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ライセンス制度から費用面まで。ドイツサッカー指導者養成の変遷

2020.03.05

ベルリン州サッカー連盟指導者教官・カルステン・マース氏インタビュー_中編

若手選手の育成はもちろんのこと、ブンデス史上最年少監督ユリアン・ナーゲルスマンを筆頭とした若手指導者の育成・抜擢の土壌も確立されているドイツ。彼らはいかにして“若手抜擢”を可能にするシステムを作り上げてきたのか。ベルリン州サッカー連盟でおよそ20年にわたり「指導者の指導」に取り組んできたカルステン・マース氏を取材。ドイツの育成の現在・過去・未来について話を聞いた。

中編では、東西ドイツ統一前から指導者として活動してきたマース氏に、ドイツの指導者養成がどう変化を遂げてきたのか、その変遷をたどってもらう。

前編はこちら

実は東ドイツが“ルーツ”

――エンポーアが新しいスタートを切ったのは2003年というお話でした。ちょうどこの時期、DFBも指導者育成、タレント育成の分野で大きな変革を行いましたね。マースさんは指導者養成担当者として、それ以前とそれ以降の動きを直に体験してきました。実際のところ、現場ではどのような変化があったのでしょうか?

 「初めに言っておかないといけないのは、私がベルリンサッカー連盟と契約を結んだのは1996年ですが、指導者養成担当になったのは1999年からです。それまでは別の担当者がいたのですがその方が病気になってしまい、私を含め若い指導者たち何人かに声がかかったのです。

 そのうえでの話になりますが、当時は今のようにDFBからカリキュラムの指定などはありませんでした。また、タレント発掘に関してもシュトゥッツプンクトのように幅広く選手を探すための仕組みはなかったのです。ただ、ベルリンではDFBが動き出す1998~99年以前から、州内のスポーツエリート学校とシュトゥッツプンクト(日本のトレセンに近いもの)との提携を主導していました。私が務めていたのは、そのシュトゥッツプンクトの指導者でした。

 その後、2000年代の初めからDFBがタレント育成に力を入れ始めました。EUROやワールドカップでのドイツ代表のパフォーマンスが、ひたすら肉弾戦を繰り返すようなものだったからです。他国がドイツを追い越し、技術でも戦術でもドイツのはるか先を行っているのを目の当たりにしました。そこで、他の成功している国を比較しながらドイツに足りないものを分析し、見出したのです。シュトゥッツプンクトは、こうして導き出された結果でした。

 ベルリンは、このコンセプトを先んじて実行していたのです。そのため、プロトタイプとしてDFBと何度も話し合いました。またこの時、スポーツエリートが学業も行えるようにスポーツエリート学校とブンデスリーガクラブが提携するように義務付けられたのですが、このコンセプトやインフラストラクチャもベルリンではすでに整っていました。というのも、この考え方はもともと旧東ドイツで浸透していたものだからです。今のDFBの区切りで言えばドイツ北東部、ベルリンの他にはロストックやマクデブルク、ライプツィヒやドレスデン、コットブスなどでも、これらのインフラがあらかじめ整備されていました。そこで、これらの地域では他に先んじて実験的に、DFBのコンセプトが実践されていたのです。

 そうして、ブンデスリーガクラブにはこれらのスポーツエリート学校と提携し、学校教育の質とサッカーの育成内容において一定の質を確保するためのライセンス取得を義務付けるようにしました。こうして、タレント養成のための2つの軸を確立しました。1つは、シュトゥッツプンクトによりU-13(11歳、12歳が対象)から始まるタレントの発掘。もう1つが、エリートスポーツ学校との提携による教育の質の確保です。

 それに関連して、ライセンスの仕組みも変わりました。それまではB級、A級、そしてフースバルレーラー(日本のS級に相当)の3段階でした。1990年代には、C級がなかったのです。また2000年代には、B級とA級の間に育成のスペシャリストのためのライセンスも設けられました。一時期、そのライセンスをB級に定義し直しましたが、今の『エリートユーゲントライセンス』(ブンデスリーガクラブなどのエリート育成部門NLZで指導できるライセンス)を設けたことで、再びB級と育成のスペシャリストのためのライセンス、そしてA級に分割されました。そのあと、C級はアマチュア用と競技者用に分けられ、競技者用がBライセンスと再び呼び直され、アマチュア用がC級となりました。エリートユーゲントライセンスは、今ではA級の講習コースの一部として機能しています。昔はそのライセンスを取るために4週間の出席期間が必要でしたが、今はエリートユーゲントライセンスに2週間、残りの2週間をA級の取得にかけるように分けられています。C級ライセンスとユーゲントエリートライセンスの導入、および各ライセンスのカテゴリーの選り分けが1990年代と変わった点ですね」


――システム上、より細分化されたのですね。ライセンスのコースで伝えられる内容も変化しましたか?

 「そうですね。まず、授業の内容に関してはかなりしっかりとしたカリキュラムが構築されるようになりました。1990年代は、B級で基本的なことを学んでいました。基本的な方針は一応ありましたが、実際のところ実施の部分では大半が州の現場担当者に任されていました。そうして、DFBが育成部門の積極的な改革を進める中で、ライセンスのためにドイツ国内で統一的なカリキュラムが組まれるようになりました。つまり、指導者養成において、どの州にいてもDFBが定めたプロセスに従いながら、与えられたマテリアル(パワーポイントのプレゼンテーション、ビデオ、指導要綱など)を使うことが定められました。

 もちろん、現場レベルの指導者養成担当者がその都度自分たちのアイディアや状況に応じてある程度まで変更を加えることはありますが、ベースとしてはDFBからの要綱に従ってプログラムは実行されます」


――ああ、私が見たパワーポイントなどにもDFBのロゴが入っていましたね。

 「大部分はそうでしたね。そうして1990年代や、あるいは自分がコーチングライセンスの取得を始めた1980年代から比べてみると、指導者養成の内容は大幅に変わりました。スポーツ科学の分野もさらに発展していますし、指導方法もかなり変化しているわけです。以前は、黒板の前に立って指導員がすべて説明する形でした。現在は、より受講者から積極的にアイディアを引き出したり、質問を促したりとインタラクティブなものになりました。それは、トレーニングの現場でもそうです。選手の集中力を高めるために、より選手とのやり取りが増えるようになりました。

 スポーツ科学による知見も、当時に比べてかなり早い段階でプログラムに組み込まれるようになりました。今では、C級でもそういった内容を学びます。おおまかに言ってしまうと、現在B級ライセンスで行われている内容は、30年前のA級の水準に相当すると言えるでしょうね。それに、現在は戦術の比重がだいぶ大きくなっています。よりディティールに踏み込み、指導者たちが実際に現場でチームを率いるうえで、十分な知識を備えている状態になることを目指しています。戦術のカリキュラムにしても、より細分化されるようになりました。個人戦術、グループ戦術、チーム戦術、そして攻撃時、守備時……さらにカテゴリーはありますが、総じてしっかりとカリキュラムが確立されているということです。戦術に限らず、すべての面でより洗練されたカリキュラムを用いながら指導者養成が行われているのです」


――そうなると、指導者養成の担当者たちも常に新たなインプットを獲得し続けなければなりませんね。

 「指導者としても、人としても、常に新しいことを学び続けなければなりません。それは当然のことです。サッカーに関しても、スポーツ科学にしろ常に発展し続けていますし、戦術的な面にしろ技術的な面にしろ次々に新しいものが出てきます。そういった動きは常に追い続け、常に知識を最新の状態にしておかなければなりません。それに、コーチングライセンス保持者は講義を受講し、3年間で30ポイントを集めなければなりません。私自身も、年間30から40ポイント分の講義に参加しています。

 C級、B級の講義に関してはベルリンサッカー連盟が行います。ユーゲントエリート、A級、そしてフースバルレーラーに関してはDFBが担当しています。フースバルレーラーやA級の場合はDFBが主催する国際会議に参加したり、『フースバルレーラー組合』による講義にも参加します」


――フースバルレーラー連盟はYouTubeチャンネルを持っていますね。興味深いビデオが多く、参考にしています。

 「ええ。この組合がA級およびフースバルレーラーのためのカリキュラムや講習の内容を決めたり、実施したりしているのです。そして、各地域で年に数回講習を行い、年に1度ドイツ全土から指導者が集まる会議に参加します。この会議は3日にわたって行われ、ビデオや文書によって記録され、すぐにオンラインにアップロードされるようになっています。

 旧東ドイツ時代のことを話せば、当時のコーチングライセンスは4段階に分かれていて、私はすべてのライセンスを取得しました。西ドイツのフースバルレーラーに当たるのは、第4級でした。内容的には今のユーゲントエリートライセンスぐらいの水準です。ドイツ統一後、1994年にA級ライセンスを取得し、2005年にフースバルレーラーになりました。ケルンのシュポルトシューレ・ハネスで行われ、元プロ選手たちやブンデスリーガの将来の監督候補たちとともに学びました。プロの分野だけではなく、体育教師や育成部門のコーチたちなど、バランス良くいろいろな背景を持った人たちが混ざっていましたね。このコースは年に1度で、およそ25人が参加できます」

毎年3月に開催されているフースバルレーラーの授賞式で、狭き門をくぐり抜け笑顔を見せる修了者たち

高い金銭的ハードル

――州サッカー連盟からの推薦状なども必要なのですか?

 「必須というわけではありません。ただ、参加するためには定められた条件を満たさなければなりません。条件としては、高いレベルの成人チームあるいは、成人に近い育成部門(U-19、U-17)のチームを率いていること。レベルとしては、各カテゴリーのブンデスリーガ1部、2部、3部に所属しているチームですね。さらに、成人カテゴリーでの最低経験年数や、州サッカー連盟のシュトゥッツプンクや選抜で働いた経験なども問われます。それに加えて、参加に十分な能力を備えているか、テストも行います。それらを総合的に評価し、参加の可否が決定されます。総合的にキャリアを見ながら、25人のグループがちょうど良いバランスを持ったグループになるように参加者を判断します。ドイツ全土から100人を超える応募がある中で25人に入るのは難しいことです。

 私の場合は、大きなメリットがありました。ベルリンサッカー連盟が、このコースに参加するために有給休暇を与えてくれたのです。すでにサッカー連盟の社員だったこともあり、ライセンス取得のために協力してくれました。ただ、私自身も応募してからコースに参加できるようになるまで2、3年待たなければなりませんでした。成人のサッカー監督もしましたが、主にベルリンサッカー連盟での仕事が評価されたようです」


――フースバルレーラーのコースを終了するには、新車が1台買えるぐらいのコストがかかると聞きました。

 「そう。さまざまなところでお金がかかります。まずはコースの受講費で、当時は5000ユーロ(約60万円)でした、15年前の話ですけどね。それに加えて、ケルンにある程度まとまった期間滞在できる環境がなければなりません。ずっといる必要はありませんが、比較的長い期間、出席しなければならない講義が続きます。今は10カ月ですが、当時はもっと長かったですしね。私の場合は、幸運にもサッカー連盟が有給を取ってくれましたが、一般の人々にとっては休暇を取得している間、お金を稼げませんからね。経済的な面でも難しいですし、その間にクラブで働いている場合は、毎週往復の交通費もかかります。まあ、部分的には税金で落とせる部分もありますが、私の場合は合計で1万5000~2万ユーロ(200~240万円)ぐらいかかりました。これでも少ない方です。この金額は今でも変わらないでしょうね」


――本当に車が買えますね。州のサッカー連盟で働いているからといって、ライセンスのコースが割安になるとかもないのですね。

 「そうです。コースにかかる費用はすべて自費です」


――ケルンの周辺に住むだけでも、かなり経済的負担が減りますね。

 「そうですね。実際、コースへの参加者はブンデスリーガクラブが多いこともあってノルトライン・ベストファーレン州からの参加者が多かったです。シャルケでアシスタントコーチを務めていたオリバー・レックもいました」

現役時代はGKとしてブレーメンやシャルケでプレーし、デュイスブルクやデュッセルドルフの監督を務めたレック


――なるほど、経済面での話になったのでお聞きしますが、ベルリンサッカー連盟や今のクラブと契約を結ぶ前は、どのような職業に就いていたのですか?

 「当時はまだ東ドイツでしたが、自動車の修理師として職業訓練を積み自動車修理工として働いていました。ですが、サッカーの指導者として生活したいとずっと思い続けていましたね。ベルリンの壁が崩壊してから2年間は保険会社の事務として働き、その後は国際的なスポーツのイベントやプロジェクトを行うNGOに勤めました」。“Komm mit!(コム・ミット!)”というプロジェクトで拠点はボンにあるのですが、そこでサッカーのトーナメントや大会の運営を担当していました。当時は、スペインでたくさんの大会を催しました。そうして、先にもお話した通り1994年にエンポーアで社員扱いとなり、1996年にベルリンサッカー連盟と契約しました。クラブでの活動時間を減らしましたが、ベルリンサッカー連盟で仕事をしながらもエンポーアでの仕事も続けました。ベルリン選抜の監督になったらそのような時間も持てなかったでしょうが、シュトゥッツプンクトのようなタレント発掘を担当していたので、それも可能だったのです」


――そのシュトゥッツプンクトは、主にどのぐらいの年齢が対象になるのでしょうか?

 「基本的にU-13(11、12歳)が対象となり、ベルリン内で6カ所に分かれて行われます。さらに、U-15(13、14歳)でもベルリンサッカー連盟で選抜候補選手たちへのトレーニングを行っています。こちらはU-13とは違って、実際に選抜に絡む可能性がある選手だけがトレーニングに参加でき、ベルリン州内の2カ所で行われます。さらに、U-17の選抜候補選手たちにもトレーニングを提供します。ただ、シュトゥッツプンクトの才能発掘に関しては、U-13の若い才能をできるだけ多くカバーすることが主な目的です。U-13のカテゴリーが終わると、本格的に州選抜としての活動が始まるので、そこに参加できる可能性のある選手を早い段階ですくい上げるのが主な作業となります」


――シュトゥッツプンクトの指導官たちは、選手たちにどのクラブに行くべきか、といった推薦も行うのですか?

 「いいえ、そういったことをしてはいけません。選手たちは、クラブとは独立して評価されなければなりません。とはいえ、ある一定の年齢になれば選手として成長できる環境を探さなければいけないのは事実です。ただ、基本的にU-13では移籍を行うことはあまりありません。その子の所属クラブが小さく、レベル的に合わないようだったらまた考えなければなりませんが。通常はU-15の2年目(14歳)、あるいはU-17に上がるタイミング(15歳)で、自分のレベルに適したクラブへ移籍することを考えなければいけません。そこで州のスタッフが直接選手に話をするのではなく、例えばヘルタやウニオンのNLZの責任者や同じレベルのクラブの担当者たちに話をしてトレーニングへ招待するように促したり、働きかけたりします。基本的には、どのクラブにも公平に対応しているつもりです。最終的には選手と話をし、選手が挑戦したいと言えば私たちが両クラブ間での話の調整に入ります。そうして、実際にブンデスリーガの育成機関に入った選手や、他の地元の有力クラブでアンダー代表に選ばれた選手たちがたくさんいます。

 女子にはNLZはありませんが、選抜の選手たちの中には男子のチームでプレーしている選手がいます。実際、ドイツ代表に入っていた2人の選手は昨季までベルリン州内の男子チームでプレーしていました」


――U-17欧州選手権で優勝した選手たちですね。実際に女子サッカーでの現場で働いていると、どのように育成するのがベターなのかよくわからなくなります。マースさんの見解を教えていただけますか?

 「サッカーの指導という点では、男子とそれほど変わりません。ただ、一般的には男子とプレーした方が良いでしょうね。基本的により高いレベルでプレーする環境が与えられますし。ただ、選手のレベルだけではなくドイツやベルリン全体で見ると、競技人口の底辺拡大についても頭に入れないといけません。男子に比べれば、女子の方がまだまだ大きなポテンシャルが眠っているとは思います。発掘されていない、眠っているタレントの絶対数で言えばまだまだたくさんいるはずです。こういった才能ある選手たちをU-13やU-15までに男子サッカーにうまく適応させることができれば、サッカー選手としての育成面からだけ見れば理想的でしょうね。いろんな要素がありますが、選手のレベルを上げるという点だけを見れば、女子チームだけでサッカーをした場合は成長が遅れるだろうと見ています」


――なるほど、ベルリンないしドイツの育成年代の女子サッカーがエリートレベルで成功している要因は、男子サッカー界の育成分野で女子選手を受け入れる準備ができているということですね。

2019年のU-17女子欧州選手権で優勝し歓喜するドイツ代表のメンバー。決勝ではオランダをPK戦の末に退け2大会ぶり7度目の栄冠を手にした


Photos: Getty Images for DFB, Bongarts/Getty Images, Getty Images

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Profile

鈴木 達朗

宮城県出身、2006年よりドイツ在住。2008年、ベルリンでドイツ文学修士過程中に当時プレーしていたクラブから頼まれてサッカーコーチに。卒業後は縁あってスポーツ取材、記事執筆の世界へ進出。運と周囲の人々のおかげで現在まで活動を続ける。ベルリンを拠点に、ピッチ内外の現場で活動する人間として先行事例になりそうな情報を共有することを心がけている。footballista読者の発想のヒントになれば幸いです。