まさか!アルシャビンが、なぜ、ここに?
書籍化記念 ヘンリー・ウィンターの蔵出しコラム(1)
英国の高級紙『デイリー・テレグラフ』の花形記者ヘンリー・ウィンター氏が、イングランドサッカー界の日常と激戦の記憶をたどる本誌の人気コラム「A Moment in Time あの日のオールドシアター」が、2007年12月の連載スタートから6年、『フットボールのない週末なんて』として一冊の本になりました。
2014年1月31日の発売に合わせ、惜しくも書籍に収録できなかった過去の本誌掲載コラムを5回にわたってお届けします。第1回は、冬の移籍マーケット最終日の驚きを綴った「2012年8月8日発売号」掲載分を。
狐につままれた、09年冬の“超”滑り込み移籍
ソーシャルメディアの発達もあり、移籍市場の動向はほぼリアルタイムで伝えられるようになった。だが、それでもなお、最新情報を握っているはずの記者でさえ驚かされる移籍がある。忘れられない体験の一つが、08-09シーズン冬の出来事だ。
1日遅れ」の裏側
2009年2月3日の午後、筆者は狐につままれたような気分でエミレーツ・スタジアムのメディア用ラウンジに腰を下ろしていた。一緒にいた他紙の仲間たちも同じ心境だったに違いない。アーセナルの役員室で、新たに最高経営責任者に就任したイバン・ガジディスとの昼食会を終えた直後だったのだが、ある飛び入りに面食らったのだ。
役員室にふらっと入って来たのは、小柄で童顔のロシア人。テーブルを囲む記者陣と一通りにこやかに握手を交わすと、ドアの外へと消えて行った。もちろん、一目でアンドレイ・アルシャビンと認識できたものの、彼が挨拶にやって来た理由が理解できなかったのだ。
冬の移籍市場は、前日2月2日の夕方5時で終了していた。アーセナルはEURO2008で活躍したロシア代表FWの獲得に際し、所属先のゼニト・サンクトペテルブルクとの交渉に手間取った。本来の閉幕日に当たる1月31日が土曜だったことで、契約の締め切りが通常より2日間延長されていたのだが、それにも間に合わなかったはずだった。
クラブのお膝元である北ロンドン界隈では、地元の宿敵トッテナム派の地元民がアーセナルの補強失敗に祝杯をあげていた。アルシャビンの獲得は、当初トッテナムも画策していたのだ。その選手が、なぜ、市場閉幕後にアーセナルの役員室へ? 同席したトッテナムファンの記者などは、その事実が理解できないどころか理解したがってさえいなかった。
後日判明したことだが、市場最終日のアーセナルは、時計の針をにらみながらも沈着冷静に事を進めていたのだ。アルシャビンは、ロシアから練習施設のあるロンドン郊外北部のホテルに呼び寄せられていた。メディカルチェックを済ませ、選手契約の個人条件面も速やかに合意に至る。あとは、アーセナルとは移籍金、アルシャビンとは厄介な補償条件に関して、書面でゼニトの合意を取り付けるだけとなっていた。
当日にかけてイングランドを襲った大寒波も、アーセナルに味方したようだ。プレミアリーグは、移籍の基本合意が成立していれば、悪天候の影響による正当な理由があることを条件に、市場閉幕後も選手獲得の届け出を受け入れると発表していた。権限を持つ役員か、それとも書類を作成する管理部門の職員が出社できなかったのか、実際の遅延理由は定かではないが、締め切りから約24時間後にアルシャビンのアーセナル入りは認められた。
加入してなお、強烈だった
クラブによる公式発表が行われたのは、3日の夕方5時前。その数時間前に、エミレーツ・スタジアムにおける記者のアルシャビン遭遇で移籍成立を確信した各紙も、5時過ぎまでオンラインでの第一報を待たなければならなかった。ニュースが伝えられると、トッテナムをはじめプレミアのライバル勢のファンは、滑り込みとさえ呼べない移籍成立に憤慨した。以来、夏と冬の国内では「どうせまた、アーセナルは市場閉幕の翌日になって誰か獲るつもりなんだろうよ」というジョークが定番だ。
最初の出会いが強烈だったアルシャビンは、入団後も記者の意表を突く選手だった。独占インタビューを許されてみると、「一日も早くアーセナルファンのハートをつかみたい」と熱心に語ったかと思えば、突然「この国のサラダはあり得ない」と切り出し、イングランドで口にする各種サラダを次々に酷評した。
女性ドライバーをこき下ろしたこともある。インタビューの席で「女性に運転を教える教官にはなりたくないね。一般道に女性用レーンを作らなきゃならない。なぜかって? 見当も付かないような運転をするからさ。車に乗っている時、蛇行したり、近寄りたくない動きをしている車のハンドルを握っているのは、いつだって女性なんだ。そうに決まっている!」とまくし立てた選手は、後にも先にも彼しか知らない。
試合前の会見などにアルシャビンが駆り出されれば、アーセナルの広報報担当は緊張の連続だ。記者としてはありがたい驚きだったが、「チェルシーはいいチームだけど、冷めたサッカーをするね。1点取った後は……(腕組みをしながら溜め息をついて)何の面白みもない」などと言ってしまうのだから、悩ましいわけだ。
最終的には、広報に限らず経営陣やファンも、市場最終日まで、厳密に言えば閉幕後も、このロシア人獲得に粘った甲斐があったかどうかを疑問に思っているかもしれない。移籍金の額は約20億円に上る。反面、アルシャビンがその後ピッチ上でもたらしたインパクトは乏しく、12年夏の移籍市場では開幕前から放出が噂された(※13年6月に古巣ゼニトへ完全移籍)。入団前にしてインパクトを味わった記者として言わせてもらえば、実に寂しい成り行きだ。
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Translation: Shinobu Yamanaka