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栗原圭介×トルガイ・アルスラン。広島の移籍戦略を支える「国際部」の舞台裏

2026.07.30

サンフレッチェ情熱記 第36回

1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第36回は、セバスティアン・アレー獲得の舞台裏を入り口に、サンフレッチェ広島が新設した「国際部」の全貌に迫る。トルガイ・アルスランが築く欧州とのネットワーク、選手を送り出し、呼び戻す“人材の環流”という新たな強化戦略――。アレー獲得、中村草太の海外移籍、川村拓夢の復帰は、すべて一本の線で結ばれていた。

アレーが日本を選んだ理由。「敬意」と「価値観」が動かした決断

 それは圧倒的という言葉ですら、陳腐に聞こえる光景だった。7月28日、宮崎・シーガイア。サンフレッチェ広島対ヴェルスパ大分戦(トレーニングマッチ)での出来事だ。

 中島洋太朗が魅せた「蝶のように舞い、蜂のように刺す」先制ゴールが決まったのは59分のこと。美しさを堪能しようとする想いの余韻が漂う中、登場したのはセバスティアン・アレーだった。

 61分、塩谷司の速くて鋭いクサビを難なく収めた。

 「あそこまでがっちりCBに抑え込まれていたのに、あの状態から前を向いてプレーするのは難しい。セブ(セバスティアン・アレー)は格の違いを見せてくれました。あれだけ収めてくれると僕たちもすごくやりやすいし、ボールをつけやすい」(塩谷)

 アレーは左にいた鈴木章斗にパスをつなげると、休むことなくペナルティエリアに侵入。鈴木のパスを受けて運ぶ様は、まるでダンスのステップを踏んでいるかのごとし。7月25日に行われたJ1チームとのトレーニングマッチ(完全非公開)で15分のプレーを果たした3日後、セバスティアン・アレーはPKで来日初得点を決めた。

セバスティアン・アレー

 フランクフルト、ウェストハム、アヤックス、ドルトムントなど、錚々たるクラブでのプレー経験を持ち、21-22シーズンの欧州チャンピオンズリーグ(CL)では7試合連続ゴール、8試合11得点という驚異的な記録を打ち立てた。CL初出場選手としてはマルコ・ファンバステン以来史上2人目となるハットトリックを達成(スポルティング戦)し、グループステージ全試合得点はクリスティアーノ・ロナウド以来2人目という偉大な記録を打ち立てたほどのストライカーだ。

 2022年7月、ドルトムントに移籍したばかりの時期に精巣ガンを発症し、2度の手術と抗がん剤治療を行わなければならなくなったという不運。約半年後、奇跡的な復帰を果たしたものの抗がん剤の影響が酷く、自分のイメージと肉体がリンクしない苦境に陥った。2024年1月から行われたアフリカネーションズカップで準決勝・決勝と連続ゴールを決めてコートジボワールを優勝に導いたにもかかわらず、2026年W杯に出場することができない悔しさも味わった。

 「本来であれば、Jリーグではなく欧州で活躍できる選手」と広島の栗原圭介強化部長は言う。2025年に移籍したユトレヒトとの契約が今年の夏で満了した彼に対しては、広島以外からもオファーが舞い込んでいた。しかし、彼は欧州ではなく、日本を選択。その理由を彼は、こう説明している。

 「病気の影響からようやく抜け出せたのか、ユトレヒトでの最後の8週間、自分の状態がどんどん良くなってきたと感じていました。その手応えをピッチで示したかったですし、本格的なサッカーのプロジェクトに関わりたいという意欲も湧いていたんです。そのタイミングで、広島からのオファーが舞い込んだ。僕は昔から日本が大好き。日本で新しい冒険をする可能性も、十分に考えられるものでした。

 広島との話し合いでは、交渉の最初から最後まで、いわゆる日本らしさを強く感じましたね。日本人の持つ“他者への敬意”が現れていたというか……。本当にフェアでしたし、交渉はとてもスムーズでした。誰も駆け引きをしようとしませんでしたし、何かを偽ろうとする人もいない。何と言えばいいのかわかりませんが、クラブの雰囲気や人々から感じるすべてのものに、良いフィーリングを感じました。クラブが持つ価値観が、僕たち家族のビジョンや価値観と合っていると思ったんです。

 広島との交渉で感じた誠実さや敬意は、僕の人生においてとても必要なものだったのかもしれません。大きな冒険の一歩を踏み出すには、完璧なタイミングだったと思います」

セバスティアン・アレーと栗原圭介強化部長(写真2枚目)

トルガイ・アルスランが築いた欧州への架け橋

 彼と広島との橋渡しをしたのは、誰か。トルガイ・アルスラン。百年構想リーグまで広島でプレーして引退した名手だ。

 ハンブルク、ベシクタシュ​​、フェネルバフチェ​​、そしてウディネーゼと欧州の第一線で活躍。ベシクタシュ時代に出場したヨーロッパリーグではノックアウトステージでリバプールを撃破する重要なゴールを決めたマエストロだ。その幅広い人脈と人間性もあって、彼は多くのサッカー人から信頼を集めていた。実際、引退を決めた後にはウディネーゼから「戻ってきてほしい」とオファーを受けていたという。

 しかし彼は引退後、広島に残ってクラブに貢献したいという意向をもっていた。

 「広島に在籍した2年半、私は良い時も悪い時も過ごしました。特に2025年、左膝前十字靱帯断裂という大きなケガをしてしまったんですけど、そういう苦しい時こそ大切な人々が自分の周りにいてくれると(広島で)実感しましたね。多くの方が私に愛を与えてくれたことが、強く心に残っていたんです。

 広島に来たことへの後悔はまったくない。逆に、もっと早くこのクラブに出会えていれば、もっと早くここに来られればよかったなという思いもあります。本当に素晴らしいチームと友人、多くの信頼できる人がいるこの街。今までいろんな国でプレーしてきましたけれども、(広島は)自分にとって本当に特別なクラブです。

 今回の引退にあたっては、クラブとオープンに何回も話をさせていただいた。自分としては広島でまだ何も成し遂げていないので、何か違う役割でもいいから広島に残りたいという気持ちを、正直に打ち明けました。​​自分が持っている経験やコネクションを通じて、サンフレッチェ広島に貢献できたらいいという思いでしたね」

トルガイ・アルスラン

 トルガイの想いを受け、クラブは「トルガイに欧州と広島との架け橋となってほしい」という狙いを込めて国際部を新設した。

 そのベースにあるのは、今の日本サッカー界の現実に対する危機感である。

 野々村芳和チェアマンは2025年9月14日に公開されたWeb 『Sportiva』のインタビューで、こんなことを語っている。その一部を引用しよう。​​

 「世界のサッカー市場では、1シーズンでおよそ1兆2000億円のお金が選手の移籍に投じられています。ヨーロッパの5大リーグに次ぐリーグ、オランダやポルトガルは200億円から300億円くらいを稼いでいる。それに対してJリーグは、まだまだかなり少ない。

 自分たちが育てた選手が、その価値に見合った金額で移籍して、クラブに移籍金が入る。そのお金がアカデミーに投資されて、次代の選手が育つ。そのなかからまた、国内のクラブにステップアップする、海外のクラブへ移籍する選手が出てくる──。そうしたサイクルを作り出すことがクラブの持続可能性につながっていく、と考えます。

 Jリーグのクラブには、若い選手が育つ環境も、仕組みもある。だとすれば、どうやって選手を移籍させるかというところで、もっともっと腕をふるうべきでしょう」

……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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