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サンフレッチェを支え続けて22年、足立修強化部長がクラブに残した財産とは?

2023.12.26

サンフレッチェ情熱記 第8回

1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第8回は、2023シーズン限りでの退任が決まった足立修強化部長が、クラブのために残した多くの財産について考えてみたい。

 2001年秋、サンフレッチェ広島の織田秀和強化部次長(現ロアッソ熊本GM)が笑顔で話しかけてきた。

 「最高の補強ができた」

 「え? どんな選手?」

 「いや、選手じゃないんじゃけどの。まあ、発表を待ってや」

 織田秀和という名GMが言った「最高の補強」、それが足立修スカウト(後のサンフレッチェ広島強化部長)だった。

コワモテ強化部長のルーツ

 オールバック、鋭い眼光、ピシッとしたスーツ、ポケットチーフ。広島といえば「仁義なき戦い」だが、その世界を地でいくような雰囲気は、今も昔も変わらない。かつて浅野拓磨(現ボーフム)をスカウトした時、彼の母親は足立のワイルドな出で立ちに驚き、「本当にサンフレッチェのスカウトの方なのかしら?」と思ったという。

 島根県が生んだ屈指のSBは近畿大の2年になった時のこと、1年間対外試合出場停止・関西サッカーリーグ3部降格という、とんでもない試練に直面した。審判の判定に不服をもった一部の選手たちが競技場の施設を破壊したことが要因で、責任をサッカー部全体が負うことになったのだ。足立自身はその行為に関わっていなかったのに、公式戦に出るチャンスを奪われてしまったのだ。

 ある選手は大学をやめ、またある選手は海外でのサッカーに活路を求め、そしてある選手はプロ入りを決断。だが足立と彼の同期は、この苦境で結束する。

 「関西リーグは半期ごとに入れ替えがあるんだ(当時)。頑張れば、4年の春には1部に戻れる。やってやろうぜ」

 失地回復に全力を尽くした足立と仲間たちは、4年時には1部に戻り、総理大臣杯に出場。自信を持って彼はプロとして京都(当時JFL)に加入する。1995年の時だ。

 だが、彼にはさらに試練が待っていた。プロで1年プレーした後、クラブから通知されたのは「来季の年俸0円」。つまり、クビである。

 どうしよう。これから、どうすればいいんだ。
 
 プロであれば、受け入れざるを得ない現実。だが、希望を持ってプロの世界に飛び込んだ若者にとっては、あまりに辛いこの現実、絶望を感じるのは当然のことだ。

 だが京都は、彼を放り出そうとしたわけではなかった。

「フロントに入って、仕事をしてくれないか」

 選手としては1年で見切りをつけた男を、どうしてクラブに残そうとしたのか、それは今となってはよくわからない。ただ、足立にとっては、ありがたい話だった。

 選手としては、やっていけないということだから、引退するしかない。ただ、サッカーには関わっていきたいし、指導者を目指そう。そのためには、フロントで社会勉強をするのは悪くない。

 足立は現場のマネジャーとして、再出発した。だが、現役時代のプライドが抜けきれず、泥くさい仕事をやっていくことに抵抗感がどうしても残る。自分より若い選手に「これ、洗濯しといて」と言われ、感情が沸点に到達しそうになったこともあった。

今季限りでの退任が決まっている足立修強化部長(Photo: Kayo Nakano)

無名スカウトゆえの「発想の転換」

 半年後、京都のGMだった松本育夫から、スカウトの転身を告げられた。だが、当時の京都にはスカウトの専門職がいない。足立は何もわからないまま、現場に飛び出さざるを得なかった。

 選手としても指導者としても実績のない当時の彼を、相手にしてくれる強豪校の監督は少なかった。名刺を何度渡しても名前を覚えてもらえず、その名刺を飲みの席でのコースターがわりにされたこともある。

 だがここで彼は、発想を変える。

 「強豪ではなく、若いけれど意欲的な活動をされている先生方に、会いにいこう」

 足立は、動き方を変えた。この時の彼を助けたのは、自身の経歴。東海大五高(現東海大福岡)時代に平清孝監督(現岡山学芸館高総監督)の指導を受けていた経験が幸いしたのだから、人生はわからない。

 「そうか、平先生の教え子か!なら、大丈夫だな」

 当時の有望な若手監督たちが、そう言って足立を受け入れてくれたのだ。

 この時、若きスカウトを助けてくれた指導者は、例えば楢崎正剛や柳本啓成を育てた奈良育英高の上間政彦監督。市立船橋高の布啓一郎監督。前橋育英高の山田耕介監督や星陵高・河崎護監督、大津高・平岡和徳監督もそう(所属は当時)。錚々たる面々が、足立とともに夢を語った。彼のスカウトとしての足場は、この時期に作られたと言っていい。

 1999年、神戸に転身。北本久仁衛や岩丸史也などの名選手を獲得するなど実績を残した。一方で、当時は広島のスカウトとして仕事をしていた織田秀和と交流を深める。そして2002年から、サンフレッチェのスカウトとして、彼は着任することになったわけだ。

「発掘」で広島の黄金期を支えた一翼

 彼の目利きは、さすがだった。

 青山敏弘、柏木陽介(広島ユースへのスカウト)、清水航平、そして浅野拓磨ら、広島の希望となった選手たちを次々と発掘。移籍市場でも、柏好文や佐々木翔、稲垣祥やドウグラスらの実力者を広島に呼び込んだ。広島はアカデミー育ちのエリートと足立が発掘した俊才の2本柱でチームを強化し、2012年からの4年で3回優勝という黄金時代を築いた。

 だが、この黄金期よりも足立の胸にグサリと突き刺さったことがある。

 それは負けた記憶。2017年、勝ち点1で辛くもJ1残留を果たした、あの苦闘の記憶である。

 「私が広島に来た2002年から約10年間と、初優勝を果たした2012年以降、さらに2015年以降では周囲の見方が全く変わりましたね」と足立修は言う。

 「2002年、そして2007年と2度も降格してしまったこともあり、初優勝の時には織田さんと『これで1勝2敗。もう一つ優勝して、ようやくチャラになる。ここからだな』って言い合っていたんですよ。それが2013年に連覇し、2015年は3度目の優勝。さらにクラブW杯でも3位が取れた。もう本当に最高潮にきたなと感じたのを覚えています。

 2015年に優勝した後、その年から社長を務めていた織田さんと、当時の監督だった森保(一)さんの3人で話したことがあるんです。これからこのクラブは、大変なことになる。優勝が基準になってしまったから、と。それはもちろん、我々がハードルを上げてしまったんですけどね(苦笑)。

 だからあの時、3度目の優勝を喜んでいながら、本音としては怖かった。このクラブはこれ以上、どこに行くんだろうって。周りからのハードルも高くなるし、もう優勝争いすることが当たり前になってますから」

 2016年シーズンを前に、前年優勝の立役者であるドウグラスが中東に移籍した。そもそも彼は徳島からの期限付き移籍であり、広島から出ていくことは十分に予測できていたため、足立は当時清水でプレーしていたピーター・ウタカ(現甲府)の調査を行い、移籍決定とともに動いて彼を獲得した。夏には浅野拓磨がアーセナルへの移籍が決まったが、アンデルソン・ロペス(現横浜FM)の獲得に成功。2016年オフには大エース・佐藤寿人が名古屋へ、得点王に輝いたウタカもFC東京に移籍してしまったが、足立はテクニックに秀でるフェリペ・シウバと元日本代表FWの工藤壮人を獲得し、戦力を落とさないように工夫を重ねた。

「あの時は正直もう……」2017年に経験した悪夢

 だが2017年、広島は信じがたい事態に陥った。開幕11試合で1勝3分7敗9得点18失点。第11節試合終了後、5-2で広島に勝利したC大阪の選手たちが口々に「広島、やばいね」と言ってドレッシングルームに消えた。それほど、チームの状態は壊滅的だった。

 第12節、残留争いのライバルである甲府には勝利したものの、次の磐田戦には引き分け、その後は4連敗。

 そして運命の7月1日、埼玉スタジアムでの浦和戦を迎える。

 この試合は、ドラマに溢れていた。浦和が前半に2点を先行。しかし後半開始早々、皆川佑介が1点を返して反撃の狼煙をあげると、後半から投入されたアンデルソン・ロペスが2得点。その試合までの16試合でわずか2勝、10得点しか奪えていなかった広島が2点差をひっくり返したのだ。

 いける。いけるぞ。

 だが、足立をはじめとした広島側のそんな思惑を、浦和は破壊する。

 85 分、ズラタンに同点ゴールを食らうと、90+2分には関根貴大のスーパープレーが飛び出し、浦和に逆転を許してしまった。赤い熱狂の中、紫の選手たちは立ち上がることもできなくなった。

 この直後、クラブは森保監督の退任を発表。横内昭展(現磐田監督)を1試合だけのリリーフ監督として繋いだ後、広島創設期のメンバーでもあるヤン・ヨンソンを新監督に迎えた。一方で選手補強にも手を打った。パトリックやネイサン・バーンズらストライカーを獲得し、サイドには椋原健太、最終ラインに丹羽大輝(現アレナス・クルブ・デ・ゲチョ)。実績を持つ選手たちを用意し、サバイバルを勝ち抜くための準備を重ねた。

 ヨンソン監督はソリッドな守備を軸としてチームを立て直そうと努力を重ねた。その結果、就任以降の10試合で4勝4分2敗と巻き返しに成功。順位も15位と降格圏からの脱出を果たした。

 だが第29節以降、せっかく立て直したはずの守備が崩れ、3試合で6失点、そして3連敗。再び降格圏の16位に転落してしまった。

 この間、SNSを中心に、2015年から強化部長に就任していた足立への激しい批判・非難が展開される。罵詈雑言が飛び交い、人格を否定する言葉も並んだ。それまでの実績や仕事ぶりまで否定され、目を背けたくなるほどの文字の刃が彼の心身を切り刻んだ。

 「あの時は正直もう……」……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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