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フランス代表と移民選手の歴史。INFの真実はフィジカルへの傾倒

2018.07.25

フローラン・ダバディ氏に聞く、移民選手のアイデンティティ 前編


メスト・エジルのドイツ代表引退騒動に象徴されるように、サッカー界と移民選手の向き合い方がクローズアップされている。ロシアW杯を制したフランス代表も移民問題を抱えながら歩み続けてきたチームだ。しかも近年、フランスに生まれたアフリカ系のトップ選手が祖国の代表チームを選ぶケースも出てきている。ジャーナリストのフローラン・ダバディ氏にフランスの移民社会について話を聞いた。


膨らむ移民とフランス社会の軋轢


── ダバディさん自身は、ルーツを持つ祖国を選択するフランス出身選手が増えているという傾向は実際に感じますか?

「もちろんケースバイケースですが、アフリカルーツの選手が祖国を選択するというケースは、実際に増えているとは思います。単純にキャリアを優先してということももちろんあるはずです。かといって、それだけに収まらない背景もあるのではないでしょうか。それを深く考える上で大切なのは、やはりフランス国内の移民問題をはじめとした社会的情勢と、代表選考・育成の背景です」


── 移民・人種問題というのは現代、特に欧米において大きなソーシャルイシューですが、フランスにおいてはこれまでどのような位置付けにあったのでしょうか?

「これまで間違った都市計画や移民政策もありましたが、フランスは良くも悪くも昔から外国人の帰化や移民に関してはある程度寛大です。アメリカや南米、北米みたいな血と涙の歴史が、移民に関しては比較的ない。近代スポーツに関してもそうで、例えばアメリカであった、黒人が『ニグロリーグ』でしかプレーできない環境の中でメジャーリーグで活躍したジャッキー・ロビンソンのようなヒーローがいて、といったスポーツにおける人種差別的な歴史はフランスにはあまりないと思うんですね。ごく自然に多民族社会にスポーツが浸透した。どちらかというと、1789年のフランス革命の時から受け継がれる、階級社会においての血と涙の歴史がありますから」

アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン


── 人種うんぬんではないんですね。

「そうです。アフリカの労働者がフランスに移住すると、必然的に貧しい労働階級になりますが、そこには人種的な差別意識よりも、どちらかというと階級的な差別意識の方が先にあった。だから、フランスでは炭鉱や工場に行っても、同じ労働者であれば、黒人でも白人でも移民系でもみんな同じ扱いになるし、そこに同階級コミュニティでの団結や絆も生まれます。19世紀の戦争時にも、フランス軍には黒人の兵士がいたくらいです。逆に21世紀に近づくほどに移民が凄く問題になっていきます。フランスの移民政策は、大まかに言うと戦後の高度成長期を迎えた『栄光の30年』と言われた時代に、アルジェリア、モロッコなどのマグレブ諸国(北西アフリカ)から労働力として移民を受け入れ出したのが始まりです。しかし1973年のオイルショックが契機で労働移民が制限され、出稼ぎ型から家族呼び寄せ型・定住型の移民が大きな割合を占めるようになりました。その中で、80年代初め頃からフランス社会と、そこに同化できないアラブ系の移民たちを中心に摩擦が生じ始めた。ある意味、親世代よりも2世、3世がどんどん孤立していったんです」


── 98年、フランスがW杯優勝を遂げた時に「移民との融合」が声高に叫ばれたのも、そういった時代背景が無関係ではない気がします。当時の代表選手のテュラムが「この勝利はフランスサッカーだけの勝利ではなく、フランスの人種的多様性の勝利でもある」と叫んだことは有名です。

「80年代頃から顕在化し始めた移民コミュニティの不満や反発から生じる運動や、世間に多文化的な社会を求める世論も国内にあり、W杯優勝はその流れを後押しする形になったと思います。また一方で、『多様なフランス社会』という理想を体現した象徴として、政治が98年W杯の優勝を利用したという側面もあります。労働者(=移民)の支持が必要なミッテラン大統領(81年当選)は、人種にオープンであるとアピールしたかったのですが、あまりうまくいかなかった。その間に溜まった不満を、95年に大統領となったシラクがうまく突いたわけです。移民に関しては国内でたびたび大きな議論にはなってきましたが、2005年のフランス暴動やその後のシリア難民受け入れ、パリ同時多発テロ事件などもあり、近年が最も移民問題に関する論争が激しくなっているという背景が、まずフランスの現代社会にはあります。移民としてのルーツを持つフランス人も、アイデンティティを自ら問う社会的状況下にはあると思います」

第22代フランス大統領ジャック・シラク


「2010年の悪夢」で再考、代表選考側の論理


── そういった社会的背景がある中で、サッカー的な側面としては、98年のW杯自国開催優勝は間違いなくエポックメイキングな出来事だったと思います。アルジェリア系のジダンやガーナ系のデサイーなど、移民系選手の活躍がクローズアップされました。

「メディアはやはり98年のW杯優勝が大きなターニングポイントだとしていますよね。ですが、実際にはそこまで明確なきっかけではないんです。78年のアルゼンチン大会からの代表チームにもマリ出身のジャン・ティガナなどのアフリカ系選手が多くいたし、プラティニ(イタリア系移民)やルイス・フェルナンデス(スペイン系移民)もいた。もっとさかのぼれば、58年のW杯で得点王になったモロッコ出身のジュスト・フォンテーヌもいる。もともとフランスは多民族国家で多民族チームではあります。98年のフランス代表を振り返れば、特にプラティニのチーム以上に多民族かというと、必ずしもそうではない。プラティニからジダンにヒーローは変わりましたが、プラティニもイタリア系移民ですから、アルジェリア系移民のジダンとの違いはほぼないと思います」


── 今も昔もフランスには変わらず移民がいて、フランスサッカーへの影響という意味ではジダンの時代に限ったことではないと。では、フランス人選手の代表選択肢の変化についてはどう感じますか?

「変化の背景を考える時に、先ほどのフランス国内の社会的な情勢とともにもう1つ考えたい大切なポイントが、フランスの代表選手選考や強化方針、育成にある背景です。フランスがプラティニの時代に、特にヨーロッパ3大強国の西ドイツ、イタリア、イングランドに勝てなかったことを受けて、クレールフォンテーヌ(国立サッカー養成所/通称INF)を作った。当時フランスの選手は西ドイツの選手に比べて、技術も高くコレクティブでした。それでも勝てなかった主な理由は、今の日本と同じです。『デュエル』、つまり1対1の局面でどうしても勝てなかった。その後西ドイツのドーピング問題が発覚したにせよ、当時はそれを知るよしもないので、クレールフォンテーヌを作った時に、身体能力のあるアフリカ系移民選手がピックアップされるようになっていきました。特に当時まだ有名ではありませんでしたがリスペクトされていたベンゲル監督、エメ・ジャケ監督などは、足の速さ=スピードを重視した。相手のフィジカルが強くても、スピードがあれば勝てると。そこからモナコのような育成システムからアンリが生まれ、パリSGからアネルカが生まれた。時を同じくして、当時のフランス社会の中に移民人口が増えてきていたので、分母として抜擢できる選手が増えていたという側面ももちろんあると思います。

 それを考えると、フランスサッカーのターニングポイントは98年W杯ではなく、どちらかというと93年のマルセイユのチャンピオンズリーグ優勝ではないかと思います。当時の大黒柱だったバジール・ボリ、デサイー、デシャン、ボクシッチ、アングロマなどがいて本当にフィジカルが強いチームだった。それまでクラブシーンでもイタリアやドイツに勝てていなかったこともあり、フランスのサッカーファンは93年のマルセイユを見て、これが現代サッカーに通じるチームだと認識しました。あの時がフランスサッカーが一番変わった瞬間で、98年は93年の延長線上の出来事に過ぎないのではないでしょうか」

93年のマルセイユCL優勝メンバーであり、98年のフランスW杯優勝の立役者でもあるデシャンとデサイー


── それでは、その後に迎えた2010年の南アフリカW杯の空中分解はフランス国内ではどう解釈されているのですか?

「以前そのことについて、クレールフォンテーヌの責任者にインタビューをしたんですが、彼が言っていたのは、『人種に関係なくフィジカルの強い選手を重視した一方、人間性をまったく重視しなかった』と。グリーズマンがフランスのクラブに見向きもされなかった理由がそれです。彼みたいなテクニシャンが無視されて、ビエラ、マケレレ、デサイーのようなサイボーグが生み出された。2002年日韓W杯はアジアの環境に対応できなかったことがありますが、2004年のEURO時点ですでに怪しかった。しかし、2006年のW杯までは育成システムがまだなんとかうまく回っていた。98年で身につけた自信と、その結果生まれた熱狂にも後押しされていた。だからほころび始めていた欠陥を誰も自覚していなくて、EURO2008と2010年のW杯は最悪の結果となった。さらに日本の長谷部選手みたいな賢い選手を代表で起用しなかったから、当時のチームを救える選手もいなかった。今振り返ればあそこもまたターニングポイントでしたね。

 2010年W杯での悪名高きスト事件をはじめとする2000年代後半の失敗を受けて、2000年から2010年を失われた10年だと公表し反省して、南アフリカ後のローラン・ブラン監督と、現監督のデシャンがまずメンタリティを変えるというところから、今のフランス代表を作っているわけです。そこで生まれた代表チームに選ぶ側の論理として、『フランス代表にプライドを持たない選手を選ばない』という暗黙の基準です。

 2009年、FIFAの代表選択に関するルール変更で、年齢に関係なく帰化できることになりましたよね。そのルール変更がなされた途端に、選択できる国からのアプローチも激しくなったし、『どちらの代表を選んだ方が市場価値が上がるか』と考え出す選手、代理人も出てきた。しかし、そういった『自分本位な選手を選ぶ必要があるのか?』という問いがフランス代表選考の基準に少なからずあるわけです。フランス代表にアイデンティティを感じているのか。(アルジェリア代表から招集を受けながらフランスを選んだ)ナビル・フェキルのような一部の例外的な逸材はいるかもしれませんが」


── 確かにナポリのクリバリはセネガルを選びましたが、デシャンは呼びたかったと言っていましたね。スペイン国籍取得に動いていたリュカ・エルナンデスもフランス代表でデビューさせています。

「クリバリに関しては『レキップ』の記者から聞くとデシャンのブラフだという話はあるんですが、デシャンは93年チャンピオンズリーグ優勝時のマルセイユのキャプテンですし、当時のスピリットを体現していた選手だったので、今もフィジカルを重視する傾向があります。だから今はあらためて、フィジカルの強い二重国籍の選手にアプローチしている感がありますね」

Florent DABADIE
フローラン・ダバディ

1974.11.1(43歳)FRANCE

フランス・パリ出身。父はフランス映画界の名脚本家ジャン・ルー・ダバディ。7カ国語を操るマルチリンガルで、映画雑誌『プレミア』日本語版の編集者として来日後、98~02年に日本代表監督フィリップ・トルシエの通訳を務めた。その後も日本を拠点に、スポーツキャスターとしてサッカー、テニス、自転車ロードレースを担当するなど活躍の場を広げている。


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Photos: Getty Images
Cooperation: Herve Penot

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FIFAワールドカップフランス文化移民

Profile

和田 拓也

バンドマンやらシステムエンジニアやら世界1周を経て、NYのデジタルマガジン、HEAPS編集部でインターンシップとして勤務し、企画から取材、執筆を担当する。その後、DEAR Magazineを立ち上げる。カレーと揚げ物が3度の飯より好き。