SPECIAL

知られざる北中南米戦術トレンド②「メディア・ルーナ」

2018.01.17

意外?アルゼンチンは守備戦術の宝庫


今では世界中でスタンダードとして定着している4バックのゾーンディフェンスの発祥の地はブラジルという説がある。1930~50年代のサッカーはイングランドの名将ハーバート・チャップマンが発明したマンツーマンディフェンスを基本にしたWMシステムが支配していた。そこに一石を投じたのが、ペレを擁した50年代ブラジルの[4-2-4]システムだった。

グアルディオラがメキシコサッカーやビエルサの発想を取り入れたように、戦術のブレイクスルーは異文化との化学反応から生まれてきた。サッカー強国がひしめくアメリカ大陸には、まだ見ぬ“進化への種”が眠っている。

Media Luna
from ARGENTINA


 都並敏史さんはアルゼンチン通だ。選手時代はブラジルの選手や監督との付き合いばかりだったのだが、指導者の勉強のために興味を持ったのはアルゼンチンの方だった。アビスパ福岡でプレーしていた時の監督がカルロス・パチャメだったのがきっかけだそうだ。「アルゼンチンの指導者は言葉がある」と思った。

 印象に残った用語として都並さんは「メディア・ルーナ」を挙げた。

 「メディア・ルーナは三日月の意味ですが、アルゼンチンでは子供でも知っている用語でした」

 守備の時の陣形が三日月のようになるところから付けられた用語である。基本はボールに近い選手の斜め後ろにポジションを取るダイアゴナルラインなのだが、特徴的なのがボールと逆サイドのDFのポジションが跳ね上がっているところ。例えば、右サイドから攻められているなら、通常のダイアゴナルラインなら左SBのポジションは隣のCBの斜め後ろか、少なくともCBと同じ高さになる。ところが、メディア・ルーナはその名の通り左SBの位置がCBより少し高くなるのだ。

 まず、左SBのところまでクロスボールが来るとしても距離が長いので時間がある。その間にゴール方向へ戻れば間に合うという理由が1つ。もう1つ、メインの理由はCBがクリアしたボールを拾いやすいからだそうだ。クロスボールが送られてきた時の体の向き、バックステップの踏み方など、けっこう細かい作法があるという。現在のトップレベルはフラットラインが主流だと思うが、守備の基本として浸透しているのがメディア・ルーナだそうだ。

「創造」と「破壊」の二面性

 アルゼンチンには守備の文化がある。

 ウルグアイと並んでアルゼンチンは古くから南米の強豪国だった。1930年に始まった第1回W杯では開催国ウルグアイとアルゼンチンのファイナル(ウルグアイが優勝)。イタリアが優勝した第2回大会では、第1回大会の決勝に出場していたアルゼンチン代表選手数人がイタリア代表としてプレーして優勝している。中心選手のルイス・モンティは情け容赦ないタックルで知られたセンターハーフだった。

 ブラジルが「砂浜のサッカー」と言われる一方、アルゼンチンは「牧草のサッカー」としてよく対比される。ビーチのブラジルは浮き球の扱いに優れ、牧草でボールが止まってしまうアルゼンチンは競り合いに強い。確かにアルゼンチンの芝生は深く、ドリブルしていても止まってしまいそうだ。モンティに代表される頑健な選手が多かったようだ。20~30年代のサッカーはフィールドも現在のように整備されていないし、皮製のボールはずっと重かった。世界にサッカーを普及させたのは英国人たちで、彼らのフィジカルなスタイルがスタンダードだったはずだ。この時代の強国はイングランド、スコットランドの他には、バスク人を中心としたスペインのように、泥沼化したピッチでも順応できる強靱な足腰を持ったチームが有利だった。牧草のアルゼンチンもその仲間だったに違いない。

 40年代には「ラ・マキナ」と呼ばれた強力なアタックラインを擁するリーベルプレートの全盛期があった。リーベルのメンバーはそのままアルゼンチン代表で、コパ・アメリカを3連覇している。もし戦争でW杯が中断していなかったら1942年と46年の優勝候補はアルゼンチンだったはずだ。ただ、偉大なリーベルの全盛期にもボカ・ジュニオールは43、44年とリーグ戦を連覇している。リーベルほど豪華な攻撃陣はなくても、リーベルを抑える守備力があった。ボカの主力選手はこう言っている。

 「確かにリーベルは観客として見る分には最高のチームだった」

 裏を返せば、最高にスペクタクルなチームにも勝ちようはあるということだろう。アルゼンチンのサッカーには美しさがあるけれども、美しくなくても勝つというところに本性が隠れているのかもしれない。

 創造と破壊の両面を持ったアルゼンチンの破壊の方が表立ってきたのが60年代である。アルゼンチンのクラブがほぼ毎年のようにリベルタドーレス杯に優勝していて、インターコンチネンタルカップで欧州王者と対戦していた時期だ。欧州勢はアルゼンチン勢のラフプレーに悩まされた。67年のセルティック対ラシンは6人が退場となる大荒れの試合となり、68年のマンチェスター・ユナイテッドを迎えたエストゥディアンテスは敵意むき出しのあからさまなファウルを繰り返したという。69年のミラン戦でのエストゥディアンテスは、倒れて治療中のミラン選手を蹴りつけるなど目に余る狼藉ぶり。怒ったアルゼンチン大統領がエストゥディアンテスの2選手を刑務所に放り込んだほどだった。やがて欧州勢が大会参加意欲を失い、開催中止になることも。この大会が日本でトヨタカップとして復活することになる伏線である。

 ある意味、悪名高いエストゥディアンテスを率いていたオスバルド・スベルディア監督はアルゼンチンの名将の1人だ。当時としては画期的なオフサイドトラップの導入、戦術的ファウルの容認によって知られている。エストゥディアンテスはタフなアルゼンチンサッカーの象徴であり、カルロス・ビラルド、ディエゴ・シメオネが歴代監督に名を連ねているのは何となく納得である。

インデペンディエンテの[3-1-3-3]

 アルゼンチンは多くの名監督を生み出していて、ヨーロッパでも成功している。この点はブラジルとは対照的だ。74年のチャンピオンズカップでアトレティコ・マドリーを初めて決勝に導いたファン・カルロス・ロレンソ、レアル・マドリー黄金時代(50年代)を率いたルイス・カルニグリア、60年代のグランデ・インテルを築いたエレニオ・エレーラはコスモポリタンだがいちおうアルゼンチン国籍も持っている。最近ではホセ・ペケルマン、ホルヘ・サンパオリ、マウリシオ・ポチェッティーノ、ディエゴ・シメオネ……。アルゼンチンではメノッティ派、ビラルド派がよく議論になったが、監督として成功しているのはビラルド派が多い。あるいはビエルサ派と言った方がいいかもしれないが。エクトル・クーペルは堅守速攻の典型的な監督だった。言葉を持っていること、守備を組織できること、この2点がヨーロッパでも成功できる要因だと思う。

ビエルサのマンツーマンディフェンスはアルゼンチンの伝統が下地になっている。彼に限らず、この国の監督はマニアックに独自のやり方を研究する気質がある

 ディエゴ・マラドーナやリオネル・メッシのような選手だけではなく、むしろディエゴ・シメオネやハビエル・マスチェラーノのような強靱なフィジカルと狡猾さで際立つ選手こそがアルゼンチンを代表するタイプなのかもしれない。モンティの時代から受け継がれてきた系譜だ。デュエルに強いアルゼンチンはマンツーマンのディフェンスが伝統だった。名将の1人であるマルセロ・ビエルサ監督の守備戦術は現在でもマンツーマンがベースだ。人をつかんでいく方式なので、86年W杯に優勝したアルゼンチン代表のように、マラドーナ、バルダーノ、ブルチャガの3人以外は全部守備要員というイタリア真っ青の構成になることもある。90年代に来日したインデペンディエンテは[3-1-3-3]の特殊なフォーメーションだったと記憶している。「1」のフォアリベロがDFラインに入ったり中盤に上がったりするのだが、それも人をつかまえて1人余らせるという原則があったからだろう。

 いずれにしても基本的にはまず守備ありき。その結果として、少し変わったフォーメーションやビエルサ式の特異な流派も形成され、優れた対応力はどの時代でもしぶとく生き残れる源泉となっているのではないか。


Photos: Getty Images

TAG

アルゼンチンメディア・ルーナ戦術

Profile

西部 謙司

1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。