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さようなら、モウリーニョ(後編)。「未来を創る」ではなく「今の熱狂」だけを生きる限界

2024.02.16

CALCIOおもてうら#3

イタリア在住30年、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えるジャーナリスト・片野道郎が、ホットなニュースを題材に複雑怪奇なカルチョの背景を読み解く。

今回は、1月16日にローマの監督を解任されたジョゼ・モウリーニョについて、インテル時代の栄光を記した『モウリーニョの流儀』の著者でもある筆者が想いを綴る。後編では、グアルディオラ登場以降により強くなった「結果への傾倒」、未来を創ることを期待されたローマでもチームの積み上げではなく刹那的な熱狂しか生めなかった理由を考察する。

 モウリーニョの20年あまりにおよぶキャリアを振り返ると、いくつか大きな転換点があったことがわかる。

 ベンフィカとウニオン・レイリアでの短い修行時代に始まり、在任2シーズン半でリーグ優勝2回、UEFAカップとCLを連続で制覇したポルト時代。自らを「スペシャル・ワン」と称し、就任から2年続けてプレミアリーグを制覇、名実ともに欧州ナンバーワンの監督となった最初のチェルシー時代。そしてインテルを率いてスクデットを連覇し、自身にとって2度目のCL制覇も成し遂げると、すべての監督が目指すキャリアの最高到達点とも言うべきレアル・マドリーに満を持して乗り込む――。ここまでの歩みは、チェルシー解任という躓きがあったとはいえ一貫して右肩上がりだった。

 もちろん、右肩上がりが永遠に続くことはあり得ない。しかし、キャリアのピークたるべきレアル・マドリーでの3年間を通じて、モウリーニョは「スペシャル・ワン」としての特別な存在感と輝きを少しずつ失っていったという印象がある。そしてそれ以降の彼は、1人の大物監督ではあってもそれ以上の存在ではなくなっていた。

グアルディオラ以降の「スペシャル・ワン」の変質

 今振り返れば、モウリーニョが「スペシャル・ワン」でなくなったのは、ペップ・グアルディオラの出現によってだった。グアルディオラがサッカーの世界にもたらした「革命」は、「モウリーニョの流儀」ですら一気に時代遅れにしてしまうだけのインパクトを持っていた。

 それまでのモウリーニョは、勝利やタイトルというピッチ上の結果だけでなく、監督としてのメソッドにおいても最先端を走る1人だった。フィジカル、技術、戦術を個別に扱ってトレーニングする要素還元主義的アプローチがまだまだ一般的だった2000年代、ボールを使った戦術エクササイズの中にすべての要素を組み込む、フィジカルコンディションも含めて個人に焦点を合わせることをせず、チームのパフォーマンスだけに着目する、決められた戦術パターンではなくプレー原則をトレーニングするといった「戦術的ピリオダイゼーション理論」のアプローチは革新的だった。

 しかし、どういう考え方でどういうトレーニングをするかと、それを通してどのようなサッカーを追求し、実現しようとするか、勝利という目標に対してどうアプローチするかは、また別の話である。その観点から見ると、モウリーニョのメソッドは、相手を研究し尽くしてその弱点を衝くことに焦点を合わせた結果至上主義に基づく「研究と対策」を柱とする「リアクティブ」(受動的、反応的)なものだった。

 それに対してグアルディオラは、トレーニングメソッドとしては「戦ピリ」と多くの共通点を持つ構造化トレーニングを採用していたが、勝利へのアプローチは、自らの哲学やそれに基づく明確なスタイルやアイデンティティを追求し、相手にサッカーをさせないためではなく、自分たちのサッカーをすることを通して勝利に近づこうとする「探求と進化」であり、モウリーニョのそれとは正反対の「プロアクティブ」(能動的、自発的)なものだった。

 レアル・マドリーとバルセロナという、当時スペインはもちろんヨーロッパの頂点を争っていた2強のライバル関係の中にあって、一世代下のグアルディオラが提示した革新的なアプローチは、モウリーニョにこれまでにない対立軸を突きつけるものだったとも言える。

2010年11月カンプノウで行われたエル・クラシコで握手を交わすモウリーニョとグアルディオラ。試合は5-0でバルセロナの快勝となった

 ボール保持によって地域とゲームを支配し、自らのサッカーを追求することを通してより多くのゴールを奪って勝つことを目指すグアルディオラのバルセロナに対して、モウリーニョのレアル・マドリーは、まず負けないこと、相手にサッカーをさせないことに優先順位を置き、相手にボールを委ねて守りを固め、前線のアタッカー陣の個人能力で数少ないチャンスを活かしてゴールを奪おうとする徹底的な結果至上主義というアンチテーゼで応えた。

 当時はまだ戦術研究の情報化が今ほど進んでおらず、数年にわたり「グアルディオラ対その他すべて」という構図が欧州サッカーを支配していた。そして、いかにしてバルセロナに勝つか、という問いに対する答えにも、ゴール前にバスを置いてカウンター、という以外の選択肢はほとんど見出されていなかった。

 実際モウリーニョのレアル・マドリーは、ロナウド、ベンゼマ、ディ・マリア、カカー、エジル、イグアインという超豪華なアタッカー陣を擁していたにもかかわらず、絵に描いたような堅守速攻スタイルであり、ピッチ外まで含めた神経戦(対決型リーダーシップがその武器だった)の中に相手を引きずり込んでねじ伏せようというものだった。

 しかし、モウリーニョがリーガとCLを舞台に繰り返される「エル・クラシコ」でその戦略を研ぎ澄ましている3年の間にも、欧州サッカーは少しずつ着実に変化が進んでいた。

 ドイツでラルフ・ラングニックとヘルムート・グロースによって生み出され独自に発展した、縦志向の強いダイレクトアタックにアグレッシブなゲーゲンプレッシングを組み合わせたスタイルが、ユルゲン・クロップ率いるドルトムントによってブンデスリーガ制覇、CLファイナリストという実績を残す。

 具体的な戦術的振る舞いは大きく異なるが、グアルディオラのそれと同じように、自ら主導権を握ってゲームを戦い、持ち味を最大限に発揮して相手を乗り越えることで勝利に近づこうとする「プロアクティブ」な姿勢と戦術が結果を残し、またそれをスペクタクルとして評価する方向に時代の空気が動いていく中で、徹頭徹尾「リアクティブ」なアプローチを採るモウリーニョは徐々にそこから取り残されていった観がある。

 2010年代半ばから後半にかけて、モウリーニョの戦いの舞台はプレミアリーグに移ったが、そこで主役を演じたのは他でもないグアルディオラ(マンチェスター・シティ)とクロップ(リバプール)であり、モウリーニョはチェルシー2年目の14-15にリーグを制覇したものの、その後は脇役、時には悪役へと「役柄」が移っていくことになる。……

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Profile

片野 道郎

1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。

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