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ヴァンフォーレ甲府の生き証人。鷹野智裕が辿った数奇な運命と幸福な24年間

2022.05.09

蹴人列伝 FILE.3 鷹野智裕(ヴァンフォーレ甲府広報部長)

サッカーの世界では、あるいは世間的に見れば“変わった人”たちがたくさん働いている。ただ、そういう人たちがこの国のサッカーを支えているということも、彼らと20年近く時間をともにしてきたことで、より強く実感している。本連載では、自分が様々なことを学ばせてもらってきた“変わった人”たちが、どういう気概と情熱を持ってこの世界で生きてきたかをご紹介することで、日本サッカー界の奥深さの一端を覗いていだだければ幸いだ。

第3回はヴァンフォーレ甲府の広報部長を務める鷹野智裕氏。J2開幕の1999年、ひょんなことから地元のJリーグクラブへと入社した“元サポーター”は、どういう想いを抱えて20年近い時間をヴァンフォーレとともに歩んできたのか。激動の半生を語っていただいた。

広報部長であり、“後方”部長という立ち位置


――鷹野さんの今の役職を教えてください。

 「一応役職だけで言うと“後方”部長です。“前方”は小野(博信広報)がやってくれているので、後方の広報部長です(笑)」


――ありがとうございます(笑)。役割としてはどういうことをやられているのですか?

 「現場は小野が頑張ってくれているので、会社で発行物に関わることが多いです。山梨日日新聞で毎試合のホームゲーム前日に15段、当日に5段の試合告知広告を作っていたり、マッチデープログラムをとりまとめたり、プレスリリースの発行、ホームページの管理とか、イレギュラーなところで言うと、アカデミーの選手の顔写真を撮りに行ったり(笑)。昨日もずっと撮影していたんですけど、それをやっていると小学校4年生から入ってきている子の成長がわかるんですよね。中学生の後半からぐっと大きくなってきたりして、『あの10歳だった子がこんなに大きくなって!』というようなこともあって、メチャメチャ面白いですね。基本的にはほとんど会社で座りっぱなしです」


――発行物と言っても相当な数がありますよね?

 「他のクラブに比べて多いのは新聞ですね。社団法人の広告もありますし、会員募集もありますし、まずはだいたい2カ月前に『この日とこの日に広告を出したい』と申請をして、それに向けて作って、出してという感じで、地味ですが気の抜けない作業です(笑)。だから、現場も全然行けなくて……。時には多少時間が空く時に『行ってみたいなあ』と思いますけど、そこで『何しに来たの?』みたいになるのも悪いですし(笑)、選手ともほぼ試合の時にしか会わないので、もう少し顔は出したいですね」


――この2年ぐらいのコロナ禍で、特に大変だったことはありますか?

 「やはりお客さんになかなかすんなりと来ていただけるような状況ではないので、告知をしたところでそもそもイベントも打ちづらいですし、ただ『来てください』というのも難しいところがありますね。それよりも『感染対策をしっかり施してますよ』とか、守りとは言わないですけど、あまり攻めの広報活動は打てなくなりました。新聞に出した告知はデジタルデータでもらってSNSにも使えるので、コロナ禍前は対戦相手に以前ヴァンフォーレにいた選手がいたら、その画像も使って『○○対決』としてみたり、いろいろ考えてやっていましたけど、ちょっと以前のようなことがやりづらくはなってきていますね」

大学の卒論でヴァンフォーレの応援ホームページを作成!


――もともとそういう細かい作業が好きだったんですか。

 「好きですよ(笑)。サポーター時代から地元の山梨日日新聞のヴァンフォーレ関連の記事を全部切り抜いて、スクラップして、というところから始まっていますから。大学が電子情報科だったので、卒論は『インターネット社会を探求する』というタイトルだったんですけど、サッカーが好きだったのでヴァンフォーレに関するホームページを探したら、あまり良いものがなかったんです。それで『じゃあこれを自分で作って、それを発表しよう』と思ってパソコンを買いました。まだ当時はハードディスクが1ギガで、インターネットを繋げるのに2週間かかったんですけど(笑)、そこからタグ打ちで勝手にヴァンフォーレの応援ホームページを個人的に作りました。

 情報が欲しいのでクラブ事務所に電話したら今泉松栄さん(現・取締役総務本部長)が出てくれて、優しく対応してくれましたね。時には事務所まで行って『何か情報ないですか?』って(笑)。それでホームページができあがったら、やっぱり全国からアクセスがあるわけじゃないですか。『○○のサポーターです』って顔も知らない人から連絡が来て、やり取りして『今度対戦ですね』とか、『僕も会場に行きます』って答えたりとかして、試合を見に行っていましたね」


――完全なサポーターですね(笑)。

 「もともとは大学の卒論だったので、発表の時に『いろいろな県の人と繋がりができて、凄く面白かったです』と教授に言ったら、『君は結局何を探求したの?』と(笑)。インターネット社会がどうこうより、ヴァンフォーレを探求したわけで。ただ、大学卒業後はIT会社に入ったんですけど、せっかく作ったからもったいないと思って、仕事から帰ってきて自分のホームページを更新して、ということを1年ぐらいやっていた中で、仕事がかなりハードだったんですよね。当時家が印刷業をやっていて、父に『後を継げ』とは言われていたので、『もう継ぐしかないな』と。それでIT会社を辞めて、印刷業を学ぶ傍ら、より時間ができたので、試合に行って観戦記を書いたりして、仕事よりそっちに力を入れてやっていました。

 そこで今泉さんや高原幸次さん(現・取締役事業本部長)と仲良くさせていただいていた中で、当時はチーム同士でチケットのやり取りもあり、今泉さんから『高原に聞けばチケットももしかしたら出てくるかもよ』なんて言われて、アウェイゲームで『今泉さんにそう言われたんですけど』って高原さんに言いに行って、もらった招待券で試合を見て、ホームページに載せたり(笑)。クラブの方ともそういう交流をしていたんですけど、もちろん家業のこともありましたし、印刷系の展示会を東京に見に行った帰りの電車で『もう観念して家を継ぐか』と思いながら甲府駅に降りたら、ちょうど今泉さんから電話が来て、『やめる人がいるんだけど、鷹野くんウチにどうかな?』『やります!』って、何の条件も聞かずに(笑)。それが1999年のJ2開幕の1カ月くらい前だったかなあ」

現在は取締役総務本部長を務めている今泉氏

初出勤はJ2開幕当日のスタジアム

 「実はヴァンフォーレでの初めての仕事は、そのシーズンのJ2開幕戦の日だったんです。大宮アルディージャとの試合で、初出勤として韮崎の会場に行ったものの、僕のことは誰も知らないわけですよね。最初は機械が強そうだからということで、『音響をやってほしい』と言われたんですけど、当時の音響ってカセットテープのボタンをポチッと押すだけで、『これって僕じゃなくても誰でもできるのでは……』って(笑)。『じゃあ受付をやって』ということで、訳もわからず受付に座っていました。さらに試合後にサポーターとのミーティングが韮崎の喫茶店であったんですけど、『そこに出てくれ』と言われて、一人ひとり自己紹介していく中で『この3月からヴァンフォーレにお世話になる鷹野と言います』と話したら、高原さんが『え?』って。同僚になる先輩なのにそのことを知らなかったんです(笑)」


――とんでもない初出勤ですね(笑)。

 「本当に(笑)。その1週間後にはJリーグの会議が御茶の水であって、最初は今泉さんと一緒に行く予定だったんですけど、『1週間見ていたけど、もう大丈夫そうだから1人で行けるよ』と言われて、ヴァンフォーレ代表として僕が1人で行ったんですよ。『甲府さんはどうですか?』とか質問をされて、『はい。甲府はですねえ……』みたいに話して(笑)。休憩になったら日本代表監督だった加茂周さんとトイレで隣になって、勝手に緊張したのを覚えています。

 その何日後かには小瀬(現・JITリサイクルインクスタジアム)に大型ビジョンができて、その研修会があるということで『鷹野くんはパソコンに強そうだから行ってくれ』ということになって、『いいですよ』と言って参加したその日から、いまだに大型ビジョン担当ですよ。今でも毎試合ホームゲームの前に会場に行って、データの打ち込みをやっているんです。昔は告知画像も全部自分で作っていたんですけど、今はそこをデザイナーさんにやってもらって、メンバーや他会場の結果など、必要な分だけは数字を変えられるようにやっているんですけど、入社して10日後ぐらいにその研修会に行ってから、今でもずっと大型ビジョン担当です(笑)」


――20年近くビジョン担当ですか!それは凄いですね。

 「当時は広報の仕事としてやっていたんですけど、運営担当になった時に『やっぱりこの仕事って運営だよね』ということで、そのまま僕が続けることになり、また広報に戻ったのに自分が引き継ぐという(笑)。『え?これって運営の仕事じゃなかったの?』って。そんなところがヴァンフォーレでの仕事の始まりでした」


――そもそも鷹野さんにとって、最初のヴァンフォーレとの接点はどういうものだったんですか?

 「実はホームページを作る前はほとんど試合に行ったことがなかったんです。作った後に『じゃあ試合も見よう』と思って会場へ行くようになって、試合を見てはホームページを更新していました。当時は今のボランティアに繋がるグループが発足して、まったく僕はやらずに名前だけ登録していて。そこで今もヴァンフォーレのグッズショップで店長をやっている斉藤さんにキックオフパーティーがあることを教えてもらって、5000円ぐらい払って参加したんですけど、選手たちがすぐ近くにいるから緊張してゴハンも食べられず(笑)、最後に『このままじゃ帰れない』と思って、当時の塚田(雄二)監督が退場していく時に『塚田さん、頑張ってください!』って。それを言うためだけに5000円払ったんですよ(笑)」


――それはまだJFL時代ですよね?

 「そうです。そんな人間がヴァンフォーレに入ることになるんですよね」

勝てないチーム。売れないチケット。直面したチーム存続の危機


――鷹野さんが入社した1999年のヴァンフォーレは経営危機もありましたし、リーグ戦も全然勝てなくて、かなり大変な時期だったと思いますが、今から振り返るとその頃にはどういう思い出がありますか?
……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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