オフトからミシャ、スキッベにガウルまで。広島が紡いできた外国人監督の挑戦史
サンフレッチェ情熱記 第31回
1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第30回は、古くはハンス・オフトから先日発表されたバルトシュ・ガウルまで、歴史的にも多種多様な外国人監督を招聘してきた広島の挑戦史を紐解きたい。
オフト招聘の立役者・今西和男の想い
サンフレッチェ広島というクラブは、日本では無名の監督を発掘し、彼らに「いい仕事」をさせるという「伝統」がある。
例えば、ハンス・オフトだ。
彼の場合は、先にヤマハ発動機(現磐田)の臨時コーチとして2カ月ほど指導をしているので、「日本では無名」とまでは言えない。しかし、その彼の手腕を見抜いて監督就任をオファーしたのは、当時マツダSCの再建を託されていた今西和男だ。ヤマハの臨時コーチ時代が1982年であり、マツダのコーチ就任が1984年。その間、オフトはアメリカでサッカー指導者に対するクリニックを開業していた。つまり、他のクラブが彼にオファーすることは、十分に可能だったわけだ。
オフトは1984年春、マツダSCのヘッドコーチに就任。かつて日本リーグ4連覇を達成した東洋工業サッカー部の流れを汲むマツダではあったが当時は日本リーグ2部に所属していた。再建のために荒療治が必要なのは、誰の目にも明らかだった。だが、かつては日本代表がズラリと揃っていた名門も、当時はこれといった質を持つ選手が不在。戦力は厳しい。
今西はオフトにサッカー面の指揮を全面的に任せ、事実上の監督として仕事を託した。名目上の監督だった自身はチーム全体のマネジメントと方向性を決定し、クラブ(当時は親会社であるマツダ)との折衝を行う実質的なゼネラルマネジャーの仕事を行うことに。現在のJクラブでは当たり前の体制が、1984年に広島の地ででき上がっていた。
その理由は何なのか。2015年10月10日に『webSPORTIVA』で配信された「【育将・今西和男】のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男」から引用しよう。
「今西は副部長という肩書で13年ぶりにサッカー部に戻って来た。しかし、1983年、マツダはついに日本リーグの2部に降格してしまう。
『新日鉄も2部に落ちて、勢力図が変わってきたんですね。ホンダが宮本征勝さんを監督にして、ちょうど強くなってきた頃です。ブラジル人選手を何人か入れてね。選手のレベルを比較して、これはヤバイと思い、最初は他のチームの分析をやったわけです。どうして日産が強くなったのか。これからは、もう会社もサッカーを中心に仕事をする選手を認めてもいいんじゃないかと思って進言したんですが、最初は『マツダは文武両道で行くんだ』と聞き入れてもらえなかったですね』(今西)
こうなったら、今西、お前が監督をやれ、43歳でいきなり監督をやれと言われて戸惑った。それでも自分がサッカーで、この会社に入れてもらったことを考えると、言下に断るわけにはいかない。恩返しのつもりで奉職しようと腹を括った。
『分かりました。しかし、自分が今から現場を指導するのは無理です。このチームを救えるのは、外国人指導者ですよ。それも選手の技術の高い南米型ではなくて、ヨーロッパの人材です』」(引用ここまで)
オフトは今西の期待に応えた。選手たちに対してサッカーに取り組む意識を改革させ、基礎技術の習得と戦術的意識を植えつけた。着実にチーム強化に成功した彼は1985年、1部復帰に成功。1987年には天皇杯準優勝も成し遂げた。
多種多様なチャレンジ期。フォルケス、ヤンセン、トムソン、ニポムニシ…
今西は1988年、2部降格の責任を取った形で退任したオフトの後任にビル・フォルケスを起用。彼はマンチェスター・ユナイテッドで公式戦通算688試合に出場した名DFで、1958年に起きたミュンヘンの悲劇(ミュンヘンのリーム空港で起きたマンチェスター・ユナイテッドのチャーター機事故で、乗員乗客44名のうち23名が死亡した)を経験した選手の1人。奇跡的に生還したフォルケスは、ボビー・チャールトンらとともに1968年、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制した。そんなユナイテッドの伝説的存在だった彼との関係性によって、森保一や高木琢也らのマンチェスター・ユナイテッド短期留学が可能になった。
フォルケスは間違いなく、イングランド史に残る名選手の1人。とても頑固で、好んだ戦術はキック&ラッシュ。モダンサッカーの指導者とは言えなかったかもしれないが、それでも1991年にはマツダを1部昇格に導き、それを置き土産として広島を去った。そして1992年、今西は39歳の若き指導者=スチュアート・バクスターと契約する。
そのきっかけは1991年、Jリーグ参加が正式に決まったマツダSCの欧州遠征での出来事だ。バクスターの自伝『勝つための組織力』(講談社)では、その時の事情についてこう書いてある。
「ハルムスタード(註・スウェーデン)の監督として3年目を迎えていたある日、ヨーロッパに合宿に来ていたマツダ(現サンフレッチェ広島)に試合を申し込んできた。最初はシーズン中ということもあり、断っていたのだが、彼らの熱心な申し込みに結局は引き受けることにした。
トップチームは日曜日に試合が入っていたので、リザーブチームが土曜日に相手をすると告げると、彼らは不満なようだったが、トップチームだとあまりに力の差が歴然としていたので、かえってその方がよいのではないかと思ったのである。案の定、ハルムスタードのリザーブチームはマツダに完勝した。
その翌日、マツダの今西氏が私のところにやってきて、いつまでスウェーデンにいるのかと尋ねた。私は先のことは決まっていなかったので、わからないとしか答えられなかった。 (中略)それから1年半後の1992年、今西氏が欧州在住の代理人を通して再び電話で連絡してきた」(引用ここまで)
ハルムスタードで彼は若い選手たちを代表に送り出し、一方で成績も悪くなかった。ドイツからの監督オファーも届くなど、監督として評価され始めていた頃。だが、自身が11歳の頃から空手を学んでいて日本文化に興味があったこともあり、彼は広島との契約に合意した。39歳での監督就任は、バルトシュ・ガウルの38歳に次ぐサンフレッチェ広島史上2番目の若さである。
今西氏(サンフレッチェ広島設立以降は総監督)が着目したのは、ハルムスタードでのチームビルディングと戦術構築能力の高さ。その手腕をトレーニングマッチでの対戦経験から可能性を見出した眼力はさすがである。もちろん、彼に対しての調査も行っていたはずだが、そのきっかけは紛れもなく、今西総監督の鋭い感覚にあった。
1994年、ステージ優勝を果たしたバクスター監督と広島は、契約を更新しなかった。選手補強についての意見の相違が影響したとも言われているが、真相は定かではない。ただ、セカンドステージでの戦いぶりの停滞感を見ると、監督交代の潮時だったのかもしれない。
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Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。
