた。
「あー、ポーランドの話ですか? 実際、(オファーは)ありましたよ。少し心は動いたんですけど、じっくりと考えた結果(ポーランドには)行かないと決断しました」
プロになった時から海外でのプレーを夢見ていた。デビューした頃は英会話教室にも通い、将来の海外移籍への準備もしっかりと行っていた。
「海外志向は今もあります。ただ、今年からエディオンピースウイング広島でプレーしていると、広島で(選手生活を)終わりたいなって気持ちにもなっているんです。
海外でプレーすると人間的な部分で成長もできるでしょうし、経験してみたいとも思う。そこは正直、葛藤があるんですね。いずれにしてもタイミング次第だし、ずっといいプレーができていれば、これからいいオファーが(海外から)来るかもわからない。
ただ、別に海外でプレーできなくても、広島でプレーできるのはすごく嬉しいし、幸せですからね。もちろん、イングランドやドイツでプレーしてみたいなって気持ちはありますが、とりあえず海外に行けばいいとは、思っていないです。今回の(ポーランドからの)オファーについても、『とりあえず海外』と思っていないから、(残留という)結論になった。広島は今、タイトルを争っているし、こっちの方が成長できると思っているので。
それに、今年から僕は個人チャントをつくってもらったじゃないですか。すごく嬉しいんですよね。やっと(広島のサポーターに)認めてもらえたって思えた。いいチャントだし、歌ってもらえるとこっちもリズムを刻んじゃうんです。新スタジアムが完成した年にチャントをつくってもらって、タイミングもいいですよね」
間違いなく、東俊希は広島を愛している。

「サッカーができなくなるかもしれない」。選手生命を脅かした大ケガ
出身は愛媛県大洲市。2016年、広島ユースに加入する時も、自分から「広島ユースのトレーニングに参加させてほしい」と中学時代のコーチに伝えている。
「実は小6の時から、広島のジュニアユースに入ろうかなと思っていたんだけど、もちろん家から通える距離じゃないから(苦笑)。広島はトップチームがJ1で優勝していたし、そういうチームのユースで成長したかった」
少年時代の希望が叶って、2016年に広島ユース加入を果たしたものの、1年時の6月、腰椎分離症を発症する。成長期の10代に多く見られる背骨の疲労骨折で、ジャンプや腰を反らす・ひねる動作の繰り返しが原因で腰骨の一部にヒビや割れが生じてしまうやっかいなケガだ。治療法は安静が基本であり、激しい運動厳禁の状況に陥った東は1年時だけでなく2年時にも発症してしまい、絶望の淵に追い詰められていた。
「サッカーはもう、できなくなってしまうのでは」
愛媛からやってきたサッカー少年は、そんな恐怖と闘い続けた。
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Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。
