「鶏ガラ・豚ガラ・人柄」――元Jリーガー・盛田剛平が開業したラーメン店、『盛田軒』潜入レポート
Jリーガー時代から“ラーメンガチ勢”として有名で「ラーメン師範」として愛されていた盛田剛平が、引退から5年以上が経った2023年に満を持してラーメン店を開業した。その名は『盛田軒』。現役時代から彼を取材し、ラーメン好きの同志でもある大島和人氏が潜入レポート。
長谷部茂利(アビスパ福岡)、渡邉晋(モンテディオ山形)、米山篤志(カマタマーレ讃岐)、戸田和幸(SC相模原)、小林慶行(ジェフ千葉)――。こう名前を書き連ねれば、コアなJリーグファンならピンとくるだろう。彼らは全員揃って桐蔭学園高校サッカー部OBで、現役のJクラブ監督だ。Jリーグは合計60クラブあり高校なら桐蔭学園、大学なら筑波大が監督の「最大勢力」だ。
この5人は1971年生まれ以降の7学年に集中していて、全員が李国秀監督の指導を受けている。自分が知る李国秀氏の門下生は総じて知的で受け答えが丁寧で、でも隙がないタイプだ。育成年代の主流が根性サッカーだったJ開幕前夜に、彼らは理詰めでこの競技に取り組んでいた。それが引退後も指導者として活躍している人材の多さにつながっているのかもしれない。
フットボリスタ読者に媚びて無理やりフットボールの話から入ったが、今回の主題はラーメン。「日本の国民食」「ソウルフード」と言っても差し支えないレベルで社会に浸透している丼の小宇宙だ。今回はラーメン店の経営に挑む、フットボールとも縁の深い男の生き様にスポットを当てたい。
盛田剛平はその桐蔭OBで、米山監督と同級生。戸田監督と小林監督から見ると、1つ先輩に当たる。駒澤大卒業後は浦和レッズを皮切りに計7クラブで、19年の現役生活を全うした。189センチの長身、空中戦の強さはおなじみで「利き足は頭」という名言(迷言?)もおなじみだった。
特に忘れられないのは2014年のヴァンフォーレ甲府における活躍だ。彼は当時38歳で、クビ寸前(実際に一度“契約満了”が発表された状態)からの再契約だった。しかしCBからFWに再転向すると、クリスティアーノ(現V・ファーレン長崎)がフィットせず苦しんでいたチームをJ1残留に導く出場29試合・5得点の大活躍を見せた。
そして今、桐蔭OBとしては異色のセカンドキャリアに踏み出している。
『ラーメンJリーガー』時代の思い出
現役時代からその“ラーメン愛”はおなじみだった。
Jリーグのキャリアデザインサポートプログラムでは、ラーメン屋での修行を選択していた。サンフレッチェ広島時代には「広島ラーメン会」を結成してラーメンを通じた社交に勤しみ、「ラーメン師範」の二つ名を得た。
筆者はサッカー専門紙『エル・ゴラッソ』の甲府担当として、ベテランに差し掛かった盛田のプレーや練習を追っていた。ある日、練習場で取材を受けている彼をチームメイトがこう冷やかした。
「またラーメンの取材ですか?」
盛田はわざとらしい“真顔”で、こう返していた。
「ラーメンだよ! 俺はサッカーの取材は断っても、ラーメンの取材は断ったことがない!」
記者たちと盛田が雑談をしていた。誰かが「今まで山梨のラーメン屋は何軒くらい行ったんですか?」と尋ねた。
「まだ●●軒しか行っていません」
80軒だったか120軒だったか正確な数字は覚えてないが、確か100軒前後だった。当時の盛田は甲府に加入して2シーズン目。「“まだ”じゃないでしょ!」と皆で突っ込んだことを覚えている。
盛田は『ラーメンJリーガー』の日々をこう振り返る。
「誰でもサッカー選手として目立ちたい、注目されたい願いはあるはずです。俺は『サッカーをやっていて、ラーメンもやっている』ことが(注目してもらえるポイントとして)あった。そこに関しては皆ウケがいいし、反応してくれる人が多かった」
彼は現役時代からラーメンに関わる企画、イベントにもしばしば関わっていた。単に「食べるのが好き」という次元にとどまらず、メニューや食材について熱く語る“ラーメンガチ勢”だった。セカンドキャリアはラーメン屋店主だろう……と我々は無責任に想像していた。
スイッチが入ったのは45歳。ここでやらなければ…
……
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Profile
大島 和人
大学在学中もテレビ局のスタッフとしてスポーツ報道に関わっていたが、損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。Jリーグでは過去にFC町田ゼルビア、ヴァンフォーレ甲府、柏レイソルの3クラブを「番記者」として担当した経験がある。またバスケットボールや野球など他競技の取材機会が多く、仕事にはならない育成年代や大学の観戦に顔を出しすぎることによる取材効率の低さでおなじみ。