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『これはお前にやるわ』 現役引退の梁勇基から2足のスパイクを贈られた主務・永沼慎也さん

2024.01.28

ベガルタ・ピッチサイドリポート第9回

ベガルタ仙台にはその道16年目を数える名物マネージャーがいる。今季もクラブの主務を任されている永沼慎也さんだ。2006年にスクールのアシスタントコーチとしてベガルタに加わった男は、2009年に副務へ就任。以降はチームの日常を陰から支え続けてきている。クラブのレジェンド・梁勇基からも絶対的な信頼を寄せられている“スーパーマネージャー”がベガルタとともに辿ってきた軌跡に、おなじみの村林いづみが迫る。

 2023 年12月18日、ベガルタ仙台の背番号10、梁勇基選手が現役引退を表明した。プロ生活20年、その内18年を仙台で駆け抜けた。「レジェンド」「仙台の太陽」「FKの名手」、彼を表す言葉はいくつもある。2008年にはキャプテンに就任し、J1・J2入れ替え戦、翌年のJ1昇格を経験。この20年間の仙台の歓喜、数々の苦難、そのほとんど全ての瞬間に彼はいた。

 一つの時代が終わるのか。彼の引退は、そんなことを感じさせるほどベガルタ仙台にとって大きな出来事だった。そんな彼を長年近くで見つめ続けた人がいる。仙台で主務としてチームを支え、今では二人の後輩マネージャーを束ねるリーダー、永沼慎也さんである。2006年からサッカースクールのアシスタントコーチ、2009年から副務、2020年から主務として活躍する、この道16年目のベテランマネージャーだ。多忙を極めるキャンプ出発2日前に、永沼さんのこれまで、そして梁との歩みを聞こうと時間を頂いた。

現場スタッフ最長の16年目。移り行くクラブの全てを見てきたマネージャー

――今シーズンもキャンプが始まりますね。準備が一番忙しい時ではないですか?

 「今が一番忙しいかもしれません。クラブのイベントもあるし、キャンプ地の沖縄、延岡、宮崎と、3ヶ所の自治体、ホテル、サッカー協会などと連絡を取り合っていますが、正直『今、どことやり取りしているんだろう?』とわからなくなります(笑)。こればかりは何年やっても慣れないですね」

――永沼さんは今年マネージャーとしては何年目を迎えましたか?

 「16年目です」

――クラブのマネージャーとしては最長ですね。ベガルタのスタッフへの入り口はどこにありましたか?

 「スクールのアシスタントコーチになったことでしたね。2006年です。地元の石巻市でお世話になっている方が、ベガルタ仙台が行う保育所などのサッカー教室で巡回コーチをしていました。ベガルタに属している方ではなかったのですが、その方を通じて『ベガルタのスクールでアシスタントコーチをやってみないか?』というお話がありました。千葉雅俊さん(現ベガルタ仙台強化部、元主務)や、現役を引退したナベさん(渡邉晋・現モンテディオ山形監督)も一緒でした。最初に千葉さんがトップのマネージャーになったのですが、スクールで一緒にやっていたこともあり、副務として声をかけてもらいました。23歳の時です」

――そういう経緯があったのですね。

 「僕、夢を見たんですよ。“千葉さんから電話がかかってきてマネージャーになるという”夢です。スクールの子どもたちの卒業セレモニーなどでユアスタを訪れ、マネージャーの仕事やロッカールームを見ていました。前任の方が仕事している様子も見て『面白そうだな、こういう仕事もいいな』と思っていました。そうしたら、本当に千葉さんから電話が来ました。スクールコーチの話もあったのですが、その時は契約せず、アシスタントコーチを続けて、その後に副務になりました」

――スクールのアシスタントコーチになる前はどのようなことをされていたのですか?

 「トレーナーの専門学校に行っていました。石巻市で生まれ育って、高校までずっとサッカーをしていました。専門学校も石巻から仙台へ通っていました」

――2009年から副務としてマネージャー業を始めます。ベガルタが2度目のJ1昇格を果たした年です。

 「この年はリーグ戦が51試合と試合数が多すぎて……、あっという間に終わりました。正直なことを言うと、キャンプの段階で『もう辞めたい!』と思ったこともありました。でも、それはキャンプまで。最初は大変でしたけど、その一年があったからこそ免疫がついたと思います。2009年は天皇杯で準決勝まで勝ち進んだので、試合は12月29日まであったんですよ」

――それだけの試合数……、忙しかったですよね。記憶はあります?

 「ほぼないです(笑)」

――どんなことが一番大変でしたか?

 「洗濯です」

――マネージャーさんは、皆さんそう言いますね。

 「その頃、一次キャンプ地が鹿児島県のさつま町でした。副務1年目の僕にとってはまず『キャンプって何?』というところから始まるんです。流れも勝手もわからない。ある程度自分で予測しながら動くしかない状況。時間に追われ、洗濯以外にも業務はある。それは大変でしたね。その頃、宿には家庭用の洗濯機しかなかったので、練習が終わったらすぐに洗って……。エレベーターを待っている間に寝ていました。一度、荷物部屋で気絶していたこともありました(笑)」

――え?

 「目を空けたら、千葉さんの足が見えて……。気絶していたんですね、本当に」

――過酷すぎますよ。

 「でも、勝ちが良い薬で、全ての苦労をゼロにしてくれる。勝ち試合が多かったじゃないですか。勝つということは、それだけ僕らにもパワーになっていました。試合が終わったらすぐに次に向けて仕事をしなければいけないです。でも、クラブスタッフやメディアの方々もそうだと思いますが、勝つのと負けるのとでは違うんですよね。だから頑張れたというところもあります」

――それはありますね。

 「あと、いろんな人に良く可愛がってもらったんです。岡ちゃん(現西武ライオンズ、岡部智樹トレーナー)も一緒で、監督は(手倉森)誠さん、ナベさんも洋平さん(佐藤洋平・現鹿島アントラーズGKコーチ)もいた。すごく可愛がってもらいました」

――永沼さんは印象的だった試合に、この年の第49節セレッソ大阪戦(1-0で勝利)を挙げています

 「優勝を決めた前の試合です。終了間際に(朴)柱成がヘディングでゴールを決めました。その瞬間って、時が止まったというか、初めての感覚でした。今までたくさん試合をやってきて、あの時のような感覚ってなかったんです。痺れる、会場が一体になる瞬間でした。あの勝利で順位が逆転したんじゃなかったですか?満員で、ものすごい雰囲気でした」

Photo: Idumi Murabayashi

築き上げてきた信頼。後輩たちにも「僕と梁さんのようなつながり」を

――そういう瞬間を一番近くで見てきました。どんな風に選手たちと接してきましたか?

 「その頃はまだ年上の選手が多かったです。2009年の話で言うと、自分もスパイクや用具に対して、自分なりに試行錯誤をしながら、他のマネージャーからの情報も入れながら仕事をしていました。その時いた選手たちにもいろいろなことを教えてもらいました。こちらがどう接するというより、その時は、選手たちに接してもらうという感覚ですね」

――若手の頃と現在とでは選手との関わり方も変わっていますか?

 「今は年齢も上がってきたし、このチームにいて長いので、その選手ごとに、“どう接して、どう話そうかな”ということは考えられるようになっています。もちろん僕もコミュニケーションを取るんですけど、どちらかと言えば副務をしている二人(伊藤大樹さん、三浦悠太郎さん)がどんどん選手とコミュニケーションを取っていけば、僕と梁さんじゃないですけど、そういうつながりができていくのかなと思います」

永沼さんと副務の伊藤さん(右)(Photo: Idumi Murabayashi)

……

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Profile

村林 いづみ

フリーアナウンサー、ライター。2007年よりスカパー!やDAZNでベガルタ仙台を中心に試合中継のピッチリポーターを務める。ベガルタ仙台の節目にはだいたいピッチサイドで涙ぐみ、祝杯と勝利のヒーローインタビューを何よりも楽しみに生きる。かつてスカパー!で好評を博した「ベガッ太さんとの夫婦漫才」をどこかで復活させたいと画策している。

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